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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
7.葵暦196年の晩春 葵陽
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6.深江郡王は伴侶である


「ところで、陽慧ようけいはどうした?」

「寝てます。少なくともわたしが邸を出る時には寝ていました」

「昨夜は遅くまで動いていたのだろう。昼まで寝かせてやれ。――おい、待て。あいつはまだお前の邸で世話になっているのか?」


 瑞香門をくぐると、その先の正面が朝堂である。

 石段を上りながら峨鍈は呆れ顔で孔芍に振り向く。柢恵には冠礼を行った時に邸と使用人を与えたはずだった。


「あの子に私邸を与えるなど、鳥を鳥籠から放つようなものです。迎えに行くまで出仕しませんし、食事もろくに取らずに酒ばかり飲んでいます。どなたですか、あの子に酒を教えたのは?」


 俺だな、という言葉を峨鍈は呑み込む。


「衣もずっと同じ物を着ているのです。とても放ってはいられませんでしたので、わたしの邸に連れ帰り、これまで通り妻に世話をさせています」

「お前の細君には頭が下がるな」

「本当にそうですよ。あれほど手が掛かる者はそうそういません」


 朝堂に入り、峨鍈は孔芍と別れ、官位によって定められた位置に立った。

 昨日までは峨鍈の隣に杜圻が並んでいたが、彼が朝堂に足を踏み入れることは二度とない。そうと思うと、朝堂の空気が清々しく感じた。

 しばらくして先触れがあり、皇帝が宦官たちを引き連れて朝堂に入ってくる。

 昨夜の出来事を受けて緊急に招集された官吏たちは、皆どことなく怯えを含んだ表情を浮かべ、頭を垂れて蒼絃を迎えた。

 蒼絃もびくついた様子で玉座に座り、昨日から今朝にかけて姿を消した者たちを確かめるように朝堂を見渡した。


 蒼絃の傍らに立った中常侍が宦官特融の甲高い声で朝議の開始を告げ、昨夜の出来事の説明を求められて、峨鍈は蒼絃の正面に進み出た。

 杜圻らが謀叛を企てていたということは、昨日のうちに蒼絃に報告済みであったが、改めて事の経由を最初から説明する。


 杜圻は深江郡王の存在に目を付け、かつての呈夙ていしゅくのように相国しょうこくの座に着こうとしていた。

 相国とは、三公の上位に位置し、廷臣の最高職である。

 常設の官職ではなく、特別な功臣だけがその座に就くことができた。故に、呈夙は蒼絃を即位させて相国になり、杜圻は蒼潤を即位させて相国になろうとしていた。


 蒼絃に大きな失策はないが、この乱世において正当性の弱い皇帝では心もとない。杜圻は周囲にそのように説いて同志を集め、血判状を書かせた。

 その血判状に名がある者たちは皆、昨夜のうちに投獄され、斬首が決定された。


 刑は、この朝議の後に執行される。

 これはけして峨鍈が急かしたわけではない。謀叛であることは明らかで、血判状という確かな証拠があるため、冤罪の可能性が皆無だからである。

 そして、古来より謀叛の罪は斬首と決まっていた。取り調べたり、刑罰を議論する余地がないので、直ちに執行されるというわけだ。


「血判状に名のない協力者がいるかもしれません。廷尉府で調査を行うべきですが、楼松ろうしょうもこの件に関わっているため、廷尉府は避けるべきでしょう」


 廷尉である楼松を始め、廷尉正ていいせい廷尉左監ていいさかんも今回の謀叛に関わっていた。

 では、誰にこの重大な事案を任せれば良いのかと蒼絃が中常侍を通して問い掛けてきたので、峨鍈はチラリと展璋てんしょうに視線を向けた。

 武官の最前列に立つ展璋は、軍事の最高責任者である太尉だ。

 大尉は三公のうちのひとつで、司徒の杜圻が投獄された今、司空の峨鍈と同格に立つ者はもはや展璋しかいなかった。


「展太尉は公正な方です。展太尉をおいて他に相応しい方はいないでしょう」


 杜圻らの謀叛を告発したのは峨鍈なので、峨鍈自身が調査を担当することはできない。無理を通せないわけではないが、疑心を残さないためにも避けるべきであった。

 同様に、峨鍈の一派である者たちにも任すことはできない。ならば、展璋に任せることが最善だった。

 展璋ならば、黒を白にひっくり返すような真似はけしてしないからだ。


 峨鍈の推薦を受けて展璋が蒼絃の正面に進み出て、峨鍈の隣に並んだ。

 蒼絃に向かって拱手すると、僅かに峨鍈の方に体を傾けて言う。


「陛下の御下命とあらば、お受けいたします。ただひとつ、峨司空に伺いたい。――この謀叛に深江郡王はどのように関与されておられるのか」


 ざわりと朝堂がどよめいた。蒼絃も、さっと顔色を変えて体を強張らせる。

 峨鍈も僅かに展璋の方に体の向きを傾けて、すぅっと細めた眼で展璋を見やった。


「深江郡王はなんら関わりがない」

「しかし、杜圻らは深江郡王を担ぎ上げようと謀叛を起こしたのだ。無関係であられるはずがない」

「勝手に名を使われただけだ。深江郡王はこのことを承知していない」

「真実どうであるかを調べる必要がある。深江郡王は峨司空の邸にいらっしゃると聞く。引き渡しを求める」

「不要だ!」


 峨鍈が撥ねつけるように言えば、展璋は眉を吊り上げて峨鍈を睨み付けた。


「峨司空が深江郡王を庇い立てする理由は何か。真実、関与されていないのであれば、きちんと取り調べてこそ、その身の潔白が明かされよう」

「その必要がなく潔白だ!」


 峨鍈は蒼絃に向き直る。膝を折って拱手し、深々と頭を下げた。


「陛下、申し上げます。深江郡王は今回の謀叛にいっさい関りがございません」

わたしもそうと信じたい。だが、潔白であるという証はないのであろう。ここは展璋の申す通りにすべきではないだろうか」


 身内のことであるため黙っていられなかったのだろう。蒼絃が中常侍を通さずに峨鍈に言葉を掛けてきた。

 峨鍈は顔を上げ、玉座に座る蒼絃を見上げる。


「恐れながら、陛下。潔白の証はございませんが、証人はおります。わたしです」

「峨司空が?」

「はい。わたしが深江郡王の潔白を証言できます。なぜなら、深江郡王はわたしの伴侶だからです」


 水を打ったように一瞬の間、朝堂の中が静まり返った。そして、その反動のようにざわめく。

 皆、己の耳を疑って隣の者と顔を見合わせ、聞こえてきた信じ難い言葉を確かめ合った。


「伴侶? 伴侶と言ったか?」


 それは蒼絃も同様で、信じられないとばかりに峨鍈を凝視し、まるで正解を求めるように朝堂に並んだ官吏たちを見渡した。


「峨司空、それはいったいどういう意味なのだろうか。深江郡王は、郡主のように美しかったが、郡王なのだろう?」

「はい、深江郡王は確かに郡王であられます。ですが、わたしにとって、あの方が郡王であっても郡主であっても関係がないのです。あの方がわたしの伴侶であること、それが事実であり、真実です」


 峨鍈が話し始めると、再び朝堂は静まり返り、官吏たちは全身を耳にして峨鍈の言葉に固唾を呑む。


「わたしの伴侶である限り、深江郡王が謀叛に関わることはあり得ません」


 峨鍈の伴侶でありながら皇帝として即位することなど不可能だからだ。

 峨鍈に嫁いだ蒼潤はもはや峨家の者だ。蒼家の出であることは変わらなくとも、蒼家の者ではなくなっている。

 それに加え、蒼潤が峨鍈の伴侶であるのなら、杜圻らを弾劾している峨鍈の伴侶がそれらに関わっているはずがない。

 伴侶が謀叛に関わっていれば、自らも罰を受けるというのにその罪を弾劾するはずがないからだ。

 

 しかし、と言って、展璋が納得のいかない想いを表情に露わにして異を唱えようとする。

 すると、蒼絃が、さっと片手を上げた。


「峨司空は、深江郡王の身を守るために偽りの婚姻を結んだと聞いたが? 今もまた、深江郡王を庇うために偽りを申しているのではなかろうか?」

「偽りではございません。深江郡王とわたしは想いを交わし、寝所を共にしております。お疑いであれば、侍医を遣わしてください」

「な…っ」


 峨鍈の露骨な物言いに蒼絃の頰が赤く染まる。

 侍医に深江郡王の体を診させ、情事の痕跡があるか調べさせても構わないと言っているのだ。

 蒼絃は大きく首を左右に振った。


「そこまでする必要はない。峨司空を信じよう。――展大尉」


 蒼絃は展璋に向き直る。


「聞いての通りだ。深江郡王を取り調べる必要はない。今回の謀叛に皇族はいっさい関与していない」

「御意」


 展璋が拱手したのを見て、蒼絃は疲れたようにため息をついて傍らの中常侍に視線を送った。

 中常侍が閉朝を告げて、蒼絃は朝堂を去っていった。

 

 峨鍈も朝堂から出ると、その入口で張隆ちょうりゅうが待っていて、石段を下りながら調べさせていたことの報告を受ける。


「河環郡主は、昨夜のうちに玉泉郡主を連れて葵陽を発ったようです」

「そうか。ならば、行き先は琲州だな」


 河環郡主――蒼彰は、蒼邦と婚約している。

 蒼邦は琲州刺史に任じられると、その日のうちに葵陽を発って琲州に向かっていた。

 その素早過ぎる旅立ちは、まるでこれから起こることを予見して葵陽から逃げるかのようだった。


(蒼邦か)


 ――妙に気になる男である。

 蒼彰が夫に選んだと聞いたからだろうか。

 血判状には蒼彰の名も蒼邦の名もなかったが、杜圻の謀反の裏で蒼彰が暗躍していたのは間違いない。

 本心を言えば、峨鍈はこの機に乗じて蒼彰も捕らえてしまいたかったが、蒼絃が皇族は謀叛に関与していないと公言したので、郡主である蒼彰の関与を暴くことは不可能だった。

 それに、蒼彰の身に何かあれば蒼潤は峨鍈を許さないだろう。


(天連から遠ざけることができたのだから、それで良しとするか)


 続けて張隆は、寧山郡王が葵陽に入る手前で杜圻の投獄を知り、自領に引き返したことを報告した。

 寧山郡王が蒼絃を見限って、娘を蒼潤の妃にしようとしていたことも、峨鍈は昨日のうちに蒼絃に報告している。

 血判状に名がなくとも寧山郡王が謀叛に関与していることは明らかであったが、蒼絃には寧山郡王を捌く意思がない様子だった。

 実のところ、『皇族はいっさい関与していない』とは寧山郡王に向けての言葉だったのだろう。





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