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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
6.葵暦195年から196年 併州城から葵陽
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9.心は諦めた


「生まれながらにして皇位が約束されているのであれば、本人も周囲も、内心はどうあれ、受け入れざるを得ないだろう」 

「でもさ、もしも皇太子が明らかに無能で、他に有能な皇子がいたとしたら?」

「いたとしても何も変わらん。むしろ、そこで変えてしまい、前例を作れば、王朝が揺らぐ。事実、青王朝は、よう太后が互斡郡王を廃した時から大きく乱れ始めた」

 

 恙太后が産んだ皇子が有能で、蒼潤の父である互斡郡王が無能だったわけではないが、と峨鍈は言い加える。

 

「だけど、お前のその言い方だと、皇帝は無能でも構わないと言っているように聞こえる」

「そうだろうな。言ってしまえば、皇帝は皇帝自身で何かするわけではないから、有能である必要はない。政の実務は臣下が行うものだからだ」

  

 ただし、と峨鍈の言葉は続く。


「人を見る目のない者が即位すれば、奸臣がはびこり、朝廷が荒れる。つまり、皇帝に求められるものは、実務的な能力ではなく、人を見抜く目だ。誰を信じて、誰を遠ざけるのか、その判断を正確にできる者が即位すれば、天下は安らぐだろう」


 ふーん、と蒼潤は鼻を鳴らしながら、彼の言葉を自分自身に当てはめて考えてみた。

 例えば蒼潤が即位したとする。その時に誰を信じて近くに置くかで、天下は大きく変わるということなのだ。

 それを踏まえて、自分は正しく人を見抜く目を持っているのだろうか。


(誰が忠臣で、誰が奸臣か。皇帝にとって忠臣であっても、天下にとってもそうとは限らないだろうし)


 そこが難しいところである。

 皇帝にとって忠臣で、いつでも皇帝の想いに寄り添い、皇帝が望んだ言葉を口にして動いてくれる臣下が、果たして天下の民にとって善であるのだろうか。

 だからと言って、天下の民を第一として皇帝に対して不忠であれば、天下の民のためにならないという理由で容易く謀叛を考えるかもしれない。


 君主が国の未来を考える時、その時代の民に不利益を強いることは多々あることだ。

 だから、時に君主は無慈悲な決断をするのだけど、その時にその決断を促した者のことを本当に信じることができるのか、また、本当にその者は信じるに値する者なのか、それを見極めなければならないのだろう。


 そんなことを蒼潤が押し黙って考え込んでいると、所在なくなったのか、それとも単に蒼潤を揶揄からかいたくなったのか、不意に彼に尻を揉まれた。

 蒼潤は驚いて、びくっと体を揺らし、即座に顔を上げてキッと峨鍈を睨んだ。


「やめろ」

「まるで眠る気配がないから、疲れさせてやろうか」


 言うや否や意図を持って動き出した彼の手に蒼潤は焦りを感じた。


「今はそういう気分じゃない!」

「お前の気分を待っていたら、いつまでも何もできん。俺はそろそろ次に進みたい」

「は? 次!?」


 ――次って何だ!?

 

 意味が分からないが、とにかく嫌だ! 

 だって、きっと、ろくなことではない!


 拒絶の言葉を口にしようとすると、その言葉ごと蒼潤は口を塞がれる。

 驚き、目を見開けば、慣れた手付きで衵服はだぎかれた。


「あっ、やだっ! ダメだ。やめろ!」


 やめろと言ってやめてくれるような相手ではないことは承知している。

 だからって、大人しく許すわけがない!

 可能な限りの抵抗をして、大声を上げる。

 すると、再び口を塞がれて、押さえつけられて、何が何だか分からなくなって、そして、疲れ果てたように彼の腕の中で意識を手放した。



 △▼



 それで、と執務室に入ってくるなり孔芍が言うので、峨鍈は苦々しく応えた。


「伝えたぞ」

「では、郡主様は姉君のところに出掛けられたのですね?」

「朝餉を済ませてすぐに出掛けて行ったな」

「そうですか。それは良かったです」


 ほっと胸を撫で下ろすように孔芍が言う。

 蒼潤の姉の蒼彰が蒼邦と婚約したことを、蒼潤の耳に入れて欲しいと言ったのは孔芍だった。

 そうと聞けば蒼潤は必ず蒼彰のもとに事実を確かめに向かうだろうと踏んだのだ。


「姉君の婚約を聞いても郡主様がまったく動じなかった場合、事態は我々が予測している以上に進んでいて、かつ、深刻でしたので、そうではないと分かり安堵あんど致しました」


 蒼潤が仲の良い姉に会いに行かないということは、姉と共に何かを企んでいて、それを知られまいとこちらを警戒しているということだからだ。

 警戒する様子をいっさい見せずに、朝一番に姉のもとに向かった蒼潤は、峨鍈と孔芍が把握している通りに単純で分かりやすい少年のままだった。

 孔芍は文机を挟んで峨鍈と向かい合うように腰を下ろす。


「どうやら河環かかん郡主は葵陽に入る以前から司徒と繋がっていたようです」

互斡ごかん国にいながら帝都の様子を探っていたか」

「一手先どころか、二手も三手も先を読む方です。おそらく最初から、河環郡主と深江しんこう郡主、そして、杜司徒との連絡役として、杜司徒の娘は殿の側室に上がる計画だったのでしょう」

杜圻とぎんの娘が今朝早くに実家に文を出したぞ。母親宛てだったが、内容は父親に向けたものだったな」


 文机に頬杖をついて言えば、孔芍が峨鍈の顔を真っ直ぐに見つめて頷く。


「では、杜司徒が郡主様に接触をはかろうとするはずです。すでに玉座にある陛下から郡主様に乗り換えようというのです。それも命がけで。しくじれば、大逆罪で九族皆殺しの刑となりますから、自身の命だけで済むことでもありませんし。事を起こす前に郡主様と対面し、その人となりを知りたいと思うのは必然でしょう」

「そこを抑えるか」

「いえ、まだです。――ところで、ろう廷尉ていいが杜司徒と裏で繋がっていることが分かり、廷尉府ていいふと楼廷尉の私邸に人を送り、探らせました」

「ほう」


 楼廷尉。――楼松ろうしょうのことかと、その顔を峨鍈は脳裏に思い浮かべる。

 脂ぎった額に、大きな鼻と口。ぎょろぎょろした目をした男だ。

 面白くもない些細なことで、銅鑼のような声を響かせてガバガバと笑うので、近くにいられるとうるさくてかなわなかった。


 孔芍がなぜ楼松に狙いを定めたのかと言えば、それは廷尉府が司法を管轄しているからだ。

 裁判を行い、善悪を見定めて判決を下し、必要とあらば刑罰を決める。ここが正常に機能していない王朝は、根の腐った大樹に等しい。

 一番腐りやすい場所ではあるが、民の目が一番向けられる場所であり、その暮らしを救うことも貶めることもできる場所でもあった。


「廷尉府は腐っているか」

「腐っておりますね。金品を受け取り、罪を見逃したり、刑罰を軽くしたりしております。――楼廷尉が杜司徒と密会し、血判状に署名し、捺印していたとの報告を受けています。また、報告した者によると、その血判状には他にも何人もの名が記されていたそうです」

「その血判状を手に入れる必要があるな」


 殿、と孔芍が不意に峨鍈を呼ぶ。

 何かと思って孔芍の整った顔を見やれば、なんてこともないというように孔芍は言ってのけた。


「手に入ります。おそらく郡主様が手に入れて下さいます」

「天連が?」

「はい。杜司徒は郡主様の信頼を得ようと、血判状を郡主様に献上するはずだからです」

「なるほど。俺はそれを天連から頂けば良いのだな」

「しかし、くれと言って頂けるようなものではないので……」

「分かっている。今夜もあいつの臥室で休む。天連が寝入った後で頂く」

「お手を煩わせてしまいますが、お願い致します」


 孔芍は深々と頭を下げて執務室から下がろうとして、ふと思い出したように立ち上がりかけた体をぴたりと止める。

 そう言えば、と眉を顰め、峨鍈を見やった。


「郡主様のお心は掴めましたか?」

「……」

「あれから進展のほどは?」


 峨鍈はムッとして孔芍を見つめ返した。

 その沈黙を答えだと理解して孔芍はため息をつく。


「何をしておいでですか?」

「俺は気持ちを伝えたが、あいつは聞き流したのだ」

「それは伝えたうちには入りません。このままでは本当に郡主様を失ってしまいますよ」


 分かっている、分かっている、と峨鍈は片手を上げて孔芍の口を閉ざさせた。

 そして、さも苦悩しているという表情をして言う。


「俺はもう心は諦めたのだ。この短期間にあいつの心を手に入れようなど、土台どだい無理な話だった」

「いえ、短期間ではありません。5年もありました」


 口を挟まずにはいられないと、孔芍がジトッとした目を向けてきた。


「それで、どうなさるおつもりですか?」

「まずは体で繋ぎとめる。あいつの体に快楽を教え込んで、俺なしでは生きていけないようにしてやる」

「はぁ……、それ本気でおっしゃっていますか? ――本気でおっしゃっていますね。分かりました」


 今度こそ孔芍は立ち上がり、峨鍈が処理を終えた書簡を両腕に抱える。

 文机に頬杖をついたまま峨鍈は彼を見上げて、むむっと眉間にしわを寄せた。


「何が分かったと言うのだ、仲草ちゅうそう

「体が先で、後から心がともってくるということもあると思います。多くの婚姻がまさにそうでしょうし。殿の言い方があれなだけで」

「そうか……」

「事が起こるとしたら、おそらく郡主様が皇城に上がる日です。あと4日しかありません。その4日のうちに郡主様のお心を得るのは難しいでしょう。ならば、先に体をと考えられても致し方ないかと思いました。ですが、どうか慎重に。完全に嫌われるということもありますから」


 ふむ、と峨鍈が頷いたのを見て孔芍は執務室を出て行った。











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