5.智か勇か、そして、美か。
「お耳汚しでしょうが、娘たちの演奏を聞いてやってください」
蒼昏の言葉を合図に郡主たちはそれぞれの楽器を構えた。
長女の蒼彰は琵琶を、次女の蒼潤は笛を、三女の蒼麗は琴を奏で、合奏する。
その曲の途中で不意に異音が響き、峨鍈は蒼潤に視線を向けた。蒼彰も蒼麗も、ちらりと蒼潤に視線を送る。
すると、再び笛が外れた音を響かせ、蒼潤が唇の端をくっと上げて小さく笑った。その笑みを目撃して、峨鍈も自然と笑みを零した。
三姉妹の母である桔佳郡主は、大層美しい女だという。
聞いた話によると、誰もがハッと息を呑むような美女で、その母親に似たという蒼麗は、幼いながら美しい顔立ちをしている。
しかし、峨鍈には蒼麗という選択肢はなかった。彼女が笄礼を行うのは2年以上も先だからだ。
笄礼を行っていない幼女を娶るわけにはいかず、互斡国まで来たというのに婚約のみで追い返され、また2年後に迎えに来いと言われる可能性があった。
三姉妹のうち、笄礼を済ませているのは、蒼彰のみだ。そのため峨鍈は蒼彰を娶るつもりで互斡国にやってきた。
蒼彰は賢いと評判だが、目を伏せれば表情が消え、見つめられれば心の奥底まで読まれそうな不安感を呼ぶ。
確かに賢いのだろう。賢さは顔立ちや立ち振る舞い、ちょっとした視線の動きで伝わってくる。しかし、賢い妻ならば、峨鍈には既に梨蓉という十数年連れ添った賢妻がいた。
最後に峨鍈は横笛に唇を添えている蒼潤に視線を向けた。
大きな瞳は少し潤みを帯びて、鼻も口も小作りな造形をしている。触れてみたくなるようなきめ細かい白い肌。丁寧に結われた艶やかな黒髪。
蒼麗のような華やいだ美しさはないが、ほっそりとした腰に、細い手首、細い首、首筋を視線でたどってちらりと見える鎖骨に妙な色気を感じた。
三姉妹が曲を奏で終えると、引き分け戸が左右からゆっくりと閉められた。
蒼昏が峨鍈に振り向き、静かに言葉を放つ。
「長女の彰は幼い頃から利発で、時に周囲の大人が舌を巻くようなことを申します。物事をよく見通しているので、わたしなどは彰に相談することが多いのですよ。三女の麗はあの通りの美しさです。まだ幼いですが、あのようにはっきりとした顔立ちをしています。あと数年もすれば、息を呑むような美女に成長することでしょう」
「そうですね」
「智、勇、美。――峨殿はどれをお好みですか?」
峨鍈は即答せず、まるで思案しているかのように装って口を閉ざした。
沈黙に耐えかねた蒼昏が慌てたように口を開く。
「歳を考えれば、彰がよろしいのでは? すぐにでも婚礼を挙げられます。お待ちくださるのなら、麗が良いでしょう」
「――では、阿葵殿は?」
「潤でございますか!?」
蒼昏は声を裏返させ、視線を漂わせた。その不自然すぎる蒼昏の様子に峨鍈は眉を寄せる。
「潤はどうにも……。峨殿は昨日、厩であの娘と会われたそうですが、あの通り、あの娘は嗜みがなく、とても嫁がせられません」
「そうであろうか? なかなかの笛の音でありましたが」
「いいえ! とんでもない! かろうじて笛は何とかなっていますが、他の楽器は非道いものです。琵琶も琴も……。ああ、琴など平気で踏みつけるような娘でございます。裁縫よりも武芸を好み、絹や玉よりも馬を好む娘なのです!」
「そのようですね」
峨鍈は厩でのこと、そして『塀を越えていく』と言って駆け去った蒼潤の後ろ姿を思い出して、くくくっと笑い声を立てた。
△▼
――もう一度、会えないものだろうか。
宴が催された日から2日が経っていた。
蒼昏への返事を先延ばしにして峨鍈は互斡国に留まり続けている。
その間、蒼彰と蒼麗が代わる代わる、或いは、二人一緒に幾度か酒と食事を運んできて、しばらく話をしたり、舞や唄を披露したりしてきたが、蒼潤は一度もその姿を見せることがなかった。
蒼潤はどうしたのかと蒼麗に訊けば、体調を崩しているのだと答える。蒼昏や蒼彰に尋ねても同じ答えが返って来るので、疑わしいと思いつつもそれ以上尋ねることができなかった。
峨鍈は不世を呼んだ。
すぐにどこともなく痩身の男が庭先に現われて跪く。峨鍈は客室から回廊に出て階に腰を下ろすと、辺りに視線を巡らせてから潜めた声で言った。
「深江郡主のことが知りたい」
「なかなか快活な方のようです。多くの者に慕われ、皆から護られておられます」
「そのようだな。他には?」
不世は峨鍈が使う間者組織の長で、戦時の敵情はもちろん、他にも各地からあらゆる情報を集めさせている。
不世は頭を深く下げたまま答えた。
「深江郡主は、ご自身の兵をお持ちのようです」
「なに?」
「その数は五百ほどですが、郡主自らが調練しているとか」
「あり得ん。本当に郡主なのか? ――それで、郡主の様子は分かるか?」
「ずっと奥院に籠っておられます。室から出て、中庭で遊んでいる様子を確認していますので、病ではないようです」
峨鍈は喉の奥で低く唸る。
「何か隠しているな」
「冱斡郡王は深江郡主を手放したくないのでしょう。しかし、その理由は、単に可愛がっているということではないように思います」
「では、何だと思う?」
「憶測でございますが、深江郡主は男子なのでは?」
峨鍈は笑った。
「確かに俺も初めは少年だと思ったが、着飾れば大したものだ。少女にしか見えん」
「しかし、あのような身なりをしていれば、少年に見えることも事実」
あのような身なりとは、厩で会った時の蒼潤の汚らしい姿である。
思い出して峨鍈は眼を細めた。今思えば、あの時の蒼潤は確かにひどく汚れていて、臭いも相当なものだったが、悩みなどひとつもないかのように笑い、全身で感情を表す姿は眩しいほどだった。
(それに、あの青い髪――)
果たして、目の錯覚だったのだろうか。
祖父から聞いた話によると、青王朝の龍は髪が青く変わるのだという。
龍とは、皇帝と皇太子、郡王のことで、郡主は龍ではなく『龍の揺籃』だと聞いたが、次の龍を産むという『龍の揺籃』も髪が青くなるとは聞いていなかった。
不世が、すっと顔を上げて、挑むような視線を峨鍈に向ける。
「命じて下されば、調べます」
「深江郡主の性別をか?」
「はい」
「いいだろう。――だが、俺が直に調べる。お前は機会をつくってくれ」
「承知致しました」
その翌日の昼を過ぎた辺りだった。不世が慌てたように峨鍈の前に現れて、蒼潤が厩に向かっていると告げる。
幸い、峨鍈が宛がわれた客室は厩からさほど離れていず、すぐに駆け付けると、ちょうど蒼潤が従者の燕と共に馬の手綱を曳いて門に向かうところだった。
「どこかに、お出掛けだろうか?」
声を掛けると、びくんと蒼潤は肩を揺らした。まるで悪戯を企てているところを見付けられた子供のような反応だ。
ぎこちなく振り返り、蒼潤は眉を顰めた。
「これは峨殿。このようなところに何用だろうか?」
先日、街で言葉を交わした時に比べて幾分か距離のある物言いだ。壁をつくられてしまったようで残念に感じながら、峨鍈は苦笑を浮かべて言葉を返した。
「阿葵殿の賑やかな声が聞こえたので、何事かとやって来ました。宴以来ですね。再びお会いしたいと思っていたのですよ」
燕が蒼潤を庇うように、峨鍈と蒼潤の間に立って、その小さな背に更に小さな蒼潤の姿を隠そうとしている。
しかし、峨鍈は構わず燕の姿など見えていないかのように蒼潤に話しかけてきた。
「初めてお会いした時もそのような格好でしたので、宴の時のお姿には驚かされました。本当に郡主様だったのですね」
一刻も早く外に遊びに行きたいのだろう。蒼潤は焦れたように手綱を握り、その苛立ちが伝わったかのように蒼潤の馬が嘶き、数歩足踏みをした。
馬の様子を一瞥し、峨鍈は素知らぬ顔で尋ねた。
「どちらに行かれるのですか?」
「狩りに」
「狩り? 阿葵殿は狩りを嗜まれるのですか?」
何が勘に触ったのか、蒼潤は峨鍈の言葉にムッとした表情をつくる。
「誰かと競って、負けたことはありません!」
「ほう。大した腕前をお持ちのようですね。是非、見せて頂きたい」
「ならば、共に来られるが良い」
阿葵様、と燕が窘める声を上げる。だが、蒼潤は片手を上げて、その声を制した。
そして、二人は身を寄り添って、こそこそと言葉を交わし、やがて燕が大きくため息をつく。
話が付いたのだろうと思い、峨鍈は下男に命じて厩から自分の馬を出させると、その手綱を曳いて蒼潤たちと共に宮城を出た。
大通りを南へと馬を歩かせて 外郭門を出る。城の外には青々とした草原が蒼い空の果てまでずっと続いていた。
仰げば、澄んだ空に白い雲が薄く流れていて、その雲の姿は、まるで翼を羽ばたかせる白い鳥のようだ。
風が、さあーっと吹き抜けて、足元の草花を順に揺らす。
蒼潤は一面の青い景色に吸い込まれるように馬を駆けさせていった。
まったく見事に馬を乗りこなしている。まるで馬と一体化しているかのようだと、峨鍈はその姿を眺めて感心した。
しばらく馬を駆けさせていた蒼潤が、徐々に馬の足をゆっくりにさせて燕が追って来るのを待つと、燕に向かって手を差し出した。
「燕、弓を」
燕が背中に担いでいた弓と矢を蒼潤の手に握らせると、蒼潤は再び馬を駆けさせる。
【メモ】
笄礼…女の子が15歳の誕生日に行う。髪結い式。
洗髪して、髪を結って簪を挿す。これを行って、成人したと見なす。
字もこの頃に貰える。
笄礼前の女の子の髪型は、二つに分けて三つ編みにした髪を頭の左右でお団子。
笄礼を済ませた少女は、ハーフアップのお団子に簪を挿す。後ろ髪を長く垂らす。
既婚女性は、髪は垂らさず、すべて結い上げてお団子。簪を挿す。
宴室…宴を催す部屋。引き分け戸。
引き分け戸…左右に開く戸。後漢時代には、たぶん、ない。