3.葵陽へ
皇帝とは、絶対的な『正義』である。
殊更、青王朝において、蒼家の皇帝は『揺るぎない絶対的な正義』であった。
蒼家の血という正当性を持って天下を治めているからだ。
これを手に入れるということは『大義』を得ることに等しく、大義名分を掲げてどんなことでも為すことができた。
ところが、現皇帝の蒼絃は郡主を生母に持たない皇帝である。
それどころか、蒼絃の父である礎帝もまた郡主を生母にもたない県王であり、本来ならば帝位に着ける立場になかった。
正当性の弱い皇帝であることから、蒼絃が助けを求めて手当たり次第に送った密書の多くは無視をされ、これに応えて軍を率いて葵陽に進軍してきたのは、峨鍈だけだった。
わざわざ雅州まで進軍して、呈夙の遺臣たちと争ってまで手に入れるような『大義』ではないと、多くの者たちが考えたからである。
峨鍈自身も当初、彼らと同じように考えていた。
故に、内密にと送られて来た書状を受け取った時には、それを指先で摘まみ上げ、ひらひらと左右に振ってみせたのだ。
「気が進まぬ」
仮にも皇帝からの文である。
それを雑に扱う様子に顔を顰めながら孔芍が口を開いた。
「ですが、殿には大義が必要です。これまでは、叛乱が起こった地に望まれて、その地を平定してきました。そして、随州には殿の父君と彭顕の因縁を名目に攻め込みました。彭顕は死に、随州は晤貘の手に落ちましたが、殿と晤貘は敵対関係にあり、昨年の戦いで先に仕掛けてきたのは晤貘です。殿が随州を攻めても非難する者はないでしょう。――しかし、問題はその先です。殿には、その先に進軍する理由がございません」
「なるほど。その先か……」
いくら世が乱れているからと言って、大義名分なく戦を始めることはできない。
そんなことをしてしまえば、味方は付いて来ず、周囲に無用な敵を増やすばかりだからだ。
自分たちこそが正義なのだと信じているからこそ味方は安心して戦え、名分なく戦を始めるような相手ではないと分かっているからこそ隣人は隣人でいられるのだ。
大義名分を必要としていないのは、晤貘くらいである。
主であり、義父であった呈夙を討ったことで、既に裏切者の汚名を着せられている晤貘は自分に正義がないことを承知しており――或いは、もとより正義など気にしておらず、気が赴くままに戦を起こし、他人の領地を奪っている。
晤貘は、いつ牙を剥き、その牙がどこに向かられ、誰に襲いかかってくるとも知れない猛獣だ。
晤貘はそれで良いのだろうが、峨鍈まで獣になることはできなかった。
峨鍈と向き合って座している孔芍が指先で空に地図を描きながら語る。
「具体的には、渕州、予州、黄州のことですが、渕州の瓊倶や黄州の蒼善との戦は、まだ避けるべきかと存じます」
彼らと峨鍈とでは、かなりの兵力差があるからだ。
「予州では、穆匡が瓊堵から離反し、力を付け始めています。それに従って瓊堵の力は弱まっているので、叩くのならば瓊堵が良いかと。しかし、やはり戦を仕掛けるためには大義名分が必要です。――殿は、蒼夫人を蒼夫人のままに留めておくつもりなのでしょうか?」
孔芍は蒼潤が男であることを知っている。
蒼潤が郡主ではなく、郡王であれば、それこそが天下に掲げる大義となるのだ。
現皇帝である蒼絃の正当性を断じて、蒼潤を玉座の正当な主として擁立する。正当な皇帝のもとで、天下平定を目指して起こす戦は、正義と呼ばれることだろう。
峨鍈は下男を呼んで火を持って来るように命じると、下男が掲げた松明の炎で密書を燃やした。
「天連のことは、郡主だと捉えてくれ」
「では、やはり葵陽に行くべきです。権威を失いかけているとは言え、青王朝は未だ滅びたわけではございません。青王朝に忠義を抱いている者は各地におりましょう。ならば、殿が皇帝を擁立し、雅州と帝都を復興させれば、天下の支持を得られるでしょう。――それこそが大義です」
孔芍の言を受け入れて、峨鍈は葵陽に向かうことを決める。これは秋の訪れを迎えた頃のことである。
峨鍈はまず、弟の峨旬に潘立をつけて併州城を発たせた。
呈夙の遺臣たちによる争いから皇帝を救い出すという名目で雅州に向けて進軍させ、呈夙の遺臣達を次々に討ち滅ぼしながら葵陽に向かわせる。
それを追うように峨鍈自身も妻子を連れて併州城を発つと、ひたすら西に向かう。
やがて雅州に入ると、南北を山脈に囲まれた平らな大地が眼下に広がった。
どんよりと重みを感じる灰色の雲から、ちらちらと粉雪が舞う中で見渡した平地に東から流れて込んでくる河――清河があり、その河畔に青王朝の帝都――葵陽が現われる。
遠目に見ても、県城や郡城とは比べようにない規模の城である。その大きさに圧倒された蒼潤が峨鍈の傍らで、これが……と呟き、息を呑んだ。
怖気づいているのかと思いきや、興奮に頬を上気させ、キラキラさせた瞳で葵陽の外郭壁を見上げている。
外壁門をくぐった後も、葵陽の街並みに馬の背から身を乗り出して眺め、馬車に乗れと言っても聞かなかった。
年が明けて、葵暦196 年。
峨鍈は雅州を平定し終えると、皇帝――蒼絃との謁見を果たし、その場で司空を任じられる。
司空は官制における最高位である三公の一つで、土木建設を管轄にしている。
呈夙、そして、呈夙の遺臣が荒らした帝都、及び、雅州を立て直すことに峨鍈は尽力していく。
△▼
「こんなところに来るのではなかった」
ゆっくりと食事をする時間もないと言えば、梨蓉が羹をつくって峨鍈の私室まで持って来てくれた。
器を啜りながら文机の上に広げた書簡に目を通していたのだが、羹を飲み干した後に零れ落ちた言葉がそれだった。
梨蓉の細く整った眉がぴくりと跳ねる。
「殿、それはいったいどういう意味でしょうか?」
「葵陽に来てから、お前たちと会う暇がなくなったということだ」
「私たち?」
じとりと梨蓉が視線を送ってきて、それから大きくため息をつく。
「私たちではなく、天連殿とお会いする時間がないとおっしゃりたいのでしょう? まったく殿はまた逃げておいでです」
「何?」
「どんなに忙しくとも天連殿の臥室に寝に行くくらいできるでしょうに。――あれからもうすぐ2年が経ちますが、ご自分の気持ちを天連殿にお伝えしたのですか? まさか2年間、ただ隣で眠っていただけですか? 贈物を送ったからと、自分の気持ちまで伝えたつもりになっていたら大間違いです。想いはきちんと言葉で伝えるものですよ、殿」
峨鍈が無言になったので、梨蓉は再び大きくため息をついた。
「なぜ天連殿のお心をしっかりと掴んだわけではないのに、このようなところに来てしまったのですか。帝都は様々な思惑が飛び交う場所です。天連殿を惑わせようとする者も現れましょう」
「分かっている。分かっているが、……そう、俺を責めるな」
「責めてはおりません。案じているのです!」
ぴしゃりと言って梨蓉は、キッと峨鍈を睨み付けた。
峨鍈は気まずい心地になりながらも呑み終えた器を梨蓉に返す。
「あいつは、どう過ごしている? 元気か?」
「とてもお元気ですよ。葵陽の大通りを歩いたり、遠乗りに出かけられたりしていらっしゃいます」
「護衛は多めにつけさせろ」
「もちろん大勢つけております。嫌がられるので、陰ながらですけど」
すべて心得ているとばかりに梨蓉が言ったので、峨鍈は頷いた。
すると、そうそう、と思い出したように梨蓉が手を打ち鳴らす。
「天連殿の父君に帰都の許しが出たことを、天連殿がとても喜んでいらっしゃいましたよ」
「そうか。それは良かった」
「ご自分が上奏したのだと、天連殿にお伝えしたらよろしいのに」
「そんな恩着せがましいこと言えるものか」
「では、私からお伝えいたしましょう。なので、殿はどんなに忙しくとも天連殿のもとに通ってくださいね。天連殿から感謝の言葉が聞けるかもしれませんよ」
わかった、わかった、と片手を振りながら峨鍈は、はたと思って梨蓉を見やる。
「それにしても、なぜ、お前が焚きつけてくる?」
「焚きつけるだなんて言葉が悪いですわ。――私にとっても天連殿が必要だからです。天連殿は子を産みません。殿を高みに連れて行ってくださり、将来的には驕にその座を与えてくださいます」
「なるほど」
納得して峨鍈は唸る。
梨蓉は嫈霞と仲が良いが、それは嫈霞が男子を産まなかったからだ。
嫈霞の方も、自分の娘がより良い嫁ぎ先に恵まれるように、奥を取り仕切っている梨蓉にずっと以前から尽くしている。
では、明雲や雪怜との関係はどうか。
けして悪いわけではない。とても上手に付き合っているように感じる。
しかし、それは峨鍈が後継を驕と定めていることに大きく由来していた。
その約定は郡主を娶るにあたって梨蓉と交わしたものであったが、しかし、この先、驕の身に何が起こるかは分からない。夭逝する可能性も絶対にないとは言い切れなかった。
その時、驕に代わって後継になるのは、軒だろうか。それとも、明雲が産んだ桓だろうか。
それについて、峨鍈の次に決定権を持っているのが正室である蒼潤だった。
梨蓉は何かと蒼潤の世話を焼いていて、その関係性は良好であった。ならば、蒼潤は梨蓉の息子である軒を推すはずである。
そう考えれば、確かに梨蓉にとって蒼潤は都合の良い正室であった。
【メモ】
和州
敖州 渕州 壬州
冷州 雅州 併州 随州
琲州
越州 黄州 予州