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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
7.葵暦196年の晩春 葵陽
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7.よほどの事がない限り


司空」


 宦官特融の甲高い声で峨鍈は呼び止められた。

 振り返れば、皇帝付きの若い宦官が息を切らせて駆け寄って来る。


「陛下のおしでございます。ご案内致します」


 殿との、と孔芍が朝堂から出て来たので、共に蒼絃のもとに向かった。

 おそらく蒼絃の用件は、たくさんできてしまった空席のことだろう。

 まずは孔芍を尚書令と寺中に推薦する。蒼絃に否はないはずだ。杜圻が失脚した今、峨鍈だけが頼りのはずだからだ。

 ならば、他の後任についてもほぼ決定しているようなものだった。


 峨鍈と孔芍が蒼絃が待つ長楽殿の門をくぐった時だ。ドーンと皇城の外に設けられた刑場から大太鼓の音が鳴り響く。

 続けて、ドーン、ドーンと鳴り響いたそれは、杜圻たちの刑が執行される時刻になったということを告げていた。

 


 △▼



 すっかり暮れてから峨鍈は私邸に戻った。

 夕餉を取りながら家宰かさいを呼んで蒼潤の様子を聞けば、ずっと眠り続けていて私室から一歩も外に出ていないという。

 峨鍈は食事を終えると私室を出て、西跨院に向かった。


 西跨院の門の前に見張りが二人立っている。閂を外させ、門扉を開けさせると、門をくぐった。

 蒼潤の侍女が峨鍈の訪れに気付き、さっと顔を強張らせ、怯えた顔を隠すように深く頭を下げて言った。


「天連様はお休みになられております」

「構わない。顔を見に来ただけだ。お前たちは下がっていろ」


 蒼潤の私室に入ると、他の侍女たちが室の中にいて、峨鍈にいっせいに振り返った。

 先ほどの侍女が乳母に耳打ちし、乳母は他の者を促して室を出て行こうとする。

 乳母の娘も母親に肩を叩かれて室を出て行こうとしたが、不意に唇をぎゅっと引き結んで峨鍈に振り向いた。


「教えてください! 天連様は、どうなってしまうのですか!?」


 普段は峨鍈に対して恐れを抱いているかのように遠巻きにして体を震わせている娘が声を荒げてきたので、峨鍈は驚いてその娘を凝視する。

 たしか蒼潤はその娘を『春蘭しゅんらん』と呼んでいた。

 乳母が慌てて娘の袖を引き、室の外に連れ出そうとしたが、春蘭は峨鍈の正面に立ち塞がって動こうとしない。

 峨鍈は面白く思って、ニヤリと笑みを浮かべた。


「どうなると思うのだ?」

「昼間、謀叛人の処刑が行われたと聞きました。天連様は大丈夫ですよね?」


 処刑されるべき者たちは既にされていて、その中に蒼潤は含まれなかったのだと春蘭は思いたいのだ。

 その通りだと頷いてやるのは簡単だったが、春蘭の様子があまりにも必死で、峨鍈に掴みかからんばかりだったので、峨鍈はしばし揶揄からかいたくなった。


「刑を受ける者の数があまりにも多くて、すべて行うことができなかったようだ。明日も処刑場は賑わうだろう」


 事実、謀叛人の家族たちの刑が未執行である。

 罪状が謀反ならば、九族皆殺しと決まっているのだが、それではあまりにも残酷だと蒼絃が難色を示したからだ。

 蒼絃には己が郡王でも県王でもないことに負い目がある。それを理由に起きた謀反であれば尚更、蒼絃には非情な決断ができないのだろう。


(おそらく杜圻の娘は奴婢に落とされるが、生き延びるだろうな)


 でも、と言って春蘭が大きな瞳を潤ませて峨鍈を見上げてくる。


「天連様は郡王です。郡王はよほどの事がない限り、助命されます」

「謀反は、よほどの事だ」


 ぼろっと春蘭の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

 続いて、ほろぼろと涙を零して春蘭が泣き始めたので、峨鍈はギョッとする。

 昨夜、蒼潤のことを散々泣かせたことを思い出して気まずくなり、ええいっと大きく声を上げた。


「お前たち主従は本当によく泣くな。――いいか。天連は死なせん。俺があいつを護ってやる」

「……」


 ぴたっと涙を止めて春蘭が瞳を瞬かせる。

 信じ難いとでも言うような瞳で峨鍈を見上げてきたので、峨鍈は春蘭の頭に手を置いて、くしゃりと撫でた。

 そして、乳母と侍女たちの方に視線を向ける。


「お前たちも聞け。天連はおおやけに郡王だと認められたが、今後も変わらずあいつは俺の伴侶だ」

「伴侶……?」

「朝議の場でそのように公言してきた故、これは公の関係だ」


 え…、と乳母も侍女たちも短く声を漏らし、唖然とした表情を浮かべた。

 

「陛下や大勢の官吏たちの前でそのように仰せになられたのですか?」

「そうだ。深江郡王は俺の伴侶であるから謀叛に関与しているはずがないと言った。それを陛下が認めてくれた故、天連が罪を問われることはない」

「罪を問われない……? 本当に? ――良かったぁ」


 蒼潤は大丈夫だいうことを理解できたのだろう。春蘭がへなへなと座り込んで、両手で顔を覆って再び泣き始めた。

 他の侍女たちも多少戸惑いつつも胸の前を両手で抑え、ホッとした表情を浮かべる。

 殿、と言って乳母が峨鍈の前に膝を付いて、深々と頭を下げた。


「天連様を救って下さってありがとうございます」


 乳母に倣って侍女たちも同じように頭を下げたので、うむと峨鍈は頷く。

 それから片手を振って彼女たちを下がらせ、蒼潤の臥室に移動した。

 床帳たれまくを掻き分けて牀榻の中を覗けば、まるで人形のように横たわった蒼潤がこんこんと眠っていた。

 一日中ずっと眠っていたと聞いたが、その眠りからまだ目覚めそうにない。


「天連。――潤」


 峨鍈は床帳の中に潜り込み、蒼潤の隣に身を横たえる。

 杜圻と手を組み、峨鍈に背こうと決意した時から随分と気を張り詰めていたのだろう。

 そして、出し抜いてやろうとしていた相手に逆にしてやられた衝撃は、痛めつけられた肉体よりも大きな負担を心に与えたに違いない。

 絶望して、死にたい、殺してくれと何度も叫んだ昨夜の蒼潤を思い出して、峨鍈は蒼潤の頭を優しく撫でる。


「よく休め、潤」


 たくさん眠り、明日を生きる元気を取り戻したのなら瞼を開き、自分を見て欲しい。

 そう願いながら峨鍈はゆっくりと瞼を閉じた。

 思えば、昨夜は一睡もしていない。瞼を閉ざしたとたんに眠気が圧し掛かってきて、すぐに深い眠りへと落ちた。 

 

 眠ったという意識のないまま朝陽あさひを感じて目覚める。この日も参内しなければならなかった。

 朝議の予定はないが、司空府で裁かなければならない仕事が山積みである。

 峨鍈は臥牀の上で身を起こし、傍らで静かに眠る蒼潤を見下した。


「おい、そろそろ起きないか」


 よく休めとは思ったが、いくら何でも寝過ぎではなかろうか。

 そろそろ蒼潤の声が聞きたい。

 指先でその頬を突っつき、眉間を押す。どうにか起きないものかと悪戯してみるが、一向に目覚める気配がなかった。


「起きなければ、そのままヤるぞ」


 顔を近付けて耳元で囁いてみると、蒼潤が煩わしそうに、うーん、と小さく唸った。

 やっと目覚める兆しを見せたと思いきや、それっきり蒼潤は再び沈黙する。

 峨鍈は、やれやれと臥牀から足を下ろした。


 蒼潤を残して臥室から出ると、私室に戻り、朝餉を取り、朝服に着替える。

 司空府は朝堂院の一角にあるので、参内すると、瑞雨門をくぐって朝庭なかにわを東に進んだ。

 いくつか並んだ殿舎のひとつに入ると、先に来ていた卓岱たくたいが峨鍈に気が付き、さっと立ち上がって拱手した。


「早いな」

「峨司空こそ来られるのが早いです。上の者があまりにも早いと、下の者は夜明け前に参内しなければならなくなってしまいます」


 卓岱は峨鍈よりもいくらか年長で、呈夙が葵陽にやって来る以前から司空府で舎人として働いていた。

 舎人の職務は主に雑用である。

 卓岱は20年近く一度も昇格することなく、忘れ去られたように司空府の雑用をこなしてきた人物だったが、峨鍈は彼の勤勉さと能力の高さを見抜き、司空長史に抜擢した。

 長史とは補佐官のことで、属吏の筆頭である。つまり、司空府においては、卓岱が峨鍈の次ということだ。


「それで、罪人らから没収したもので清河の堤防を補強できそうか?」

「おつりがくるくらいですよ」

「ほう。それはまた随分と貯め込んでくれたのだな。あいつらに感謝しなければならない」

「感謝するのは彼らの方でしょう。貯め込んだ家財を民に還元し、善行を積むのです。あの世での扱いもマシになっているかもしれませんよ」

「なるほど。あいつらの善行の手助けをしたことになるのか」


 はははっ、と峨鍈は愉快そうに笑った。

 それからしばらく経つと、司空府の属吏たちが次々に出仕してくる。皆、自分よりも早い刻限から職務を開始している峨鍈の姿を見ると、さっと顔色を変え、慌てて自分の席に着いた。

 なるほど、卓岱の言う通りだと峨鍈は思う。自分の出仕時刻が早ければ早いほど、下の者たちは気を使ってしまうらしい。

 しかし、峨鍈にはやるべきことが多く、それらを一刻も早く片付けて邸に戻り、蒼潤の顔が見たかった。


殿との


 不意に呼ばれて、峨鍈は書簡から顔を上げる。

 執務室の入口に視線を向ければ、不世が居心地の悪そうな様子で跪き、峨鍈を呼んでいた。


「どうした?」


 峨鍈は席を立って不世のもとに歩み寄りながら問う。

 

「邸からの報せです。郡王殿下が目覚められたそうです」

「そうか」


 ホッとしたように応え、それでと続きを促した。


「食事を取られた後、甄殿を召されて、共に遠乗りに出かけられました」

「何? 邸を出たのか? 見張りはどうした!?」

「殿下は塀を越えられたのです。殿、殿下は気晴らしに出かけられただけです。殿のもとを去ったわけでは……」


 気色ばんだ峨鍈に不世は慌てて言葉を足したが、峨鍈はそういう心配をしているのではないと彼を一蹴した。


「あいつは丸一日寝ていたのだぞ。そんな体で馬に乗って何かあったらどうする!?」


 何かあったら……。

 そう思うと居ても立っても居られなくなり、峨鍈は執務室を飛び出した。




 

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