10.どんなに時が掛かろうと、必ず
日暮れを迎えて私邸に戻ると、夕餉を取りながら家宰を呼んで蒼潤の様子を聞く。
すると、蒼潤も少し前に帰って来たばかりだという。
今は湯殿にいると聞いて、峨鍈は箸を置いて私室を出た。
西跨院には、峨鍈が蒼潤のために建てた湯殿がある。蒼潤は数日に一度、湯殿を使って髪を洗うので、その時を狙って湯殿を訪れれば、蒼潤の青い髪を拝むことができた。
西跨院の門をくぐる。
西廂房の方にちらりと視線を向ければ、窓から松明の灯りが漏れているのが見えた。
湯殿は東廂房を改築して建てたので、中庭を東に折れて進む。階を上がると、湯殿の中から水音と話し声が漏れ聞こえて来た。
そこに蒼潤がいると思うと、何やら気持ちが逸ってしまう。
湯殿に入ると、土を掘り下げた場所に檜の板を滑らかに削って組んで作った浴槽が半分ほどの高さまで埋め込まれている。
浴槽には並々と湯が張っており、白い湯気が濛々と室の中を満たしていた。
その湯気の中、湯に浸かる蒼潤の姿を見付け、峨鍈は口元を綻ばせる。
だが、蒼潤の侍女が浴槽の縁で膝を着いて控えていて、その手元の桶を見やれば、稗のとぎ汁は既に使い終えた様子だった。
「なんだ、もう洗ってしまったのか」
自分が蒼潤の髪を洗いたかったと少しばかり落胆して言えば、蒼潤が呆れたような冷めた視線を向けて来る。
どんなに呆れられようと、黒髪が濡れてみるみる青く染まっていく様子は何度見ても不思議で、魅惑だった。
峨鍈は片手を振って侍女を下がらせると、衣を脱いで浴槽に入った。
二人で入る目的で作った浴槽なので、峨鍈が入っても余裕がある。洗髪の機会は逃したが、しばし二人で湯を楽しむのも悪くない。
お互いに何も纏わず、けして広くない場所に入っていると、蒼潤をとても身近に感じるからだ。
ところが、蒼潤は峨鍈に場所を譲るように立ち上がって浴槽から出て行こうとした。それがまるで峨鍈を避けているかのようで、峨鍈は僅かに苛立ちを感じながら、待て、と言って蒼潤の手首を掴んで引き止めた。
「少し付き合え」
湯殿の窓の外に篝火台が置かれている。その篝籠から上がった炎の明かりが窓から射し込んできて、ちらちらと蒼潤の青い髪を照らす。
蒼潤は腰まで届きそうなほどに長い髪を白い肌に張り付かせていた。
細い腰である。強く握れば折れてしまいそうな細い手首だ。無駄な肉のない体は若鹿のようで、喰らい付きたい欲求を峨鍈に抱かせる。
そうとも知らない蒼潤は峨鍈に振り向くと、仕方がないという顔をして再び浴槽にしゃがんだ。すると、蒼潤の青い髪が湯の表面で扇状に広がる。
それで、と峨鍈は湯に浮かんで漂う蒼潤の髪に手を伸ばしながら尋ねた。
「姉君のところに行ってきたのだろう? 蒼珪林県令をどう見た?」
ひと房、蒼潤の髪を掴んで、指に絡める。
蒼潤は自分の髪を弄ぶ峨鍈の指先を眉を顰めて見つめながら答えた。
「いけ好かない」
「ほう?」
面白いと思って峨鍈は蒼潤を見やる。
不思議なもので、それがどういう意味合いの想いであっても、蒼潤が自分以外の者に好意を抱けば苛立ちを感じ、嫌悪を抱けば嬉しさが込み上げてくる。
口元が緩んでしまうのを自覚しながら峨鍈は蒼潤に言葉の続きを促せば、蒼潤は眉間に皺を寄せながら言った。
「お前の力で、あの男をどこか遠くにやってくれないか」
「なら、琲州刺史にするか」
「琲州に追いやってくれるのか」
蒼潤がホッとしたような表情を浮かべたのも束の間、ああ、と声を漏らし、気落ちしているかのように視線を伏せる。
「だけど、姉上が追いかけて琲州に行ってしまったら、どうしよう」
峨鍈は青い髪から手を放し、その手で蒼潤の頬に触れた。
蒼潤が煩わしげに峨鍈の手を払い除けてくるが、構わず、さらに手を伸ばして蒼潤の顎を取る。
「心細い顔をするな。――何が不安だ? お前の傍には俺がいるだろ」
顔を近付ければ、蒼潤は驚いたように瞳を見開いてから、ぱっと峨鍈から視線を逸らした。
蒼潤の瞳に映りたくて、峨鍈は蒼潤の顎を掴んだまま、もう一方の手で蒼潤の首筋に触れて、肩に、胸に触れ、肌の滑らかさを味わいながら、下へ、さらに下へと手を移動させる。
「もう出る」
パシリと叩くように峨鍈の手を払い、ざばりと水音を立てて蒼潤は湯の中で立ち上がった。
蒼潤は浴槽の縁に足を掛けて出ると、湯殿の外で待つ侍女に向かって声を掛ける。
中に入って来た侍女に衵服を着せて貰うと、蒼潤は峨鍈を置き去りにして湯殿を出て行った。
すぐに峨鍈も湯から上がる。簡単に麻布で体を拭いて褝を羽織り、湯殿を出た。
回廊を進み、蒼潤の私室に向かうと、その入口で蒼潤に追い付き、ぽたぽたと雫を滴らせている頭に後ろから麻布を被せた。
そのまま、わしゃわしゃと髪を掻き混ぜるように拭いてやりながら、二人で臥室に移動すると、臥牀に腰を下ろした。
「今夜もここで休むつもりなのか?」
「ああ」
床帳に覆われた牀榻の内に二人で入ると、峨鍈は麻布を床帳の外に放った。
蒼潤の肩を押すようにして、その体を敷布の上に倒し、ゆっくりと覆い被さる。
すると、蒼潤が戸惑いと怯えを含んだ瞳で峨鍈を見上げ、体を強張らせた。
「嫌だ、昨夜みたいなのは。もう二度としない」
「気持ち良かっただろ?」
「良くない! 気持ち悪かった。嫌だ!」
女とは体のつくりが違うため、いろいろと手間がかかるのだが、その手間が今の峨鍈には楽しくて、じっくりと数日かけて行うつもりであった。
まず昨夜が一日目。いつだって初めてのことには嫌だとしか言わないので、どうしても最初は無理矢理になってしまうが、きっと蒼潤も悪くなかったはずだ。
それなのに、今夜も嫌だとしか言わない。
「分かった。まずは話をしよう」
「話?」
押し倒した体勢のままなので、蒼潤は疑わしげに峨鍈を見上げてくる。
峨鍈は蒼潤の首筋に顔を埋めると、その細い体を両腕で掻き抱いて、そのまま転がるようにして自分が蒼潤の体の下になる体勢に変えた。
「どの話をしようか」
「なんでもいいけど、尻から手を退けろ。揉むな」
峨鍈は僅かに考え込んで、思い付くままに言葉を綴る。
「この邸は、かつて高大尉のものだった。俺は幼い頃、峨家よりも大きい邸があることを知らずに育ったが、13の時に、そんなものはたくさんあると気が付いて、ひどく驚き、世界が広がった」
「……」
「では、この葵陽で一番大きな邸はどこだろうか。俺は数日かけて葵陽を歩き回り、高大尉の邸こそが一番大きな邸だと見定めた」
「……」
「すると、次は邸の中が気になり始める。高い塀に囲まれていると、余計に気になってな。俺は塀を越えてみることにした。――おい、聞いているのか?」
「……っだ」
息を漏らすように短く声を発した蒼潤を怪訝に思い、峨鍈は蒼潤の顔を覗き込んだ。
すると、蒼潤がパッと顔を上げて、嚙み付くように言った。
「だからっ、尻を揉むな! なんも話が頭に入ってこねぇよ‼」
「文句が多いな。お前が嫌がるから、気を紛らわせながらやっているのに」
「俺が嫌がっていることは理解しているんだな。なら、やめろよ」
「駄目だ」
「はぁ!? なんで!?」
「俺がしたいからだ。――それで、話の続きは聞くのか?」
「お前が人様の邸に不法侵入した話をか?」
衵服の下に手を忍ばせ、直接肌に触れれば、蒼潤がびくっと体を跳ねさせた。
それから、はっと鼻で笑うように声を放つ。
「邸の者に見付かって、袋叩きにでもなったか?」
「いや。見付かりはしたが、全員叩きのめして逃げた。だが、この話で言いたいのはそこではない」
「……っ!! ――手! そこ触るな、って!」
ばしんと叩かれて峨鍈は蒼潤の肌を弄るのを止めた。
まずは会話を楽しむことにする。
「高大尉には若い後妻がいてな。彼女は西跨院の正房で暮らしていた。ちょうど、この室だ。――高大尉は還暦を過ぎた年寄りで、前妻を2人亡くしている。孫も曾孫もいるのに、18の娘を後妻に迎えた」
「とんでもないジジイだな」
「奇しくも、その後妻の室に忍び込んだ俺は、彼女に見付かり、彼女の身の上を知ると、逃がしてやりたいという気持ちになった」
「待て。奇しくもと言いながら、実は最初から彼女のことを知っていたんじゃないのか? 知ってて邸の塀を越えたのだろう」
さて、どうだっただろうか、と言って峨鍈は笑む。
なんせ13の頃の話だ。記憶は曖昧で、しかも、美化されている。
知らずに忍び込んだという方がより美しい記憶なので、そういうことにしておきたい。
「彼女で俺は初めて女を知り、彼女を盗み出すつもりであったが、警備の者に見付かり叶わなかった」
「……それは」
呆れ果てたという顔で蒼潤がため息をつく。
「すぐに逃げていれば見つからなかったんじゃねーの? なんで逃げる前にやってんだよ。――いや、違うな。お前、最初から最後まで、その女を連れ出してやるつもりがなかったんだろう?」
ふっと口元に笑みを浮かべて峨鍈は蒼潤の額に口付ける。
それを肯定だと判断して蒼潤は苦笑を漏らした。
「ひどい話だ」
「この室だというところが面白いだろう?」
「だから、この邸を選んだんだな。――わかった。お前はその後妻ではなく、この邸が欲しかったんだ」
「葵陽で一番の邸だからな」
にやりとして蒼潤が言う。
「幼い頃に憧れた邸を手に入れた感想はどうだ?」
「悪くはないな。――どうだ。俺という男のことが分かっただろう。俺は、手に入れたいと思ったものは、どんなに時が掛かろうと必ず手に入れる」
――お前もだ。
峨鍈は体を起こし、再び蒼潤を組み敷いた。




