11.最後の夜
蒼潤に怯えた様子がないのを確かめて、その体にゆっくりと優しく唇を這わせていく。
やがて蒼潤が疲れ果てたように眠ったので、峨鍈は臥牀から足を下ろした。
脱ぎ捨てた褝を床から拾い上げて羽織ると、臥室を軽く見渡してから隣の室に移動する。
(隠すとしたら、どこだ?)
血判状のことだ。
蒼潤が凝った隠し方をしているとは思えない。
しかし、蒼潤には賢い侍女が付いていて、その者に隠させたのなら探すのは骨が折れるかもしれない。
そう思いながら蒼潤がいつも座っている牀を確かめ、それから、衣装箱や化粧箱、装飾品箱を調べる。
文机の上に置かれた文箱が目に入ると、まさかと思いつつも確認し、何気なく文机の天板の裏を覗き込んだ。
(……これか)
天板と脚の隙間に押し込まれた紙を引き抜く。四つ折りにされたそれを広げると、思った通り、血判状であった。
杜圻の名を筆頭に官吏の名が連なっている。楼松の名もあり、こいつもそうだったのかと思うような者の名もあった。
「不世」
回廊に出て中庭に向かって声をかけると、すぐに男が姿を現し、跪いた。
「筆跡を真似して写しを作れるか?」
「得意な者がいます」
「夜明け前までに頼む」
血判状を差し出すと、不世はそれを両手で受け取って懐に仕舞い込み、すぐに姿を消す。
峨鍈は臥室に戻り、床帳を掻き分けて牀榻でこんこんと眠る蒼潤の寝顔を眺める。その穏やかな眠りを妨げないように、そっと隣に横たわった。
▲▽
蒼潤は心を決めてから、なるべくいつもの通りに過ごそうと努めていた。
これがなかなか難しい。いつも思い付くままに行動していたので、不自然にならないように自分らしく、普通に、とはいったいなんなのだろうかと考えてしまう。
とりあえず、この日は寧の様子を窺いに雪怜の室を訪ね、その後、驕に剣の稽古をつけて過ごした。
日暮れ近くなってから私室に戻ると、芳華が呂姥に刺繍の手ほどきを受けていたので、そろそろ彼女たちに話すべきだと思って、徐姥や玖姥も呼んで皆を床に座らせた。
まず自分のすぐ隣に座った芳華に視線を向ける。
芳華は蒼潤と同じ歳なので、19歳だ。嫁ぎ先を見付けてやらなければ行き遅れてしまうと思いつつも、蒼潤はずっと一緒に育ってきた彼女を手放すことができずにいた。
(事が済んだら、その時には必ず春蘭の嫁ぎ先を探そう)
そんなことを思っていても、結局、自分が冠礼を迎えるまでは、郡王として郡主と婚礼を挙げるまでは、と今まで同様にその時を先延ばしにしてしまいそうだった。
春蘭、と蒼潤は芳華の字を呼ぶ。
「俺は明日、皇帝に謁見する。郡王だと認めて貰うつもりだ。そうなれば、ここにはいられない」
「ここを出て行くのですか?」
「うん」
それから、蒼潤は徐姥や呂姥、玖姥の顔を順に見渡しながら言った。
「お前たちも邸の者たちに気付かれないように、ここを出て欲しい」
「出て、どこに向かえば良いのですか?」
「杜司徒が邸を用意してくれた。そこに向かってくれ。邸の場所は清雨が知っている。お前たちは邸を出たら大通りに向かえ。そこに呉氏の屋台がある。呉氏の店はどこかと人に問えば分かるそうだ。清雨がそこで待っている。お前たちが行けば、清雨の方から声を掛けて来るはずだ」
承知致しました、と徐姥が応えた。呂姥も玖姥も頷く。
だが、芳華が蒼潤の袖をぎゅっと握ってきて、蒼潤は彼女に視線を戻した。
「でも、天連様。本当にそれで良いのですか? だって、この邸を出たら、殿とは……」
「伯旋とは明日で終わりだ。今後、伯旋は俺の敵になる。あいつが蒼絃を見限って、俺に跪かない限りな」
「でも……」
物言いたげにしながらも、それを口にするのを躊躇う様子を見せる芳華に蒼潤は眉を顰める。
「なんだよ。言いたいことがあるのなら言え」
「天連様は殿のことがお好きでしょう?」
「は?」
耳を疑って思わず聞き返してしまう。
徐姥たちも目を剥いて芳華を見やった。
「お好きなのに敵対してしまって本当に後悔されませんか? 敵になるってことは、命を奪い合うことも有り得るってことですよね?」
「待て。なんで俺があいつを好きだと思うんだ?」
「だって、天連様……」
「待て待て。確かに俺はあいつのことが嫌いではない。だけど、だからって、好きっていうわけじゃない」
「でも、天連様」
今度こそ言葉を遮られないようにと、芳華は蒼潤の手を握る。
「私、今朝も昨日も一昨日も、呂さんが天連様の布団を取り換えているのを見ました」
「――っ‼」
声にならない叫びを上げて蒼潤は芳華を凝視する。なんてことを言うのだと、信じられない気持ちだった。
みるみる顔面に熱が集まって、蒼潤は耳まで赤く染める。
「殿方は好いていない相手でもできると聞いていますけど、天連様は少し潔癖なところがありますよね? だから、できないと思うんです。でも、殿とはそういうことができるということは、それは好きっていうことですよ」
「はあ!? ねぇよ、そんなの! 俺があいつをって、はあああああっ!?」
叫び声を上げながら芳華の母親である徐姥の方に振り向けば、徐姥は片手で額を抑え込んでいる。呂姥と玖姥はなぜか顔を俯かせていた。
蒼潤は一度大きく深呼吸をすると、芳華に向き直って、きっぱりと言った。
「違う!」
「えー、でも……」
「違う! したくてしているわけじゃなくて、あれは無理やり……」
「えっ、無理やりなんですか!?」
「そ、そうだ。無理やりだ! だから、俺はもう耐えられないんだ。こんな暮らしは終わりにして、あいつとはおさらばだ!」
分かりました、と口では言いながら、芳華はまだ納得のいっていない顔をする。
そんな娘を諫めて、徐姥が蒼潤に頭を下げた。
「天連様の思うようになさって下さい。私たちは天連様に従い、どこへなりともお供致します」
うん、と頷いて蒼潤はこの話を切り上げた。こんな好きか嫌いかの話で時間を取られている暇はないのだ。
おそらく今夜も峨鍈は蒼潤の私室を訪れるだろう。その前に徐姥に預けておかなければならない大切な物があった。
文机の天板の裏に手を伸ばし、天板と脚の接合部分に挟み込んでおいた紙切れを引っ張り出す。
「これは大切な物だ。邸を抜け出す時に必ず持ち出してくれ」
「承知致しました。今この時から肌身離さず預からせて頂きます。――他にも持ち出す物はございますか?」
問われて蒼潤は室の中をぐるりと見渡した。
琳と朋が蒼潤のために一生懸命に編んでくれた飾り紐や、驕が幼い頃に見付けて蒼潤に贈ってくれた綺麗な石、軒が手習いを始めた頃に書いてくれた文。
梨蓉や嫈霞が仕立ててくれた衣。明雲が選んで、桓が蒼潤に手渡してくれた佩玉。そして、つい先ほど雪怜が寧の手に墨を塗って手跡を取った、その紙が蒼潤の文机の上に置かれている。
ひとたび目にすれば思い出が溢れてくるような物がそこかしこにあって、すべて大切な物であったが、蒼潤は首を横に振った。
そんな物を持っていては、この先、蒼潤の心の重りになるだけだった。
「すべておいて行こう」
苓姚を通して蒼彰や杜圻と連絡を取り合い、蒼潤の皇帝謁見の段取りは完璧であるかのように思えた。
いよいよ明日である。
事を為すその時まで峨鍈に悟られてはならないし、けして彼に計画を妨げられてはならない。そう思うと、思っただけで顔が強張ってしまう。
ひどく緊張して息苦しいと感じるくらいだ。
(いつも通りに。自然に)
何度も何度も己自身に言い聞かせた。
そして、徐姥が峨鍈の訪れを告げたのは、夕餉を取り、湯浴みをして、蒼潤が臥室に移動した後のことだ。
彼は徐姥を下がらせて、手にしていた灯りを窓辺に置いた。
「それは蝋燭か。高価な物を」
「今夜は月がない。暗すぎてお前の顔が見えないからな」
金細工の燭台に蝋燭が一本立っており、橙色の炎が灯っている。
それがチリチリと小さな音を立てて大気を焦がし、彼の影を揺らしていた。
「お前は月のように気まぐれだ」
「何?」
蒼潤は牀榻の中で体を起こし、胡坐を掻く。
そして、床帳を掻き分けて中に入って来た男を見上げた。
「長らく放っておかれたと思えば、こうして毎晩毎晩やってくる。どうせ今だけなのだろう。今は俺に興味が向いているだけだ。直に俺どころではなくなる」
いつだったか、彼に言われた言葉を思い出して、蒼潤はその言葉を口にする。
べつに太陽のように、いつも、いつまでも自分に興味を持って貰いたいわけではない。ただ、彼の気まぐれに自分が翻弄されてしまうのが嫌なのだ。
「天連」
「明日、お前が参内する時に一緒に連れて行ってくれるのだろう?」
何か言いかけた彼の言葉を遮って、蒼潤は明日の話をした。
「ああ、約束したからな」
「明日の約束を果たしたら、またしばらく俺のことは放っておいてくれ」
「なぜそんなことを言う?」
「どうせまた放っておかれるのなら、その時期をお前が決めるのではなく、俺が決めたいからだ」
蝋燭の炎が床帳を透かして、牀榻の中の暗さを和らげている。とは言え、はっきりと互いの表情が見えるわけではなかったが、それでも蒼潤には峨鍈の表情が強張ったのが分かった。
「もう二度と、お前を放っておいたりはしない」
「そんな約束しなくていい」
「天連」
蒼潤は首を横に振って、ごろんと仰向けに横たわる。
「やるなら早くやれよ」
「……」
「やらないなら、俺はもう寝る」
蒼潤の顔の横に両手を着いて彼が覆い被さってきたので、蒼潤は瞼を閉ざした。
明日この関係が終わって、自分が死ぬか、彼が死ぬか分からないけれど、今夜で本当に最後だ。
きっとこんな風に蒼潤の体を好き勝手する男なんて、この先、けして現れないだろう。
そう思うと、なぜか今夜は彼が与えてくれる刺激がどうしようもなく甘く感じて、蒼潤の目尻に涙が浮かんでしまう。
「ああ、嫌だ」
「嫌? 違う。気持ち良いだ」
こんなこと、したいだなんて思ったことない。だから、気持ち良いだなんて認められない。
だけど、不意に口寂しい気がして、ぱくぱくと口を開いて閉じて唇を突き出せば、そこに口付けが落ちてきた。
深い、苦しい、と思ったが、なぜか同時にひどく満たされた心地がして涙が流れた。
【メモ】
この話では、さんざん布団が登場しますが、はたして後漢に布団はあったのかどうか……。
現代でイメージするような綿が入った布団は無かったかもしれない。(日本では江戸後期に登場)
だけど、綿は紀元前200年には中国で生産されていたのだから、あってもおかしくないかもしれない。
庶民は筵(夏は竹、冬は蒲を編んだもの)を敷いて寝ていたらしく、掛布団として着物を被っていたようだけど、牀榻(天蓋付きベッド)を使っているような上流階級はどうだろうか。
「氈」(動物の毛織物)や「褥」という敷布団があって、「衾」(長方形の布地)という掛布団もあったみたいなので、この話では「現代イメージに近い布団あります」ということになっています。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
「読んだよ!」の意味で、リアクションボタンを押して頂けましたら、たいへん嬉しいです。




