1.美しき龍
邸の正門に用意させた馬車に蒼潤を乗せると自分も乗り込んで、峨鍈は皇城に向かった。
峨鍈は赤い朝服を身に纏っていたが、蒼潤は側仕えの装いをしている。質素で、けして目立たないはずの格好なのだが、近頃の蒼潤はどんな装いをしていて峨鍈の目を惹いた。
伏せた瞳を覆う睫毛は長く、目の下に影を落としている。その影に憂いを感じて峨鍈は思わず喉を鳴らした。
昨夜も存分に触れたというのに、また触れたくなる。
滑らかな肌に、包み込んでくるような体温。甘い吐息に、時折漏らされる高い声。それらを思い出して堪らなくなる。
参内を取りやめて邸に引き返したい。蒼潤の細い手首を掴んで馬車から下ろし、自分の臥室でもいいし、蒼潤の臥室でも構わないから、牀榻の中に連れ込みたい。
ガタっと音を立てて馬車が止まり、峨鍈は我に返った。
もう着いてしまったのかと舌打ちをする。ここまで来てしまえば、邸に引き返すという選択肢はない。
皇城の大門を馬車に乗ったまま通ることは通常許されることではないので、その手前で馬車を降りて、瑞光門をくぐった。
石畳が敷かれた道をまっすぐに歩いて朝堂を目指す。
蒼潤は峨鍈の数歩後ろを歩き、初めての皇城に瞳を輝かせて、きょろきょろと辺りを見渡していた。
「昂」
峨鍈は足を止めて蒼潤が追いついて来るのを待つ。
蒼潤が皇城の広さに目を奪われて自分の方を見ないことに苛立ちを感じて、もう一度、峨鍈は蒼潤を『昂』と呼ぶ。
「昂。――夏昂!」
はっとしたように瞳を見開いて蒼潤が峨鍈に振り向いた。
黒々と艶やかな瞳に自分が映ったことに峨鍈は満足感を得る。ふっと笑みを零して、蒼潤の頬に手を伸ばした。
だが、周囲は峨鍈同様に朝議や己の職場に向かう者で溢れていた。あまりにもひと目があり過ぎて、峨鍈は己の手をぐっと握り込む。
「遅れずに付いて来い。こっちだ」
言って、再び歩みを進めた。
瑞雨門をくぐると、その先は朝堂院である。
大きな朝庭があり、その左右に殿舎が建ち並んでいる。さらにその奥にも殿舎があり、これらは庁舎であった。
朝庭を突っ切るようにまっすぐ進むと瑞香門があり、その先の正面に朝堂がある。
朝堂の左右の殿舎は、朝集殿だ。
そこは参集した官吏たちの待機場所であり、峨鍈はまず蒼潤を朝集殿に連れて行った。
官吏は大きく文官と武官に分けられるので、朝集殿も東側を文官が、西側を武官がと分けて使用されている。
さらに高官ともなれば、それぞれ個室を与えられているので、峨鍈は東朝集殿の己の室に蒼潤を連れて行くと、榻に座らせた。
「いいか。朝議の間はここで大人しく待っていろ。お前が謁見できるのは朝議の後だ」
「うん」
こくんと蒼潤があまりにも素直に首を縦に振ったので、峨鍈はため息をついた。
おそらく蒼潤は大人しく待ってはいない。峨鍈が室を出るや否や動き出すはずだ。
今ならまだ遅くはない。思い留まってくれないだろうか。
そう願う反面、それでは孔芍が準備してきたことが無駄になってしまう。これは朝廷の腐敗因子を一掃する絶好の機会なのだと、蒼潤を思い留まらせる言葉を口にできない己がいた。
峨鍈は思いを振り切るように室を出て、朝堂に向かった。
朝堂には既に朝廷の官吏たちが立ち並んでいて、司徒である杜圻も玉座に近い位置に立っている。峨鍈は彼に拱手して隣に立った。
「峨司空、娘は務めを果たしておりますか?」
杜圻がにこやかな顔をして話しかけて来る。
これから蒼潤を担ぎ上げ、謀反を起こそうとしている者の顔には到底見えない上に、峨鍈が彼の娘に指一本触れていないことを承知の上で尋ねてきていた。
実に見事な狸爺だ。
「まだ嫁がれて間もないので、ゆっくりと過ごして頂きています。毎日のように、ご実家に文を届けさせているようですね。寂しい想いをしていらっしゃるようなので、一度里帰りをさせても宜しいでしょうか」
「おお、それはありがたい! 妻が喜びます。あの子は老いてから授かった子なので、わたしも妻もとても可愛がっているのです」
「では、日が定まりましたら文を届けさせます」
そのまま返却してやると心の中で毒ついた時、先触れがある。
官吏たちが皇帝を迎えようと定められた場所に整列すると、皇帝蒼絃が朝堂に入ってきた。
蒼絃が玉座に座ったのを合図に朝議が始まった。
朝議は平穏に進む。
まず、三公、及び、九卿から報告があり、話合うべき議案があればそれについて意見を出し合った。
「葵陽は直に雨季を迎えます。清河の堤防の補強をする必要があるでしょう」
先んじて調査させたところ、崩れ落ちて、とても堤防の意義を成していない箇所がいくつかあった。
記録によると、昨年は事なきを得たが、その前年の大雨では清河の水嵩が増し、堤防を乗り越えて田畑や家屋を流したとある。
憂慮すべき事案であったが、それらは帝都の外郭壁の外の出来事であった。内側で安穏と暮らす高官たちにとってはまるで他人事である。
彼らの邸が流されることはないし、たとえ穀物の値が上がったとしても、彼らの口には変わらず届くからだ。
故に朝堂に並んだ彼らは口々に金がないと言った。
昨年は何事もなかったのだから緊急性はないだろう。そんなものに金を使うよりは呈夙が荒した葵陽の城内を整備する方が先だとする声の方が大きい。
しかし、峨鍈は蒼絃の正面に進み出て、堤防が決壊すれば田畑や家屋が流されること、収穫が減れば民が飢えること、飢えた民は死に、翌年以降に田畑を耕す者がいなくなることを説いた。
「しかし、財源がないと仰せである」
尚も難色を示した蒼絃の言葉を中常侍が告げたので、次に峨鍈は葵陽の経済を発展させる案を提言する。
「呈夙が粗悪な貨幣を大量に造ったため、貨幣の価値が下がっております。これを回収し、新たな貨幣を発行致します」
「さすれば、経済は安定するかとお尋ねである」
「何もせずにいるよりは良いと考えます」
すぐに金になる話ではない。成果を感じられるまでに数年、いや、十数年は掛かるだろう。
とても堤防の補強の財源にはならないが、そこは敢えて口にしなかった。
そもそも財源は他を当てにしている。杜圻たちを謀反の罪で捕らえた後に、その財産を没収してしまえば良いのだ。
そのためにも、杜圻たちには謀反を起こして貰わねばならなかった。
やがて報告をする者も進言する者もなくなったので、蒼絃の脇に控えた中常侍が閉朝を告げようとした。――その時だった。
俄かに杜圻が進み出て、仰々しい動作で拱手する。
「陛下、恐れながらこの場にて謁見を望んでいる者がおります。陛下に縁ある方でございます」
ほう、と蒼絃が小さく声を漏らし、興味を惹かれた様子を見せたので、杜圻がにまにまと笑みを浮かべた。
呈夙によってことごとく親兄弟を殺され、親族を遠ざけられた皇帝はひどく孤独な身の上だった。
縁があると聞けば、興味を抱かないはずがなかった。
傍らに中常侍を手招くと、その耳もとに囁く。蒼絃の言葉を受けた中常侍が声高々に告げた。
「陛下は謁見を許可された。お通しせよ」
朝堂の開け放たれた入口に人影が立つ。逆光でその姿は定かには見えなかったが、それが何者であるのか、峨鍈には分かっていた。
来たか、と心の中に呟き、落胆する想いと思惑通りだという想いが交錯する。
人影が殿舎の影の中に入り、その姿が明らかになった。
蒼潤。――深江郡主である。
しかし、峨鍈はその姿に唖然とした。峨鍈が知る蒼潤の姿とは全く異なっていたからだ。
深江郡主は黒地に蒼い龍の刺繍が華やかに施された絹の長袍を纏い、結い上げた髷に冠を被せている。
その若々しくも瑞々しい貴公子の姿は峨鍈の目を奪い、心さえも強烈に惹きつけて焦がした。
衣擦れの音が近付いて来て、峨鍈はごくりと喉を鳴らす。
いつもの男装とは違う。
先日、梨蓉が渾身の出来だと言った女装姿の時のような美しさだが、それともまったく異なる。まるで人ではないような美しさだ。
蒼潤が美しく成長したことには気が付いていたが、これほどまでなのかと、蒼潤が青龍の末裔であることを突き付けられたような気がした。
衣擦れの音と共に深江郡主が玉座に向かって進んで来る。
蒼絃も玉座から僅かに腰を浮かせて男装の郡主に魅入っていた。突如現れた美しき貴公子が自分のすぐ足元にたどり着くのが待ち遠しいという顔をしていて、峨鍈は苛立ちが込み上げてくる。
朝堂に立ち並んだすべての官吏たちが蒼潤の動きを目で追い、その姿を呆けたように見つめていることにも、峨鍈は気に喰わなかった。
(俺の龍だ)
駆け寄って、あの腕を、あの肩を掴んで、自分の両腕の中に閉じ込めたい。
囲って、独占して、誰の目にも触れさせたくない。そんな強い衝動を、ぐっと耐えて峨鍈は蒼潤が玉座の前で流れるような動作で膝を折る様子を見守った。
「互斡郡王が子、蒼潤でございます。皇帝陛下にご挨拶申し上げます」
「くるしゅうない」
拱手した蒼潤に蒼絃は玉座から身を乗り出して、自ら蒼潤に声を掛ける。
慌てたように中常侍が諫める言葉を放ったが、蒼絃はそれを片手を振って退けて自ら蒼潤に問い掛けた。
「互斡郡王――斡太上皇の子と言えば、郡主が3人だったと思うが、貴方の母君は側妃だろうか?」
「いいえ、陛下。わたしの母は桔佳郡主でございます」
蒼潤は蒼絃の許しを得て顔を上げると、すっと立ち上がって玉座に座る蒼絃を見上げて微笑みをつくった。
「わたしは誕生の際に深江郡主の称号を得ています」
「なんと、郡主であったか!」