3.雷鳴が轟く夜
既に日没を過ぎて辺りは闇に包まれていたが、杜圻邸では煌々と松明が燃やされており、まるで暗闇の中の目印のようだった。
峨鍈は馬を止めて、兵士に杜圻邸の門扉を叩かせる。
雨音に負けないように激しく何度も門扉を叩くと、しばらくあって、訝しむように門扉が開いた。
さっと峨鍈が片手を上げる。それを合図に兵士たちが開いた門扉に押し寄せて、邸の中へと雪崩れ込んだ。
宴でもしていたのだろうか。主殿に杜圻の家族が集まっていた。
妻や娘の姿はないが、杜圻の弟や義理の兄弟などの顔がある。
彼らは土足のまま室の中に押し入ってきた兵士たちの姿を見ると、膳をひっくり返して驚いた。
逃げ隠れしようとする彼らを次々に縄に掛けながら、駆け付けて来た杜圻の私兵と剣を交える。
それらをすべて打ち伏して、縄で縛った杜家の男たちを中庭に出し、雨でぐちゃぐちゃになった地べたに座らせると、杜圻が峨鍈の姿を見付けて声を荒げた。
「これはいったい何のつもりだ!」
「杜圻、謀叛を企てた罪で捕縛する。これは勅命である」
「そんな馬鹿なっ。謀叛など……っ」
「よもや身に覚えがないなどとは言うまい」
峨鍈は回廊から中庭に降りると、縄に縛られ、泥で衣を汚しているというのに未だ強気に怒りを露わにしている杜圻に歩み寄った。
「深江郡主は俺の妻だ。俺はあいつのことなら、すべて把握している。お前があいつに渡した血判状は大いに役に立ったぞ」
「まさかっ」
ようやく杜圻は顔を青ざめさせて、声を震わせる。
「――郡王はわたしを罠に嵌めたのか」
峨鍈は肯定も否定もしなかった。ただ冷ややかに杜圻を見下ろす。
兵士たちが邸の奥から杜圻の妻や娘、孫たちを捕らえて連れて来た。皆、中庭に並べて、隠れている者が他にいないかを確かめさせた。
(やはりあの娘はいないか)
自分に嫁いできた杜圻の末娘のことだ。
彼女が峨鍈邸を抜け出したことは聞いている。不世の言う通り、蒼潤と共にいるのだ。
峨鍈は傍らに張隆を呼んだ。
「裏の邸を岳協が護っている。兵の数は千だ。五百しか与えてやれんが、岳協を捕らえて来い。くれぐれも深江軍の者たちとは戦うな。たとえ、剣を交える事態になっても殺してはならん」
「御意」
兵を率いて張隆が杜圻邸を出て行く。
残った兵をさらに分けて、半数をこの場に残し、百ほどの兵士たちを率いて峨鍈は杜圻邸の奥へと進んだ。
不世が見つけたという抜け穴に向かう。
園林に入って奥まで進むと、裏の邸の園林と壁で隔てて接している場所に行く着いた。
低木が茂っているため一見しただけでは気が付かないが、その壁に穴があいている。
杜圻が他人に行き来を知られないように蒼潤と会うために造られた穴に違いなかったが、蒼潤はこの穴の存在を知っているのだろうか。
そんなことを思いながら抜け穴を通り、園林を抜ける。
「殿、こちらです」
不世が姿を現して、南の棟に峨鍈を導いた。
南跨院の門扉の前を20人ほどの深江軍の兵士と甄燕が守っている。甄燕は峨鍈の姿を見るや否や、腰に下げていた剣を抜いて構えた。
ゴロゴロと空が唸る。
「安琦」
蒼潤よりも二つ年上の甄燕は、昨年、冠礼を行って『安琦』という字を得ている。
峨鍈は甄燕と対峙したものの、蒼潤の腹心である彼と剣を交えるつもりはなかった。
「そこを退け。俺はお前をかっている。怪我をさせたくはない」
甄燕は応えず、ギッと奥歯を噛み締める。全身を強く雨に打たれていたが、両手で剣を構え、まったく引く気配がなかった。
「お前は忠義者だ。だが、如何なる時でも主の言葉に従うだけが忠義ではない。主が道を踏み外そうとしているのであれば、それを諫めてこそ真の忠義だ」
深江軍を、とくに甄燕を避けようと思って抜け穴を使ったのだ。
蒼潤が大切に想う者を傷付けたくなくて、どうにか理解して貰いたいと言葉を重ねた。
「お前は賢いはずだ。よく考えてみろ。どうすれば、お前の主を生かすことができるのかを」
「……」
「既に杜圻を謀反の罪で捕らえている。他の者たちも捕らえられるだろう。すべて陛下も承知の上だ」
甄燕の瞳が揺れる。
それに気付いて、もうひと押しだと峨鍈は思った。
「このままでは、お前の主は死ぬ。だが、俺にあいつを任せてくれたら、俺が必ずあいつを生かす!」
「だけど、天連様は……」
「甄燕! お前は主を死なせたいのか!」
「――っ!!」
「そこを退け! 俺はあいつを生かしたい!」
ピシャリと空が割れて、辺りが束の間だけ明るく輝く。
甄燕はだらりと両腕を下ろして、門扉の前から退いた。彼に従って深江軍の兵士たちも武器を下ろして後ろに下がった。
門扉を破ると、騒ぎを聞きつけて蒼潤の乳母と侍女が彼女たちの室から中庭に飛び出してくる。
すぐさま蒼潤のもとに駆け付けようとしたので、峨鍈は兵士たちに命じて彼女たちを捕らえさせた。
土足のまま回廊に上がり、蒼潤がいると思われる室の中に押し入ると、甘い匂いが鼻をつく。
蒼潤が好む香とは明らかに異なっていて、しかも、それが臥室から流れてくると分かると、峨鍈は舌打ちした。
女の香だ。今まさに蒼潤の臥室に女がいることを示していた。
帘幕を払い除けて臥室に足を踏み入れると、牀榻の中で人影が跳ねるように動く。
ピシャリと稲光が夜空を駆けて臥室の中が一瞬だけ明るくなると、床帳の隙間から牀榻の中の蒼潤と目が合った。
蒼潤は一糸纏わぬ苓姚に組み敷かれていて、蒼潤自身の夜着も大きく乱れている。
事に及んでいた最中だったのだと分かり、峨鍈はカッと頭に血が上がった。
「……は、はくせん…」
蒼潤が細い声を漏らして自分を呼んだが、その声は雷の轟音と兵士たちが臥室に雪崩れ込んできた音で打ち消された。
峨鍈はつかつかと牀榻に歩み寄ると、未だ蒼潤の体の上にある苓姚の髪を、ガッと鷲掴みにする。
「きゃああああああああああーっ‼」
悲鳴を上げる苓姚の体を牀榻から引きずり降ろし、どさりと床に投げ捨てた。
「その女を捉えて連れて行け」
「はっ」
「いやっ、やめて! 郡王様、お助けくださいーっ! 郡王様ーっ‼」
苓姚は全裸のまま両手を振り回し、体を捩り、激しく抵抗していたが、兵士たちが5人がかりで彼女を拘束し、床を引きずりながら臥室を連れ出す。
「郡王様ーっ‼ いやあああああああーっ‼」
苓姚の悲鳴はその姿が視界から消えても、しばらく耳障りに響いていたが、やがて遠ざかり、雨音の中に消えた。
臥室に峨鍈と蒼潤のみが残り、雨音がざあざあとふたりを包む闇よりもさらに大きく辺りを包み込んでいる。
牀榻の中の蒼潤が身じろぎ、腰の横に両手をついて上体を起こした。
「伯旋……」
怯えたように顔を上げて、峨鍈を見上げて来る。
襟元を大きく開かれた褝から平たい胸が露わになっていて、その肌の白さが暗闇に浮いて見えた。
思わず、ごくりと喉を鳴らし、峨鍈は一歩前に足を踏み出す。
すると、蒼潤が体を竦めて、ぎゅっと瞼を閉じたので、峨鍈は握り締めていた剣を手放して蒼潤に駆け寄った。
カランという音が妙に大きく臥室に響き渡る。
「……っ‼」
力一杯に蒼潤の細い体を抱き締めた。
その体が震えていると気が付いて、峨鍈はますます両腕に力を込める。
真実はどうでもいい。峨鍈が描いた事実は、蒼潤は野心を抱いた杜圻に攫われて、利用されそうになっていたということだ。
杜圻の娘に襲われているところを峨鍈が救ったという筋書きなので、それに相応しい言葉を口にする。
「――無事か?」
出した声が掠れていて、峨鍈は描いた事実や筋書きとは関係なく、自分が心から蒼潤を案じていたことに気が付いた。
そして、それ以上に蒼潤を失ってしまうのではないかと大きな不安を抱いていたことを自覚する。
(大丈夫だ。俺の腕の中にいる)
その存在を十分に確かめてから峨鍈は体を離して、帰るぞ、と言って蒼潤の腕を引く。一刻も早く蒼潤を自分の邸に連れ帰って安心したかった。
ところが、蒼潤は無言で頭を左右に振る。
僅かに苛立って再び強く腕を引き、牀榻から立たせようとしたが、蒼潤は、ガクッと床に膝から崩れ落ちた。
「おい、立て」
「……立てない」
やっとの思いで絞り出したという風に蒼潤が言ったので、峨鍈は臥室に蔓延した甘い香りの正体に気が付いた。
香りのもとを探して見渡せば、床に燭台が置かれている。香炉は見当たらず、他に疑わしい物がないので、燭台の蝋燭が怪しいと見て、その炎を踏み消した。
おそらく蜜蝋に何か混ぜられていたのだろう。炎と共に立ち上った甘い香りがゆっくりと体を弛緩させ、やがて熱に浮かされたように快楽を求めるという品物に違いない。
峨鍈は屈み込むと、蒼潤の膝の裏に腕を差し入れ、その背を支えながら蒼潤の体を抱き上げた。
そのまま室を出ると、外は激しく雨が降っている。
雷は遠ざかっていたが、回廊に吹き込んでくる雨粒が蒼潤の髪を青く染めていく。
蒼潤を抱えた峨鍈が邸の正門を出ると、張隆が駆け寄ってきて峨鍈に告げた。
「岳協を捕らえました。季招、楼松、彭何、唐瓚、廉厳も捕らえたとのことです」
「良し」
「杜圻らを牢に移送します」
分かった、と短く答えて峨鍈は蒼潤を抱えたまま馬に乗る。
それから自分の袍を脱いで蒼潤の頭に被せると、その袍で蒼潤の体を包み込み、自分の邸に向かって馬を走らせた。