5.渾身の出来
「杜司徒が陛下を擁立しているのは、他に適齢な皇族男子がいないからです。存命の郡王は、寧山郡王と越山郡王、そして、互斡郡王のみで、お三方とも既にお年を召されていて、杜司徒の娘や孫娘たちとは年齢が合いません」
寧山郡王と越山郡王にはそれぞれ息子がいたが、恙太后によって暗殺されている。
それ故に、蒼潤は恙太后の手から逃れるために産まれた時から性別を偽ることになったのだ。
「そのような時に、深江郡主がじつは深江郡王だと分かれば、杜司徒はどう考えるでしょうか。深江郡王であれば、寧山郡王や越山郡王に後ろ盾を請う必要はなく、むしろ郡王たちの方から擦り寄ってくることでしょう。なぜなら深江郡王は、陛下とは異なり、血に約束された正当な玉座の主だからです」
「杜圻は陛下を捨てて、天連を擁立するか」
「つまり、謀叛です」
キラリと孔芍の瞳が輝いたように見えた。
その表情が活き活きとしているように感じられて、峨鍈は苦笑を漏らす。
「杜司徒と共に私腹を肥やしている者たちを根こそぎ排除する機会です。一掃された朝堂はさぞかし風通しが良くなることでしょう」
「要するに、天連と杜圻を結び付けるために俺は杜圻の娘を側室にすればいいんだな?」
「くれぐれも手を出さないようにしてください。万が一、杜司徒の娘が殿の子を身籠るようなことになったら、やっかいなので」
分かった、分かった、と言って峨鍈は片手を振った。
蒼潤を餌にするようで気が進まない上に、峨鍈がうまく立ち回らなければ謀叛に巻き込まれた蒼潤は死んでしまうだろう。
峨鍈は人差し指を立てると、孔芍にそれを突き付けて言った。
「勝手に動くなよ。動く時は必ず事前に報せろ」
「承知致しました」
深く頭を下げた孔芍に頷いて峨鍈は杜圻に向けて文を書く。
瞬く間に話がまとまり、翌月早々に杜圻の末の娘を側室に迎えることとなった。
△▼
葵陽の大通りを皇城に向かって進んで行くと、その手前で東西に貫く大きな道とぶつかる。
その道よりも北に名家や高官の邸が立ち並んでいる区画があり、峨鍈は葵陽に移ると決めた時に人を送り、その区画でも比較的皇城に近い場所で空き家を探させた。
荒れ果てた葵陽で適当な空き家を探すのは容易である。呈夙の粛清から逃れようと葵陽を去った者たちが大勢いたからだ。
かつての大尉の住まいだったという邸に定めて、修繕し、暮らし始めた。
通りに面した正門から入ってすぐの南跨院には峨鍈の私室がある。来客を迎えたり、持て成したりするのもこの棟である。
南跨院の東側は園林であり、南跨院と園林の奥に東跨院と西跨院がある。
梨蓉たちや子供たちが暮らしているのは東跨院で、西跨院は蒼潤がひとりで使っていたのだが、峨鍈が新たに側室を迎えることとなり、西跨院の一室をその側室に与えることになった。
「本日、岺姚殿が西跨院に入られました。しかし、本当によろしかったのでしょうか?」
皇城から邸に戻って来ると、梨蓉が羹を持って峨鍈の私室にやってきた。
彼女が不安げな声を響かせたので、峨鍈は珍しく思って、彼女の手を引いて牀に並んで座る。
「どうした?」
「東跨院が手狭だと言うのであれば、私か嫈霞が西跨院に移った方が良かったのではないでしょうか。天連殿には隠さねばならないことがありますから」
「いや、いい。杜圻の娘は西跨院においておけ」
「ですが、天連殿は19歳の男子。幼い見た目に、幼い言動をされますが、もはや19歳なのです。そして、岺姚殿も19歳。万が一のことが起きるやもしれません」
「……」
押し黙った峨鍈の様子を見て梨蓉は何かを察したらしく、表情をムッとさせた。
「殿、もしや何か企んでおられますか?」
「……」
「もし、また天連殿に女を宛がおうとされているのでしたら……」
「それはない」
梨蓉の言葉を遮るように否定すれば、彼女は僅かに瞳を見開く。
そして、ふっと微笑み、持って来た羹を土鍋から器に注いで、その器を峨鍈に差し出した。
「でしたら良いのです。――ご自分の気持ちから目を逸らすために天連殿に女を宛がおうとされていた殿は、なんと申しますか、私の目から見て、大変情けなかったので」
「俺はただ、あいつも男ならば女を知るべきだと思っていただけだ」
「そのお考えは今も?」
「いや。たとえ女が相手でも、他の者にあいつを触れさせたくない」
はっきりと言い切って、峨鍈は受け取った器を口元に運び、羹を啜る。
骨の付いた鶏肉にネギと生姜、大根、蓮根、棗を入れて煮込んだ羹は、塩加減が絶妙だった。
ふふふっと梨蓉が笑みを零し、殿、と妙に優しい声音で峨鍈を呼んだ。
「今日は、岺姚殿と初めて対面するので、天連殿に目いっぱい着飾って貰いましたの。嫈霞に衣を選んで貰い、明雲に化粧を頼み、雪怜には髪を結って貰いました。そして、私は装飾品を選び、これでもかと言うくらいに飾り立てましたので、今日の天連殿は私たちの渾身の出来ですわ」
「ほう……」
「天連殿ご自身はかなり窮屈な思いをされていらしたので、もう着替えて化粧も落とされてしまったかもしれませんが」
「そうか。それは見てみたかったな」
「私も殿にお見せしたかったです。――もしかしたら、まだ着替えていらっしゃらないかもしれません。今夜は岺姚殿のところでお休みになられるのでしょう? 西跨院に向かわれるのですから、天連殿のもとにも立ち寄られてみてはいかがですか?」
「……」
孔芍から杜圻の娘には手を出すなと言われているため、今夜は岺姚との初夜だが、峨鍈にはそれを行うつもりがなかった。
自分の臥室で休むつもりだったが、梨蓉から蒼潤の話を聞けば、俄然、蒼潤の顔が見たくなる。
(それにしても、あいつの顔をずいぶんと見ていないな)
梨蓉と孔芍から半ば脅されるように、せっつかれ、焚きつけられ、それでも峨鍈は蒼潤に対してどのように接するべきか悩み、日々の責務に忙殺されていた。
葵陽に移り住んでから三ヶ月が経とうとしている。その間に、蒼潤と言葉を交わしたのは数回あったか、なかったか。
あったとしても、二カ月以上も前のことかもしれない。
「殿、宵の口ですが、天連殿のもとに寄ってから岺姚殿のもとに行くのであれば、そろそろ向かわなければなりませんよ」
梨蓉に促されて峨鍈は私室を出た。
下男に松明を持たせて西跨院に向かう。途中まで梨蓉と共に歩み、西跨院の門の前で別れて、梨蓉が彼女の侍女たちと東跨院に戻って行く後ろ姿を一瞥してから門をくぐった。
蒼潤の私室は西跨院の正房だ。中庭をまっすぐ奥に進んだ正面の殿舎がそれである。
岺姚は西廂房に住まわせているようだ。そちらに視線を向けると、窓から松明の灯りが漏れている。
峨鍈は再び正面に視線を戻して、正房の手前の階を使って回廊に上がった。
入口の衝立を避けるようにして室の中を覗けば、薄闇の中で蒼潤の乳母が床に座って松明を掲げているのが見えた。
蒼潤の姿を探して室の中を見渡すと、蒼潤は文机の前に座っていた。
その姿は、深藍色の裙を穿き、白藍色の深衣の上に天色の深衣を重ねて纏い、髪を頭頂部で大きくまとめるように結い上げて、簪を挿して、梨蓉が『渾身の出来』と言った格好のままだ。
そうと知って峨鍈は口元を緩ませた。
「天連」
薄闇に沈んでいるかのような静かな室の中に声を響かせて蒼潤を呼べば、蒼潤は気だるそうにゆっくりと振り向いた。
白粉をはたかれ、眉を描かれ、唇に紅を塗られた顔が峨鍈に向けられる。
目尻には朱を差し、頬紅をつけたその顔を目にして峨鍈は、ハッとした。胸を鷲掴みにされた心地になり、呼吸を忘れて蒼潤の姿に魅入った。
(いつの間に――)
子供だ、子供だと思ってきたが、梨蓉の言う通り、蒼潤も19歳である。
いつの間に、蕾が花開くように美しくなっていたのだろうか。悪童のような為りばかりしているため、これほどまでとは気が付かなかった。
最後に蒼潤の女装姿を見たのは、併州城から葵陽に向かう時だ。道中は人の目があるため、ずっと女の姿をさせていたが、ここまで着飾っていなかったし、化粧もしていなかった。
では、衣や化粧、装飾品の力かと言えば、それだけではないことは蒼潤の表情を見れば分かる。
憂いのある瞳で峨鍈を見上げて、物言いたげに薄く唇を開いている。
蒼潤の面立ちは、かつては丸みを帯びて幼さを主張していたが、今や頬骨から顎にかけてすっきりとした綺麗な曲線を描くようになっていた。
峨鍈は、花の甘い香りに引き寄せられるように蒼潤に歩み寄り、その姿を見つめながら柔らかく微笑むと、座り込んでいる蒼潤に向かって手を差し伸べる。
「よく見せてくれ」
「……」
蒼潤は峨鍈の手を取って立ち上がると――背はさほど伸びていないようで――下から彼の顔を睨ねめ付ける。
「なぜ来たんだ」
「梨蓉から渾身の出来だと聞いたからだ」
ちっ、と蒼潤は舌打ちをした。
何が蒼潤の気に障ったのか、蒼潤は、ぎゅっと下唇を嚙みしめる。
梨蓉の名を出したからだろうか。だが、蒼潤と梨蓉の関係は良好なはずである。
では、やはり新しい側室を迎えたからだろうか。――そうだとしたら、まるで蒼潤が嫉妬してくれているようではないか。
強烈な喜びの感情が胸に湧いて、蒼潤に触れたい、抱きしめたいと強く思った。
しかし、その時、不意に蒼潤が苦しげに表情を歪めた。
【メモ】
四合院…中庭を『ロ』の字に囲った造りの家。
これを基本に、建築を縦に伸ばす「進」、横に並べる「跨」
『ロ→』一進 『日』→二進 『目』→三進 四進、五進もある。
二進四合院からは前庭がつく。前庭までの建物は応接や客室。
「跨」がない場合、中央が母屋(正房)で、主人が住む。東の建物(東廂房)には息子が住み、西の建物(西廂房)には主の母親や妻、娘が住む。
南側の建物(倒坐房)には、逆向きの間があり、厨房や厠がある。
帝都の峨鍈邸…南跨院、東跨院、西跨院がある。南跨院の東側は園林(庭園)
宵の口…午後8時か9時頃