6.お前なんか嫌いだ!
「――っ‼」
掠れた声で嫌だと呟き、それを皮切りに蒼潤が、嫌だ、嫌だ、と頭を左右に強く振る。
己の髪に挿した簪を掴むと、髪から引き抜いて、ガシャンと床に叩き付けるように投げ捨てた。
「天連!?」
何事かと戸惑う峨鍈の目の前で、蒼潤は更に両手を頭に伸ばして次々に簪を引き抜き、投げ捨てる。
耳飾りも、腕輪も、指輪も、すべての装飾品を取って投げ捨てると、深衣の襟を左右に開いて脱ぎ、大きく腕を振って室の隅に向かって投げた。
「天連!」
「もうっ、嫌だっ!」
声を荒げて今にも暴れ出しそうな蒼潤の肩を掴んで、峨鍈はその体を抑え付けた。
「天連!」
くしゃくしゃになった髪に、衵服姿になった蒼潤を見下ろして、戸惑いながら峨鍈は問い掛けた。
「どうしたんだ」
「だから、もう嫌だ! お前なんか嫌いだーっ!」
うっ、と蒼潤の紅を差した唇から嗚咽が漏れて、瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
そして、蒼潤は堰が切れたように感情を溢れさせ、わぁーっと泣き出した。
「天連様っ」
室の隅で松明を掲げていた乳母が慌てたように駆け寄って来ようとしたので、峨鍈は、さっと片手を上げて制する。
今は蒼潤とふたりきりで向かい合うべきだ。
「お前は下がっていい」
「しかし……っ」
「下がれ!」
わぁんわぁんと幼子のように泣き続ける蒼潤を抱き上げる。
攫うように臥室に移動してしまえば、乳母は追って来られず、松明を持って室を出て行った。
窓から射し込む月明かりだけを頼りに牀榻に向かって歩き、その上に蒼潤を座らせる。
蒼潤が何度もしゃくりあげて涙を零し続けるので、涙を拭ってやろうと手を伸ばせば、嫌だ、触るなと、手を払い除けられた。
己の手のひらで目元をごしごしと擦るように拭っている蒼潤の様子を傍らに座って眺めながら、峨鍈は再び涙に濡れた蒼潤の頬に手を伸ばす。
「泣くな」
「黙れ。うるさい。どっか行け」
「機嫌が悪いな」
「もう、お前なんか要らない。お前なんか嫌いだ!」
――嘘つき。
蒼潤は声なく唇だけを動かして、そう吐き捨てる。
荒げられて言われた言葉よりも、声にならなかったその言葉こそが峨鍈の胸に刺さり、蒼潤がなぜ泣きじゃくっているのか、峨鍈は察した。
蒼潤の姉の蒼彰は既に帝都に到着していて、蒼潤は蒼彰と5年ぶりの再会を果たした。
そして、その時に囁かれたに違いない。
――お前は龍なのだ。帝位を望め。
蒼潤は5年前、蒼彰の手を振り払うようにして互斡国を出た。
姉の保護下から飛び出して、自分の力で玉座までの道を選ぼうと考えたのだ。
しかし、その結果はどうだろうか。蒼潤は5年経っても尚、女のなりをしていて、そんな自分に蒼潤は失望したのだ。
着飾って化粧を施した蒼潤は本当に綺麗で、美しい。
とても男とは思えず、幼い頃からその美貌を持て囃されていた妹の蒼麗とよく似ていた。
いや、きっと蒼麗よりも魅惑的で美しいに違いない。
これは惚れた欲目かもしれないが、蒼潤には、ドキッとさせられるような色気がある。
しかし、そんなものは蒼潤にとって何の価値もなく、ただ、ただ、絶望を強く感じるだけのものだった。
――お前なんかっ。
そう言って、蒼潤は峨鍈の手を払う。
自分に帝位を与えてくれると信じた相手は、蒼潤ではなく蒼絃を擁立して、司空にまで昇り詰めている。
これはひどい裏切りだと、蒼潤は峨鍈に幻滅していた。
――嘘つき! 嘘つき! 嘘つき!
実際には口にしていない蒼潤の言葉が峨鍈の後ろめたい心に突き刺さる。すまないと思いつつも、峨鍈は蒼潤に謝罪の言葉をくれてやることができなかった。
峨鍈は蒼潤と出会った時から、こんな日が来ることを知っていて、それでも蒼潤を選んだのだから――。
蒼潤が、うっ、うっ、と嗚咽を漏らす。
その姿があまりにも哀れで、切なく、そして、愛おしくて堪らなかった。
あまりにも泣きすぎて、蒼潤の顔に掛かった髪が濡れて青く色を変えている。
窓から差した月明かりに、その青が輝いて、峨鍈の目を惹き付け、今こそ蒼潤を手に入れたいと峨鍈に思わせた。
「潤。――俺はお前が好きだ」
薄闇に静かに声を響かせて、ずっと心に燻っていた想いを初めて告げる。
もう一度、手を伸ばして蒼潤の頬に触れると、もはや振り払う気力など尽きてしまったのか、蒼潤は大人しく峨鍈に涙を拭わせた。
「どうすれば泣き止む?」
「……」
「お前を手放したくない」
「……」
答えない蒼潤の顔を両手で包み込んで、顔を寄せていけば、口づけてやりたくて堪らなくなる。
失望していてもいい、幻滅していてもいい。自分のことなど嫌っていても、憎んでいてもいいから、手放したくない。
どうにか蒼潤の泣き止ませようと、峨鍈は言った。
「新しい馬を贈ろうか?」
「いらない」
蒼潤が即答した。
涙で潤んだ黒目がちな瞳で峨鍈を上目遣いに見つめてくる。
「何だ?」
視線が合い、峨鍈はホッとする。
白粉も口紅も、すっかり落ちてしまったが、それでも蒼潤は美しく、艶めかしい。
――瑠璃のようだ。
青く輝く髪のせいか、蒼潤を見ていると、艶のある青く美しい宝玉を思い出す。
瑠璃を買い集めて、蒼潤の身を飾らせたい。そうすれば、蒼潤という宝玉はもっともっと光り輝くはずだ。
そんなことを考えていると、蒼潤が不意に口を開いた。
「皇帝に会いたい」
思い掛けない言葉に耳を疑って峨鍈は聞き返す。
「何だと?」
「従弟に会いたいと言っている」
「従弟だと?」
峨鍈は背中を刺されたような心地になる。
だが、これも覚悟していたことの内だと思い直し、いったん気を鎮めようとして口を閉ざした。
すると、蒼潤が睨むような目付きで峨鍈を見つめてくる。
「俺にとっては従弟だ。絃に会いたい」
恐れ多くも皇帝の名を呼んだ蒼潤に、峨鍈は黙っていられず口を開く。
「会ってどうする?」
「話をする」
「話だと? いったい何の話だ?」
「他愛もない話だ。従弟なら誰でもするような。――ああ、そうだ。お互いの苦労話とかするかもな」
暗い笑みを浮かべる蒼潤を峨鍈は探るような目つきで見つめた。
「一度でいい。会わせてくれたら、お前のこと、きっと好きになるよ」
「……」
心にもない出任せだと分かっていても、蒼潤の心を得られるのであれば叶えてやりたいと思ってしまう。
蒼潤ほど、表情や態度に気持ちが表れてしまう者など他にいないだろう。
つと視線を逸らし、居た堪れなさそうにしている蒼潤の様子を見下ろして、峨鍈は重たく息を吐き出した。
いっそ哀れで愛おしくさえ思う。
「いいだろう」
蒼潤が肩を揺らして峨鍈に振り向く。
驚きに大きくなった瞳は、ぴたりと涙を止めていた。
「本当に?」
「ただし、蒼姓を名乗ることは許さん。万が一、名を聞かれたら夏昂と答えろ。約束できるのなら、俺の側仕えとして皇城に連れて行ってやろう」
「約束する」
厄介な約束をさせられているという自覚はあったが、蒼潤がにっこりと笑みを浮かべて言ったので、峨鍈はもう後のことはどうでも良いような気持ちになる。
「いつ連れて行ってくれる?」
「少し待て。明日すぐにというわけにはいかない」
「あまり待てない」
ようやく笑顔を見せた蒼潤が再び気落ちしたような表情を浮かべたので、峨鍈は胸を突かれたような心地になって蒼潤を抱き締める。
口づけたい。
他に慰め方を知らなくて、ただ、ただ、蒼潤を甘やかし、愛おしみたい。
そう思って顔を寄せれば、蒼潤がギュッと瞼を閉ざしたので、口づけながらその体を臥牀の上にゆっくりと押し倒していく。
覆い被さって、葵陽に来るまでの夜を共に過ごして少しずつ自分に慣れさせてきたその肌に、互いの心地良さだけを求めるように優しく触れた。
それから、峨鍈は蒼潤の隣に寝転んだ。
「もう眠れ」
暗闇に響いた声に、うん、と答えて蒼潤は峨鍈に背を向けて猫のように体を丸める。
峨鍈は今までのように蒼潤を抱き締めて眠りたかったが、それを許さないと言わんばかりの蒼潤の背中だ。
峨鍈は諦めて掛布を引っ張り蒼潤の肩を覆うと、その小さな背中を撫でる。
何度も撫でているうちに、やがて、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。
△▼
目覚めると、すぐ隣に峨鍈が眠っていて、蒼潤は気まずい思いに駆られた。
目元がヒリヒリと痛む。
あんな風に泣くつもりはなかったのに、峨鍈の顔を見たら抑えきれない感情が一気に溢れ出てしまった。
彼の瞳に映る自分は、なんて無様なのだろう。
男なのに。
男のくせに、女の格好をして男の妻になり、その男の新しい側室から挨拶を受けて、そして――。
再び涙が滲みそうになって、蒼潤は思考を止めた。
体を起こし、先に牀榻から出ようとすれば、峨鍈が瞼を開いて蒼潤の腕を掴んだ。
「起きていたのか。――目が腫れているな」
「……」
「天連」
「……なんだよ」
「不安や不満がある時は、昨夜のように言え。全部は叶えてやれないだろうが、善処する」
「……」
「ひとりで抱え込むな」
偽善者め、と蒼潤は表情を歪めた。
罵って、殴りかかってやりたい気分だった。
結局、姉の蒼彰の言う通りで、自分は彼に騙されて、利用されただけなのだ。
蒼家の血がなければ、斉郡の叛乱さえ鎮圧できたか分からない男だ。
それが今や司空で、皇帝を擁立している。
(――いや、違う。俺は何もかも誤ったのではなく、時を見誤ったんだ)