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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
7.葵暦196年の晩春 葵陽

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8.比翼の鳥だなんて、まっぴらだ!


 瑞光門を出ると、不世の部下が馬を用意して待っていた。

 蒼潤は邸を出た後、葵陽の外郭門も出たという。そうと聞いて峨鍈は慌てて馬に跨り、手綱を握った。

 馬の脇腹を蹴って走らせると、不世と彼の部下も追って来る。大通りを行き交う者たちを避けながら駆けて、外郭門を抜けた。

 砂地を南に向かって駆けて行くと、やがて草地になる。

 更にひたすら駆け続けると、草原に行き着き、見渡す限りのあおに包まれた。

 澄み渡った空に、薄く流れた雲がまるで白い鳥が翼を広げたように風にたなびいている。


(どこだ?)


 喘ぐように胸元を握り締めて峨鍈は辺りを見渡した。

 蒼潤が塀を越えて邸を出たと聞いてから、自分を纏う空気が薄くなったように感じる。まともに呼吸することができず、苦しくて堪らない。

 不安感と焦燥感が胸を激しく打ち、ドクドクと心臓が跳ね回っていた。


「殿、あちらに」


 不世が指し示した方に視線を向けると、遠目に小さく、青々とした草に埋もれている蒼潤の姿が見えた。

 峨鍈は、ぞっとする。蒼潤が空を仰いで倒れているではないか!

 大いに慌てて峨鍈は馬を駆けさせた。


「天連!」


 蒼潤までの距離をもどかしく思いながら馬を急がせると、蒼潤がむくっと上体を起こして峨鍈の方を振り返る。

 その瞳が辺りを彷徨うように揺れていたので、峨鍈はもう一度声を張り上げて蒼潤を呼んだ。

 蒼潤が峨鍈を見つけ、驚きと、そして、気まずさを表情に浮かべる。峨鍈は蒼潤の前で馬の足を止めると、ひらりと馬の背から降りた。


「どうした? 何があった?」

「何が?」


 蒼潤は立ちあがり、心底意味が分からないというように怪訝顔を峨鍈に向けてくる。


「馬から落ちたのか?」

「はぁ? 俺が落馬なんかするかよ」

「ならば、なぜ倒れていたんだ?」

「寝転んでいただけだ。それより、お前はなんでこんなところに?」

「お前がいなくなるからだ!」


 蒼潤を見つけて安堵する想いと、邸を抜け出したことへの苛立ちが込み上げて来る。

 表情を厳しくすれば、蒼潤は、むっと顔を顰めて峨鍈を見上げてきた。


「お前、俺を見張らせているだろう」


 当然だと、峨鍈は悪びれずに頷いた。


「お前に何かあったらと、気が気ではないからな。――馬はどうした?」

安琦あんきに預けてある」

「なら、俺の馬に乗れ。帰ろう」


 峨鍈は蒼潤の腕を取ってその体を自分の方に引き寄せようとする。すると、蒼潤は峨鍈の手を退けて、一歩後ろに下がり、峨鍈から距離を取った。

 拒絶されたと感じて峨鍈は、さっと顔色を変える。胸に冷水をかけられたような心地だった。


「天連?」

伯旋はくせん、俺はお前が嫌いだ」


 蒼潤が吐き捨てるように言ったので、峨鍈は息を呑んだ。

 今までも蒼潤には何度も『嫌いだ』と言われてきたが、そのどれもが心から峨鍈を毛嫌いして言っているのではないと理解している。嫌い、嫌い、と言いながら蒼潤は峨鍈の言葉に耳を傾けてくれるし、触れれば受け入れてくれたからだ。


 だが、今回のそれは今までのものとは響きが違うように感じて、蒼潤が心の内を峨鍈に見せてくれようとしているのだと感じる。

 ならば、自分も真剣に蒼潤と向かい合わなければならないだろう。

 峨鍈は真っ直ぐに自分を見つめてくる蒼潤の瞳を受け止める。すると、蒼潤は両手で拳を握り締め、再び口を開いた。


「お前がねたましいし、憎らしく思う。この身が、実に口惜しい。――あの時、あの厩でお前と出会わなければ良かった。たとえ、互斡国から出ることができなかったとしても、お前の妻になどならなければ良かった!」


 峨鍈は蒼潤から視線を逸らさないまま、その眼を細める。


「そうすれば、お前とは敵として出会って、情を抱くことなく戦っただろう。それで、もし、お前に勝てなかったとしても、俺は無念だとだけ思って散れたんだ。そうしていたら、きっと、こんなにも心は痛まなかった。――悔しい。なぜ、俺は男になど生まれてきたのだろう。いっそ本当に女の身であれば良かった」

「天連、まだ玉座が欲しいのか?」 


 蒼潤は後ろ髪を左右に揺らすように頭を振った。

 峨鍈の手を取って互斡国を発った時から、峨鍈は蒼潤の髪を惜しんで、髪を切ることを禁じた。

 あれから5年が経ち、伸ばし続けた蒼潤の髪は緩やかに流れる川のように背中を覆い、腰まで届きそうである。

 葵陽に来る以前の蒼潤は、男装時には頭の高い位置で髪をひとつに括っていることが多かったが、今は顔の左右の横髪のみをまとめて結い上げ、髷をつくっている。そして、髷は巾で覆い、後ろ髪はそのまま流すように背中に垂らしていた。


(触れたい)


 風にたなびく長い髪が陽の光に透けて蒼く輝いて見えた。

 蒼潤が纏うあおを目にするたびに、蒼潤が欲しくて堪らなくなる。

 自分のすべてを捧げてもいい。どんなものと引き換えても自分のものにしたい。そう渇望させる魅力が蒼潤にはあった。

 しかし、蒼潤自身はそのことに少しも気が付いていない。苦しげに表情を歪めて蒼潤は言った。


「己の野心を叶えることのできる力を持つお前が妬ましい」


 疎かで、不憫な蒼潤が愛おしい。

 すぐにでも抱き締めて、口づけて、もう何も考えなくて良いのだと言ってやりたかった。

 蒼潤が欲するものは、自分が手を伸ばして掴み取ってやる。だから、お前は俺の傍にいればいい。


「いつだったか言ったはずだ。俺とお前は比翼の鳥なのだと。俺がこの手に握っている力はすべてお前のものでもある。俺とお前は互いに翼を分け合って生きているのだから」

「違う。お前の野心はお前のものだ。それを叶える力も、お前のものだ。――比翼の鳥だなんて、まっぴらだ!」


 蒼潤は叫ぶように声を荒げた。


「お前はお前で、俺は俺だ。第一、お前にはもう俺に流れる蒼家の血など不要だろう。俺の翼は折れた。もう飛べない!」


 駄々をこねる幼子のように体を震わせて、大きく頭を左右に振る。

 だが、峨鍈は分かっていた。駄々をこねているのは自分の方で、蒼潤は至極まっとうに『自分の力で、自分らしく生きたい』と主張しているだけだった。

 それでも、その願いだけは聞いてやることができない。

 峨鍈は、天連、と呼んでその細く頼りなげな体を抱き締めた。強く強く。抱え込んで、己の中に取り込まんばかりにきつく抱き締める。


「俺にとって、お前の価値はもはや血ではない。ただ、ただ、お前が愛しい。お前が何と言うおうと、お前は俺の片翼だ。俺と共にこの乱世の空を飛んでもらう」


 たとえ、この先どんなことが起ころうと蒼潤を手放さない。

 自分らしく生きられないのならば死にたいとさえ訴える蒼潤を無理矢理にでも自分の傍におく。

 それは、蒼潤が今まで耐えて生きてきた日々も、ひとりの男として生きただろう未来もすべて自分が奪うということだった。

 ならば、そのむくいは必ず自分が受けて、どれだけ月日が掛かろうともその償いを果たそう。


「……天連?」


 腕の中で蒼潤が沈黙しているので、峨鍈は焦りを感じて呼び掛ける。

 すると、蒼潤が、ぱっと顔を上げて峨鍈を見上げた。ぱちりと目と目が合う。

 いったい自分のどの言葉が蒼潤の胸に届いたのか、峨鍈にはさっぱり分からなかったが、蒼潤の瞳は迷いが晴れたように輝いていた。


 蒼潤が少し気恥ずかしそうに身を捩って、まるで強請ねだるように薄く唇を開く。

 峨鍈は焚きつけられたようにカッと頭に血が上り、蒼潤の腰に回した腕に力を込めると、ぐっとその体を引き寄せて口づけた。

 甘い。――それは味覚的なものではなくて、感情に訴えてくる甘さだ。

 歓喜が胸を満たして、ぐずぐずと疼く感覚が腰周りに纏わりつく。


(もっと。もっと欲しい。もっとだ、天連)


 だが、その時、蒼潤が眉を顰め、大きく顔を反らした。

 頬に手を添えて、逃げた唇を追い駆ければ、蒼潤が顔を背け、ぎろりと睨み付けてくる。


「やめろ」


 嫌だ、と言い掛けて、ぐっと喉を鳴らす。

 蒼潤の濡れた唇が艶めかしくて、惜しむように指先でなぞった。

 欲しくて欲しくて堪らない。味見程度に与えられれば、それだけでは到底満足できなくて、もっと欲しくなる。

 自分がいかに飢えていて、蒼潤を手に入れるために何でもできると知らしめてやりたくて峨鍈は笑みを浮かべながら蒼潤に言った。


「お前に玉座を捧げよう。ただし、青王朝の手垢にまみれた玉座ではなく、新しい玉座を」

「新しい? お前まさか――」


 蒼潤は驚愕して言葉を失った。

 それもそのはず。峨鍈は青王朝を滅ぼし、新王朝を興すと告げたのだから。

 そして、その新王朝の玉座を蒼潤に捧げる、と。

 あまりのことに顔を強張らせている蒼潤に、峨鍈は身を屈めてその耳元に唇を寄せて言った。


「お前以外の龍をすべて殺すことになる」

「……っ!?」


 蒼潤は恐怖心を露わにして峨鍈の腕の中から逃げようとしたが、峨鍈は逃がさなかった。

 強く抱き締め直し、初めて蒼潤に自分の野心を明かす。


「血や生まれなど、どうでも良いと思えるような国を、俺はつくる」


 その野心は、謀叛の企みに違いない。

 蒼潤が『峨鍈に叛心あり』と朝廷に訴えれば、たちまち峨鍈は捕らえられ、処刑されるだろう。

 それを承知で蒼潤に野心を明かしたのは、自分の命を蒼潤に預けたかったからだ。

 それでもし蒼潤が理由で自分が死ぬような目に遭ったとしても、それは自分が蒼潤を手に入れることができなかったということなのだから致し方がないとさえ思う。

 蒼潤がどこまで理解できるか分からなかったが、峨鍈は自分が目指す国の理想を語った。







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