4.限りなく脈のある片想い
(だが、梨蓉。お前はひとつ気が付いていない)
これまで蒼潤は確かに峨鍈を高みに連れて行ってくれる存在だった。
しかし、峨鍈は葵陽に来て、蒼絃という蒼家の血を新たに手に入れてしまった。
蒼潤は本来、郡王で、玉座の正当な主であるが、実際にそこに座しているのは蒼絃である。
皇帝である蒼絃さえ手の内にいれば、峨鍈は天下に号令をかけることができる。それも、郡主でしかない蒼潤よりもずっと強く大きな声を上げることができるのだ。
せめて蒼潤が子を産めるのであれば話は違っただろうが、子の産めぬ郡主である蒼潤はもはや峨鍈には不要な存在となっており、もし蒼潤が郡王として玉座を望んだ時には、剣を交えてでもそれを阻まなければならない立場にあった。
己が再び正室に戻れる可能性に気付いていない梨蓉が峨鍈の私室を去り、入れ代わるようにして孔芍が両腕に書簡を抱えて入ってくる。
彼は能面のような表情の読めない顔をしていたが、峨鍈には孔芍が言いたいことが分かっていた。
なので、峨鍈は孔芍が口を開く前に先手を打つ。
「死なせるつもりはない」
はっきりと言い放つと、孔芍は綺麗に整った眉を歪めた。
抱えていた書簡を文机の上にどさりと置き、彼は峨鍈の正面に腰を下ろして、すっと背筋を伸ばす。
「皇帝を手の内に収めた今、不要な存在かと思いますが」
おそらく孔芍は室の外で峨鍈と梨蓉の会話を聞いていたのだ。
盗み聞きしていたというよりも峨鍈に用があってやって来たところ、梨蓉が先に来ていたので遠慮して回廊で待っていて聞こえてしまったのだろう。
梨蓉とはまた別の角度から峨鍈に切り込んでくる。
「あれを眺めていると、愉しいのだ。俺の気に入りの玩具だと思って捨てずにおいて欲しい」
「玩具ですか……。その程度であれば、捨てるべきかと思います。禍根を残すことになりますので」
峨鍈は孔芍の美しくも冷ややかな顔をじっと見つめて押し黙り、孔芍もまた、その胸の内を探るように峨鍈を見つめ返してきた。
――禍根を残すべきではない。
孔芍のその考えは十分に理解できる。
恙太后が郡王たちを帝都から追い出し、呈夙が蒼絃の兄弟をことごとく殺したのも同じ理由だ。
蒼潤がいれば、蒼絃の正当性を疑問視する声が上がり、蒼潤を担ぎ上げようとする輩が必ず沸くからだ。
それ故、手っ取り早く蒼潤を消してしまうのが一番良いと孔芍は考えている。
しかし、そんなこと峨鍈にできるわけがなかった。
蒼潤と婚姻を結んだ時からずっと、いつかこんな日が来るだろうと覚悟していたつもりだったが、いざその時が来たら、なんと無様なことだろうか。
蒼潤に対してこんなにも情が移るとは思いもしなかった。こうなっては蒼潤を切り捨てることなどできるわけがない。
どうすることもできないと押し黙った峨鍈を見て、孔芍の口から大きなため息がひとつ漏らされた。
「分かりました。生かしておくという前提で策を考えます。ですが、一つ条件があります」
「何? 条件」
峨鍈が表情を険しくして聞き返すと、孔芍は、こほんと咳払いをしてから言った。
「あの方を、殿に惚れさせてください。けして裏切る気など起きないくらいに惚れさせるのです。わたしの見たところ、殿の片想いですよね?」
なっ、と思わず声を漏らして峨鍈は孔芍を見やる。
やはり梨蓉との会話を聞いていたのだ。孔芍には自分の蒼潤への想いを明かしたことはなかった。
もっとも伝えられなくとも殿の様子を見ていたら分かりますと孔芍ならば真顔で言ってきそうであるが――。
知られてしまったのなら致し方がないと、開き直った心地になって峨鍈は目を細めて孔芍を見やる。すると、彼は続けて言い放った。
「あの方の情緒が育ちきっていらっしゃらないのが原因だと思うのですが、殿の想いがまったく伝わっていないようにお見受け致します」
――まったく伝わっていない。
その通りだと思い、ああ、と低く唸って文机に肘をつくと、峨鍈は両手で頭を抱え込んだ。
情緒が育ちきっていないと孔芍は言ったが、おそらく蒼潤は恋情を未だ知らない。要するに子供なのだ。
己が恋情の対象になり得ることにも気付いておらず、そのため、峨鍈をそのような目で見ていないのだ。
故に、贈物が好意と結びつかない。抱き締めても、口づけても、それらを好意とはまったく違うものだと認識している。
そもそも自分が、それらは気持ちがなくともできるものだと蒼潤に教えてしまったことが悪いのだが……。
とにかく蒼潤はこれまでの女たちとは勝手が違い過ぎて、峨鍈には打つ手がないのである。
「しかし、殿。あまり時がありません」
「分かっている」
「おそらく、あの方が龍である限り、あの方を担ぎ上げようとする者は絶えず現れることでしょう。どんな甘い言葉で囁かれようと、あの方が揺るがないくらいに殿があの方をしっかりと繋ぎ止めてくださるのなら、何も案ずることはないのです。――なので、どうぞ、あの方を惚れさせてください」
できますか? と孔芍は言って、静かな眼差しで峨鍈を見つめた。
峨鍈はそろりと顔を上げて、その眼差しを正面から受け止める。
「できると思うか? 相手は、あれだぞ」
「では、死なせますか」
「死なせはしない」
苦笑交じりのため息を漏らして、孔芍は肩を竦めた。
「殿、どうぞ頑張ってください。わたしの見たところ、脈はあると思います」
「本当か? 本当にそう思うか?」
「はい。限りなく脈のある片想いですよ」
励ますように、だが、どことなく揶揄うように孔芍は微笑む。
それから一変して表情を引き締めると、ところで話は変わりますが、と言って声を潜めた。
「杜司徒のことです」
「杜圻?」
前置きされても、あまりにも話が変わり過ぎていて峨鍈は不意を突かれたような心地になって、目を瞬く。
――杜司徒。杜圻。
司徒とは、司空や太尉と共に三公の一つである官位である。
そして、杜圻は呈夙に抜擢されて司徒の地位を手に入れた人物であるが、呈夙の他の遺臣たちとは一線を画して蒼絃を支えて来た人物であった。
呈夙の死後、杜圻は寧山郡王と繋がりを持ち、蒼絃の帝位を護りながらも存命する郡王たちを帝都に呼び戻そうと動いていた。
寧山郡王と越山郡王それぞれの娘を蒼絃の妃に迎える約定は既に交わされており、寧山郡王と越山郡王の帰都も直に許されることとなっている。
先に帰都を許された互斡郡王――蒼昏も、娘の入宮の打診を受けたが、蒼昏はこれを辞退し、帰都の意思もないという。
かつて蒼潤が父親について語ったように、蒼昏には今さら帝都の権力闘争に身を投じる気力がないのだろう。
(おそらく杜圻は、正当性が疑わしくも郡主を皇帝の妃に迎えることで郡王たちの後ろ盾を得て、蒼絃の玉座を揺るぎないものにしたいのだろうな)
峨鍈は孔芍に視線を向けて話の続きを促した。
「杜司徒が現時点で殿の味方であるか否かは分かりませんが、彼が陛下の決定に大きな影響を与えているのは確かです。先の密書も杜司徒が陛下に提案したものに違いありません。彼が殿と同じ方向を見ているのでしたが問題はないのですが、そうでないのなら、早々に退場して頂きたいものです」
「仲草。さてはお前、杜圻が嫌いだろう」
孔芍の能面顔がはらりと剥がれ落ちて、彼はこの世のすべての闇を背負っているかのように表情を歪ませて、憎たらしげに吐き捨てた。
「嫌いです」
「ほぉー」
これは面白いと思って峨鍈は文机に両肘をついて身を乗り出す。
もともと孔芍は人の好き嫌いがはっきりしている方で、好ましいと感じている相手とは気安く言葉を交わすが、嫌っている相手には無言で冷笑を浮かべ、酷い時にはその者の存在を無視して振舞うようなところがあった。
しかも、表面的には穏やかで、人当たりが良さそうに感じられるから、じつに質が悪い。
「杜圻のどこが嫌いだ?」
「私腹を肥やしているところです」
「それは確かな情報なのか? 証拠は?」
「集めているところです。――それで、殿。さきほどの話の後でする話ではないとは思うのですが、杜司徒の娘を側室に迎えるつもりはありませんか?」
「何?」
「そういう話を杜司徒の方から打診されているとお聞きしました」
杜圻には何人も娘や孫娘がいる。そのうちのひとりは後宮に入っていて、他の娘たちもそれぞれ名家や有力者に嫁いでいた。
峨鍈も司空に任じられてすぐに杜圻から声を掛けられて、末の娘を側に置いて貰えないだろうかと側室の話を持ち掛けられたのだが、司徒の娘を側室にしては申し訳がないと言って、その場で断っている。
ところが、その後も顔を合わせる度にその話を持ち出されて、正直なところ、辟易していた。
「杜司徒の娘を側室に迎えてどうする?」
「内に入ることができれば、確実な証拠を得られるのではないかと思いまして」
「それは側室に迎えねばできんのか?」
うろんげに孔芍を見やれば、彼はにっこりと微笑んで目を細める。
しかし、潜めた声で彼が口にした内容は表情とはまるで異なった不穏なものだった。
「――じつは、杜司徒を泳がせたいのです。杜司徒だけを排除しても新たな杜司徒が現われるだけなので、しっかりと根から断ちたいと考えております」
「いや、違うな」
峨鍈はジロリと孔芍を睨む。
この話は、孔芍にとって先ほどの話の続きなのだ。
「お前が泳がせたいのは、天連なのだろう」
蒼昏に帰都の許可が出て、蒼昏自身は互斡国に留まることを決めたが、蒼昏の娘である蒼彰と蒼麗は帝都にやってくるのだという。
蒼麗はともかく、蒼彰が帝都に来れば、必ず蒼潤と会い、蒼潤の耳に吹き込むだろう。
――帝位に着け。玉座を取り戻せ。
蒼潤の心に燻っていた野心が蒼彰のその言葉で芽吹き、そして蒼潤は動き出すはずだ。