4.塀を越えていく
「阿葵様を護衛しているのさ。だが、雇われているわけじゃない。あいつら、ただの街人だ」
「どういうことだ?」
「阿葵様は、よく住まいを抜け出してくるのさ。そんで、街の子供らと遊ぶんだ。あいつらの多くは子供らの親で、街で阿葵様が危険な目に合わないように見守っている有志ってところだ」
「阿葵様は、あんな為りだからなぁ」
別の男が堪り兼ねたように口を挟んできた。
「男子だと思われて、何度も刺客に狙われてきたのさ」
「何?」
峨鍈は耳を疑う。
――男子だと思われて?
「男子ではないのか?」
尋ねた峨鍈の声は厩の中の歓声で打ち消された。
産まれたー! と嬉しげな明るい声が響き渡り、安堵のため息がそこかしこで漏らされる。
張り詰めた空気も和らいで、良かった、良かった、と口々に言い合い、人々は肩を叩き合った。
「阿葵様ーっ! 仔馬、産まれたー?」
「見せてー!」
「見たい! 見たい!」
さっそく仔馬の誕生を聞き付けな子供たちが里から続々と飛び出してきて、厩の入口に詰め寄せて騒ぎ始めた。
その声を聞いて、あの少年が頬に付いた泥を手の甲で拭いながら厩から姿を現す。
「まだ駄目だ。入ってくるなよ。翠恋は疲れてるし、お前たちの声で仔馬が怖がる。だから、しぃー、だ」
阿葵と呼ばれる子供は、人差し指を立てて口元に押し当てた。目を細めて、自分よりも更に幼いか、同じ年頃の子供たちに向かって微笑む。
見るも無残な姿であった。髪も衣も馬糞のついた藁でまみれ、両手から肩まで母馬の血と羊水でぐっしょりと濡れている。
(この汚らしい少年が、まさか……郡主?)
翠恋という馬は郡主の馬だと言う者がいて、別の者は翠恋は阿葵の馬だと言う。
そこから導かれる答えは、阿葵が郡主だということだ。
しかし、どう見ても汚い身なりの少年である。
この少年が本当に、少年ではなく、少女だというのだろうか。とても信じがたい。
子供たちと笑い合っていた少年が、ふと顔を上げて、峨鍈の方に視線を向けた。そして、その顔が一瞬で強張る。
衣の汚れを払い落そうと、ほんの少しだけ体を叩いたが、すぐに諦めて峨鍈の方に歩み寄ってきた。
(汚い)
目の前に立たれると、獣臭さと血と羊水の生臭さが混ざり合ったなんとも言い難い臭いが漂ってくる。
思わず峨鍈は顔を顰めた。これなら浮浪児の方がよほど綺麗だろう。
(汚い子供だ)
顔を背けたくなった――その時だ。峨鍈の視界に青が過ぎった。はっとして目の前のひどく汚れた髪を見やると、羊水が掛かって濡れた部分が青色に染まっている。
黒に青の斑が散った髪を、もっとよく確かめようと目を凝らすと、ばさりと布地が視野を妨げた。
「阿葵様、よそ者の前です。顔を隠してください」
燕と呼ばれていた少年が自分の上衣を脱いで、後ろから阿葵に頭から被せる。
周囲の大人たちが殺気立ったのが分かった。子供たちも緊張を顔に走らせて、じっと体を堅くしている。
先ほどまで峨鍈の隣に立っていた男も、峨鍈から距離を取って身構えている。つまり、彼自身も阿葵の護衛だったのだ。
よそ者がいれば積極的に話しかけ、相手の情報を得ることが彼の役割だったのだろう。
阿葵が燕の上衣で顔というよりも頭を隠しながら片手を上げ、周囲を見渡すようにして言った。
「大丈夫だ。こんな堂々とした刺客などいない」
それから、くっきりと大きな瞳を再び峨鍈に向けて、高く澄んだ声を響かせる。
「わたしは深江郡主。互斡郡王の娘だ。――お前は誰だ? お前の名と互斡国に来た目的を聞こう」
「わたしは、姓を峨、名を鍈、字は伯旋と申します。互斡郡王に招かれて互斡国に参りました」
「父上の客人なのか。――父の客人がこんなところで何をしている? まさか迷ったのか? よそ者にうろうろされては皆が不安がる。仕方がない。案内しよう」
阿葵は峨鍈に、しばし待つように言うと、再び厩の中に戻って行く。翠恋と仔馬に声を掛けると、馬飼いたちとも順に言葉を交わし、厩から出て来た。
「阿葵様、もう帰ってしまうの?」
「また来るよ。その時にはいっぱい遊ぼう」
「阿葵様、仔馬の名前を考えておいてくださいね」
「うん、考えておくよ」
纏わりついてくる幼い子供たちの頭をくしゃりと撫でてから峨鍈のもとに戻る。そして、大通りに向かって歩き出した。
阿葵の半歩後ろを燕がついて来る。燕の衣も汚れていたが、涼しげに整った顔は無事だ。身なりや顔立ちだけを見れば、燕の方がよほど身分が高そうに見えた。
この辺りの豪族の子息なのかもしれない。次男か庶子が、郡主の側使いとして召し上げられたのだろう。
「お前の馬、いい馬だな。名前はなんて言うんだ?」
牆《土塀》に沿って歩いていると、阿葵が峨鍈の馬に視線を向けて言った。
馬の手綱を曳きながら峨鍈は答える。
「影彩です」
「そうか。影彩、お前は良い子だ」
阿葵は笑みを浮かべて馬の首を軽く叩いた。
「影彩は速く走るか?」
「走ります」
「翠恋もとても速く走るんだ」
「郡主様は――」
ぱっと視界が開けて横道から大通りに出る。距離を取りながら後ろから追って来る者や、大通りから視線を向けてくる者がいた。皆、阿葵の護衛をしているとかいう街人だ。
「刺客に狙われているというのに、なぜ外を出歩くのですか?」
「邸の奥に籠っていても刺客はやってくる。それに、お前はわたしの年頃の時に、邸の奥で籠っていられたか?」
「……いられませんでしたね」
そうだろう、と阿葵は大きく深く頷く。その様子を面白く思って、峨鍈は窘めるような口調で言った。
「しかし、郡主様が出歩かれるのは危険です」
「郡主は大人しく邸の奥にずっと引き籠っていろと? はっ、できるものか。だって、世界はこんなに広いんだ!」
言って、阿葵は鳥の翼のように両腕を大きく広げて、高い空を仰いでくるりとその場で回って見せた。
ばさりと、燕の上衣が阿葵の頭から落ちて、青く斑に染まった黒髪が露わになる。陽の光に透かされた黒髪は、目の錯覚か、根本から毛先まですべてが鮮やかに青く見えた。
「阿葵様!」
燕が慌てたように駆け寄って自分の上衣を再び阿葵の頭に被せる。
大通りを北上するように歩き進み、やがて城壁に行き当たる。城門をくぐると、正面に官庁の宮殿がある。
ずっと影彩の脇腹を撫でていた阿葵が、ぱっと影彩から離れて、峨鍈に振り向いた。
「案内はここまでだ。お前はここを真っ直ぐ行け」
「郡主様は?」
「あちらの塀を越えていく」
「塀を越えていく!?」
驚いて聞き返すが、すでに阿葵は燕を伴って駆け出している。
官庁の脇を抜ける道に向かって走り去っていく小さな背中を、やがて宮殿の陰に隠れて見えなくなるまで、峨鍈は視線で追い続けた。
△▼
互斡郡王――蒼昏が、峨鍈を歓迎して宴を催した。
50歳手前の蒼昏は、終始穏やかな表情を浮かべた小柄な男で、裏表のなさそうな人柄をしている。事実、彼は素直過ぎたために政敵に陥れられたわけで、彼にもっと腹黒さがあれば、今頃、玉座に座っていただろう。
話題はまず峨鍈の祖父に蒼昏が救われた話から始まった。かれこれ24年も前の話である。
葵暦167年、26歳だった蒼昏は、15歳の桔佳郡主を伴って帝都を発った。
二人はその年の春に婚礼を挙げたばかりで、まさかその数か月後に蒼昏が廃位されるとは思ってもみないことだった。
慣れない土地での心労で弱った桔佳郡主が健康を取り戻し、河環郡主を産んだのは、帝都を去ってから9年後のことだ。
蒼昏には、離縁して帝都に置いてきた側妃との間に子はなく、妾妃もいなかったため、河環郡主が蒼昏の初めての子となる。
その2年後の葵暦178年。この年の秋に誕生したのが、深江郡主だ。
そして、玉泉郡主が更に2年後に産まれ、蒼昏自慢の三姉妹として育つ。
蒼昏の合図で宴室の引き分け戸がゆっくりと開かれた。回廊に座した3人の少女たちが姿を現し、流れるような優美な所作で頭を下げる。
3人とも深衣を重ねて纏い、髪を丁寧に結っていた。
阿葵と呼ばれていたあの郡主は、3人のうちのどれだろうかと峨鍈は視線を巡らせる。じつに上手に化けているようで、あの汚らしい子供がこの3人の中にいるとは到底思えなかった。
「長女の彰、次女の潤、三女の麗でございます」
河環郡主、蒼彰。
深江郡主、蒼潤。
玉泉郡主、蒼麗。
蒼昏に呼ばれて、少女たちが順に顔を上げる。
(深江郡主は、互斡郡王の次女か。すると、潤というのが、あの子の名なのだな)
そして『阿葵』というのは蒼潤の幼名なのだろう。
蒼潤は、紺藍色の裙に、天色の深衣と白縹色の深衣を重ねて纏っている。髪は二つに分け、三つ編みを編んで『8』の字によじって左右の耳の近くで纏めて紐で括っていた。
眉を描き、唇に紅を挿した顔は、厩で出会った子供とはまるで別人である。
「この通り、わたしの娘たちはまだ幼く、峨殿の目に敵う娘がおるかどうか……」
「郡王殿下の郡主たちは、それぞれ、智と勇、そして、美に優れているとお聞きしました。こうしてお目に掛かり、なるほど、三人とも素晴らしい郡主たちですね」
峨鍈は、にこやかに笑みを浮かべて言った。
蒼昏は娘たちを紹介したものの、未だ峨鍈という人物を計りかねている様子である。ひどく消極的に、娘たちの幼さを強調していた。
【メモ】※『蒼天の果てで君を待つ』の設定です。
○○王…帝位を継がない皇子は王に封じられて、『○○王』という称号を貰う。○○には与えられた所領名が入るが、所領のない名目的な王もいた。爵位。
郡王…郡単位の所領を与えられた王。『○○郡王』。爵位。生母は郡主に限る。
郡王の正妃(郡主に限る)の息子も郡王に封じられる。
正当な皇族の血筋であるため、髪が青くなり、帝位継承権を持っている。龍。
県王…県単位の所領を与えられた王。『○○県王』。爵位。生母が郡主以外の皇子。
県王は一代限りなので、県王の息子は県王に封じられない。