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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
7.葵暦196年の晩春 葵陽
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4.玉座を得て、その先は?


 ずぶ濡れとなった二人が峨鍈邸に着くと、峨鍈は蒼潤の体を馬から下ろして再び抱き抱え、そのまま門の中に入る。

 邸の奥へと進んでいく途中で、奥から出てきた侍女が湯殿よくしつの支度ができていると告げたので、峨鍈は真っ直ぐ西跨院に向かった。


 西跨院の門をくぐる。後ろを付いてきていた側使いに、門の扉にかんぬきを差すように命じて人払いをする。

 門扉が閉められ、閂が差される音が響き渡ると、腕の中で蒼潤が身を竦めた気配がした。


 中庭を進み、泥のついた足で回廊に上がる。そのまま湯殿に入ると、浴槽の湯気が濛々と立ち上がっていた。

 濡れた衣をすべて脱ぎ捨てると、峨鍈は蒼潤を抱えて湯の中に、ざぶりと体を沈めた。


「触れられたところはどこだ? 洗ってやる」


 先ほど目にしてしまった光景が脳裏にこびりついてしまい、離れなかった。 

 杜圻の娘が蒼潤の体に覆い被さり、その肌に自分の肌を触れさせている光景である。

 蒼潤の体を隅々まで洗わなければ、それを記憶から消すことができないとばかりに峨鍈は蒼潤の細い肩に、首筋に手を伸ばす。

 すると、蒼潤はその手を退けて、峨鍈の腕の中から抜け出し、浴槽の隅に移動した。


「天連」


 こちらに来いと言いかけて、蒼潤の様子に違和感を覚え、峨鍈は口を閉ざす。

 蒼潤は膝を立てて座り、立てた膝に額を押し付けてつぶやいた。


「……できなかった」

「何のことだ?」


 蒼潤は顔を伏せたまま、こちらを見ようとしない。

 ゆらゆらと揺れる湯面に向かって、ぽつりぽつりと言葉をこぼす。


「お前は以前、女の肌を見れば自然と気がたかぶって抱けると言ったが、俺は気持ちが冷え込んでいく一方だった」


 いきなり何の話だと驚いたが、蒼潤は自分の苛立ちを察してそんなことを言い出したのだと理解する。

 

「女の肌は、触りたいように触ればいいのだとも言っていたが、特段、触りたいと思わなかった」

「そうか」


 ――つまり、できなかったのだ。


 そうと聞いて、峨鍈はとたんに心が軽くなり、次第に嬉しさが込み上げてきた。

 おそらく蒼潤は女が抱けない。

 元々、女体に興味がない様子だったが、今回のことが決定打になった。

 女に押し倒されて無理やり事を為そうとされた経験は、今後も蒼潤に女への恐れを抱かせるだろう。


 峨鍈は蒼潤の頭をくしゃりと撫でて、髷を結っている紐を解く。青い髪が蒼潤の肩を覆い、湯の表面で扇状に広がって揺らめいた。

 その青い揺らめきを目にして、自分が一転して上機嫌になっていることを自覚していた。

 だが、蒼潤はそのことに気が付いておらず、或いは分かっていて敢えて逆撫でしたいのか、峨鍈が今もっとも耳にしたくない名を口にする。


「岺姚をどうするつもりだ?」

「あの女の話はするな」


 ぴしゃりと言い返せば、蒼潤がハッとしたように顔を上げる。

 僅かに考え込むような表情をして、それでもなお、聞かずにはいられないのだろう。恐る恐るといった風に口を開いた。


司徒はどうなった?」

「謀反の罪で捕らえた」

「謀反?」


 蒼潤が心底しんそこ不思議そうな顔をするので、峨鍈は呆れる。


「皇帝を廃して、深江郡王を帝位に着けようとしていた」

「……」


 なるほど。蒼潤にとって玉座とは本来、己のものであったのだ。

 なので、蒼潤には帝位を簒奪するという意識はない。

 謀叛だという意識の薄い蒼潤だが、それでも多少なりとも後ろ暗い気持ちがあるようで、再び視線を伏せて呟くように言った。


「なら、俺も裁かれるのだな」


 謀反の罪で裁かれれば、その判決は死刑である。

 さすがに蒼潤もそれを知らないはずがないので、浴槽の隅で怯えたように体を縮めている。

 その姿がなんとも哀れで、すぐにでも抱き締めて、大丈夫だと言ってやりたくなった。

 天連、と呼び掛けながら峨鍈は蒼潤の髪を指でいた。


「お前は巻き込まれただけだ」

「違う。お前には俺に玉座を捧げるつもりがないようだから、俺が自分の手で掴み取ってやろうとしたんだ」


 蒼潤に手を退けられる。

 峨鍈は懲りずに再び手を伸ばして蒼潤の頬に触れる。その手も払われれば、もう一方の手で蒼潤の首筋に触れた。


「お前は、単に玉座に座ってみたいだけだ。帝位に着いて天下をどうしたいのか、玉座に座った後の考えは何もないだろう」

「そんなことはない!」


 ばしゃん、と湯を叩いて蒼潤が声を荒げる。

 そして、その両手で峨鍈の手を捕らえて、ぎゅっと握り締めた。


「俺が即位したら、青王朝を立て直す」

「どうやって?」

「不正を働いている官吏を罷免する」

「この国の官吏は皆、罷免されるな。朝廷のあらゆる機能が停止するぞ」

「一時だ。仕方がない」

「仕方がない? ――まあ、いい。それで、他に何をする?」


 問えば、蒼潤が峨鍈の両手を握り締めたまま、その手を湯の中に沈めて必死に言葉を探す。


「民の暮らしを豊かにする」

「どうやって?」

「税を軽くする」


 峨鍈は大きくため息をついた。これが蒼潤の限界なのだ。


「天連、よく聞け。何をするにも金が必要だ。官吏を働かせるためにも、橋や堤防を造るためにも、まず金だ。だが、金は降って湧くものではない。お前たち皇族は、金は無限に湧くものだと思っているのかもしれないが、そうではない。民から税を集めているから、朝廷に金があるのだ」

「そんなこと知っている。だから、その税を減らせば民の暮らしが楽になると言っているんだ」

「減らした分だけ朝廷の財は減る。朝廷でできることが減るが、それでいいのだな? 例えば、河が氾濫しても軍は出せぬかもしれないぞ」

「そうはならないように無駄遣いをやめればいいんだ。きっと無駄に予算をかけているところがあるはずだ」

「ほう? お前にそれが分かると?」

「帝位に着いたら調べるつもりだった」


 蒼潤が眉を吊り上げて言うので、峨鍈は苦々しく笑みを浮かべた。

 何も分かっていない。

 それを蒼潤に突き付けてやるべきだった。

 

「教えてやろう。無駄もあるし、不正もある。そして、それらを行っていたのは、杜圻どもだ。杜圻らの手を借りて玉座に着いたら、お前には何もできん」

「……っ!!」


 蒼潤の頬に朱が走って、それを隠すように蒼潤は、ざばっと湯から立ち上がった。


「もう出る」


 逃げるように浴槽を出て、用意されていたはだぎを羽織ると、蒼潤は湯殿から出ていった。

 逃がすものかと峨鍈も浴槽を出て、はだぎを羽織る。

 回廊を去っていく足音を耳で追いながら湯殿から出ると、蒼潤はまっすぐ自分の私室に向かっていた。

 その背を追って回廊を大股で歩き、蒼潤に続いて室に入ると、臥室の入口で追い付き、すぐさま蒼潤の腕を掴んだ。


「天連」


 2人ともろくに体を拭かずに湯殿を出てきたため、褝は湿り、髪からは雫が垂らしている。

 青い髪から滴った雫が蒼潤の頬に落ちて伝い、顎の先からポタリと床に落ちた。

 雫に色などついていないはずなのに、青いぎょくのように見えて、目で追ってしまう。

 峨鍈は雫が伝った跡をなぞるように指先で蒼潤の頬に触れた。


「やめろ」


 蒼潤が峨鍈の瞳を見上げて短く拒絶の言葉を放った。

 だが、峨鍈は構わず蒼潤の顎を掴んで、親指の腹で蒼潤の唇をなぞる。雫の散ったその姿があまりにも艶めかしくて、唇を合わせたくて堪らなかった。

 だが、その時、蒼潤が激昂して峨鍈の手を叩き払い、声を荒げる。


「お前とは離縁する!」

「何?」

「いいや、俺は郡王だ。お前との婚姻は無効だ! 金輪際、俺を女のように扱うなっ!」

「天連」

「嫌だ! 触るなっ!」


 蒼潤は峨鍈から距離を取り、己の身を護るように自身の体を両腕で抱え込んだ。


「いっそ殺せばいい! 謀反の罪とやらで、杜圻たちと共に処刑すればいいんだ。お前の邸の奥に閉じ込められて一生を終えるなんて、俺は嫌だ! お前の妻なんて、もうやってられるかっ! 俺は男として生きたい! それができないのなら、死んだ方がマシだ!」


 殺せーっ! と叫ぶ蒼潤を見下ろして峨鍈は胸を痛める。

 蒼潤にとって帝位とは、本来の自分の性を取り戻すことに等しいのだと、この時ようやく理解した。

 ただ、玉座に座ってみたかったわけではない。

 そこに座ることで、広く大勢に自分が男であることを示したいのだ。  


 だが、そうと知っても峨鍈は蒼潤に触れたかった。抱き締めたいし、口付けもしたい。ふたりで繋がりたいし、蒼潤の中に自分の種を放ちたかった。

 その行為を、蒼潤を女のように扱っているとされるのなら、蒼潤には悪いが、それを受け入れて貰わねばならなかった。

 だが、その代わり、それ以外のことならば、なんでも蒼潤の願い通りにしてやりたい。


 峨鍈は静かに蒼潤に歩み寄る。

 一歩前に進めば、蒼潤が怯えを露わにして一歩後ろに下がるので、素早く大きく数歩踏み出して、蒼潤を抱き締めた。

 

「お前を殺すつもりはない。そして、お前を手放すつもりもない」


 嫌だ、放せ、と言って蒼潤が自分の体から峨鍈の腕を引き剝がそうと、その腕を引っ張ったり、足をばたつかせたりして暴れるので、その体を抑え付けるように峨鍈は両腕に力を込める。

 今、力を抜けば、蒼潤を失い、もう二度と自分の腕の中には戻って来ないとばかりに蒼潤の体を抱き込んだ。


「お前は塀くらい簡単に乗り越えて邸を抜け出すではないか。今後もそうして抜け出していい。だが、俺はお前を奥に閉じ込めておきたいと思うし、そう思う気持ちをどうすることもできない」

「くそっ、放せ!」

「お前は朝廷に認められて郡王となった。俺もお前を男として扱おう」

「だったら、放せよ! 言っていることと、やっていることが違うんだよ!」






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