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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
6.葵暦195年から196年 併州城から葵陽

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7.竜胆の花


 蒼彰の言うことを大人しく聞いていたら、いったいいつ互斡国から出られたかどうか分からない。

 それに峨鍈のもとで学んだことは少なくなかった。

 彼の手を取って互斡国から出たことに後悔はないので、峨鍈が葵陽に行くと言った時に、そこで彼と袂を分かつべきだったのだ。


 呈夙が死んで、もはや蒼潤に性別を偽る理由はない。

 いつでも男に戻れる。

 だが、郡王を名乗ったとたんに蒼潤は峨鍈の敵になる。

 峨鍈は、かつての呈夙と同じ立場にある。蒼絃よりも正統を持った玉座の主など、彼にとって邪魔でしかないだろう。


(俺がこいつなら、俺をどうする?)


 蒼潤は峨鍈の顔を見つめ、思いを巡らせた。

 答えは容易に出る。


(俺がこいつなら、俺が力をつける前に殺す)


 蒼潤が他の後ろ盾を得て峨鍈に対抗できる力を持つ前に、蒼潤を殺すのだ。

 彼にとって幸いなことに、蒼潤は彼の手の中にいる。

 すべてが彼の有利な状況のように思えたが、まだ蒼潤は負けたわけではない。ここは葵陽だ。

 蒼家の血の価値をどこよりも深く知っている者たちが暮らす場所である。蒼潤が郡王だと知れば、力を貸してくれる者が必ず現れるはずだ。


(殺される前に殺してやる!)

 

 天連、と呼ばれて蒼潤は、ハッとする。

 体を起こした峨鍈に頬を触れられて、首すじを撫でられる。


「なんて顔をしているんだ」


 見上げると、苦笑交じりの顔と目が合い、蒼潤は眉を寄せた。いったい自分はどんな顔をしていたと言うのだろう。

 彼の言葉に困惑した蒼潤は、その隙を突かれるように肩を抱き寄せられて、彼の腕の中に引き込まれた。


「どんなことがあっても守ってやる」


(どんなことがあっても……?)


 蒼潤は体を強張らせる。ならば、やはり、これから何かが起こるのだ。

 そして、そんな優しい言葉を口にしながら彼は蒼潤を丸め込もうとしている。再び彼のことを信じさせて、蒼潤の動きを封じようという魂胆に違いない。

  

(そんな手に乗るものか)


 蒼潤は彼の胸に両手を着いて体を離した。そして、今度こそ牀榻から出る。

 臥室を出ると、隣の室に朝餉の支度が整えられていた。徐姥は蒼潤の腫れた目元を見て、僅かに息を呑み、呂姥に目配せをする。


「天連様、これで目元を抑えていてください」

「うん」


 冷たい水に浸した布を呂姥から受け取ると、ながいすに腰を下ろして、その布で目元を覆った。

 徐姥に髪を梳かれて結い上げられる。


岺姚れいよう様や侍女の方に見られてしまうかもしれませんので、しばらくは女性の姿で大人しくしていて下さいね」


 蒼潤の髪に簪を指しながら徐姥が言ったので、蒼潤は目元の布を外し、眉を顰めて応えた。


「さっさと岺姚にも明かしてしまえばいいんだ」

「駄目だ」


 蒼潤の言葉を退けたのは峨鍈で、彼の方に視線を向けると、彼は玖姥と芳華に手を借りながら身支度を整えていた。


「なんで?」

「なんでもだ」

「理由も分からないのに従えない。俺は俺の好きにする」


 徐姥から立つように促されて蒼潤は牀から腰を上げると、呂姥が広げた深衣の袖に腕を通した。

 先に身支度を終えた峨鍈がため息をつきながら牀に腰かける。


「――分かった。お前の好きにしろ」


 もう一枚、深衣を重ねて、蒼潤も身支度を終えると、峨鍈と並んで牀に座り、朝餉を共にした。

 朝食を終えた峨鍈が蒼潤の私室を去ってすぐだった。梨蓉が前触れもなく蒼潤の私室に現れて、珍しくきつい言葉で蒼潤を叱った。


「天連殿、なりません! 正室が側室の初夜を妨害するなど、あってはならないことです」


 一瞬、なんの話だと戸惑ったが、すぐに思い出す。

 昨夜は岺姚がこの邸に入ってから初めて迎える夜であり、峨鍈と共にするはずであった初夜だ。

 峨鍈は西跨院まで足を運んだが、なぜか蒼潤の私室にやって来て、そのまま蒼潤の臥室で朝まで留まってしまったのだ。


 蒼潤は梨蓉の前で正座をして項垂れる。

 そんなつもりはなかったのだ、と喉元まで出掛かったが、苓姚の初夜を台無しにしてしまったのは紛れもない事実だ。


「苓姚にお詫びする」

「そうなさってください」


 ぴしゃりと言ってから、梨蓉は眉を下げて表情を和らげた。


「私も悪かったのです。天連殿があまりにも綺麗だったので、殿にもお見せしたいと思って、ついつい話してしまったのですから」


 確かに、と蒼潤は思う。梨蓉が余計な話をしなければ、峨鍈が蒼潤の室を訪れることはなかったのではないかと。

 だが、それは、蒼潤が言うべきことではない。反省していますという顔で蒼潤は黙って俯いていた。


「今夜こそ苓姚さんのへやに行かれるようにと殿を促しますから、天連殿はくれぐれも殿を引き留めてはなりませんよ」

「引き留めません。むしろ、追い払います。誓います」


 指を三本立てて蒼潤は誓うと、梨蓉は苦笑を漏らす。

 その後すぐに嫈霞おうかあつものをつくって持って来てくれた。琳と朋も一緒だ。

 ふたりとも、この頃は弟たちと一緒に外で遊ぶことを控えるようになって、そのため、蒼潤とも久しぶりに顔を合わせる。

 朝食を取ったばかりだったので、羹は後で頂くと徐姥に下げさせると、明雲めいうんが果物を持ってやって来た。こちらも後で頂くと言って受け取る。


 皆で他愛もない話をしていると、雪怜せつれいねいを連れて現れた。

 きゃらきゃらと笑い声を立てる寧につられて蒼潤が相好を崩すと、雪怜がずいっと蒼潤に身を寄せて耳打ちしてくる。


「天連様。私は胸がすうっとしましたわ」


 なるほど、と蒼潤は彼女を、そして、羹を作って持って来てくれた嫈霞、果物をくれた明雲を順に見やる。

 側室たちは皆それぞれ峨鍈との間に子を儲けていて、邸の中で尊重された待遇を受けているが、それでも峨鍈が新しい側室を迎えたことを面白く思っていなかったのだ。


 岺姚は若く美しく、その上、父親が司徒だ。

 峨鍈の側室たちの中で家柄を比べたら雪怜の羅家が一番上だろうか。羅家は古くから続く名家ではあるが、朝廷における力は、岺姚の杜家の足元にも及ばなかった。


 岺姚にそのことを鼻に掛けている様子はなかったが、それはあくまで蒼潤の前だったからだろう。

 杜家は蒼家の足元にも及びない。

 蒼潤の目の届かないところで、岺姚と彼女たちは一悶着あったのかもしれなかった。

 ともあれ、昨夜の蒼潤の行いで、側室たちは溜飲を下げた様子だった。

 

 梨蓉たちが東跨院に戻っていき、ひとりになると、蒼潤は文机に向かって絵を一枚描き、玖姥を呼んだ。


「これを姉上に届けて欲しい」

天幸てんこう様にですね」


 天幸とは、蒼彰のあざなだ。

 玖姥は蒼潤が描いた絵を眺め、僅かに首を傾げた。


「こちらは竜胆リンドウでしょうか?」

「うん。うまく描けたから贈ると伝えてくれ」


 文字は書かず、ただ竜胆の花の絵だけを描いたが、蒼彰ならば蒼潤の意図を分かってくれるはずだ。

 竜胆には『正義』、そして、『勝利』の意味がある。

 そして、蒼潤はよく好んで竜胆の花の刺繍がされた衣を身に着け、或いは、竜胆の花を模した簪を挿していた。


「承りました。すぐに向かいます」


 蒼潤から受け取った紙を懐にしまうと、玖姥は室を出て行った。

 夕刻になり、蒼彰からの返事が届く。玖姥が持ち帰って来た紙には『杜』の一字だけが書かれていた。


……?)


 はっとして蒼潤はすぐさま私室を飛び出した。

 西跨院の西廂房に許しも得ずに飛び込むと、室の中で寛いでいた苓姚が驚いて、手にしていた椀を落とした。

 椀の中身が零れて床を濡らしたので、苓姚の侍女がさっと立ち上がって、麻布で床を拭う。

 苓姚は侍女の仕事が済むのを待ってから、侍女を室から下がらせた。


「どうぞお座りください」


 苓姚が蒼潤に場所を譲って上座を勧めてきたので、促されるままに蒼潤は室の奥に座った。

 蒼潤は、さっと苓姚の私室に視線を巡らせて調度品に不足がなさそうなのを確認すると、苓姚に視線を戻して尋ねる。


「父親に何と言われて嫁いできた?」


 苓姚の父親は、杜司徒だ。峨鍈が司空なので、ともに官制における最高位にある。

 二人が手を取り合うか、それとも、対立するかは、今後の朝廷を大きく左右する。

 苓姚が峨鍈の側室として嫁ぐことで、一見すると、峨鍈と杜司徒は手を組んだように見えた。当然、蒼潤も二人は手を携えて皇帝である蒼絃そうげんを支えていくのだと思った。

 だが、蒼彰が送ってきた文字は『杜』だ。もしやと蒼潤は苓姚を鋭く見据えた。


「私は……」


 苓姚が、小さな珠を転がすように言葉を放つ。


「深江郡王様にお仕えせよと、父に命じられて参りました」

「深江……郡王……?」


 蒼潤は、はっと瞳を見開いて、信じられないといった面持ちで苓姚を凝視した。


「お前の父は、姉上と通じているのだな」


 苓姚は答えない。

 その沈黙は肯定を意味しているのだと蒼潤は理解する。


河環かかん郡主様は仰せでした。郡王様がお心を決められたのなら対面は控えるべきだと」

「分かっている」


 だから、蒼彰に竜胆の花の絵を送ったのだ。


「郡主様とのやり取りは、私を通して行ってください。杜家からの文だと申せば、中を改められることはないかと思います。――それと、私の父と会って下さい」


 頷くと、苓姚は腰を上げた。


「長居は無用です。私たちは、殿の寵愛を巡り不仲です。明日、口の堅い侍女ひとりのみに事情を話し、私のもとに寄越してください。郡王様が父と会える手はずを整えておきます」

「――分かった」


 蒼潤は辺りに視線を巡らせてから苓姚の室を出て私室に戻った。

 





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