2.全天で最も明るい星
「気に入ったか?」
蒼潤が喜んだのを見て、峨鍈は得意げに唇の端を上げて笑む。
「――だが、そいつは戦場に連れて行くなよ」
「目立ちすぎるからだな」
「そうだ」
厩から引き出されてきた白馬は、厩の中にいた時から、その毛並みの白が浮いて見えたくらいに目立っていた。
こんな馬に乗っていたら、夜襲はもちろん不可能であるし、昼間の戦場であってもやたら目に付いてしまい、攻撃の的になってしまうだろう。
理解できるので、峨鍈に逆らうつもりはなく、蒼潤は素直に頷いた。
「乗ってみたい。今日はこの馬で遠乗りにいく」
「だが、やはり目立ち過ぎていて、戦場でなくとも標的にされそうだな。俺も一緒に行こう」
「えー」
「なぜ不満そうなんだ」
だって、と蒼潤は馬の首に手を添えて、白い毛並みの流れに沿うように撫でる。
「速く駆け過ぎるなとか、遠くに行き過ぎるなとか、お前、うるさいじゃん」
「お前が何事も『過ぎる』からだ」
むーっと膨れっ面になった蒼潤に峨鍈は笑い、下男に命じて厩から自分の馬も引き出させる。
本気で一緒に遠乗りに付いて来るつもりなのだ。蒼潤は後ろに控えている甄燕に振り向いて、いーっと歯を剥いた。
すると、甄燕は苦笑を漏らし、その不服げな顔を峨鍈に見られてしまうと案じて片手を払った。
蒼潤が峨鍈の方に顔を戻すと、彼はすべてを見ていたのだろう、蒼潤の頭をくしゃくしゃに撫でながら言う。
「今、月毛の馬を探させている」
「月毛?」
「栗毛よりも明るい毛色の馬だ。俺もまだ見たことがないから詳しくはないが、金色に輝いて見えるらしい。」
「へえ!」
「見てみたいか?」
「見てみたい!」
「なら、俺の言うことをちゃんと聞けよ」
つまり、速く駆け過ぎるな、遠くに行き過ぎるな、ということなのだと蒼潤は理解して、はいはい、と両手を上げて返事をした。
しかし、月毛の馬が見付かったという報せがないまま月日は過ぎて、田畑が黄金に輝く季節になる。
この年、椎郡は戦火に巻き込まれることがなく、気候も雨量も適切だったため、大いに収穫が期待できた。
どことなく浮足立った雰囲気が併州城に漂う中、蒼潤は峨鍈に呼ばれて、頭の高い位置でひとつに括った髪を馬の尾のように左右に振りながら厩に向かった。
(厩に呼ばれたということは、いよいよ月毛の馬が見付かったのか)
期待に胸を膨らませながら甄燕を連れて宮城の脇門を出ると、厩の前に峨鍈の姿を見つけた。
すぐに彼が蒼潤に気が付いて、厩の中に向かって声を掛ける。
「馬を出せ」
厩の中から嘶きが聞こえて、カツカツと蹄の音が近付いてきたので、蒼潤は峨鍈の隣に立って厩の入口に視線を向けた。
すると、黒々とした毛並みの馬が下男に手綱を曳かれて姿を現す。馬は、ぶるるるっと鼻を鳴らすと、つぶらな瞳で蒼潤を見つめた。
まさかと思って、蒼潤は馬に問い掛ける。
「てんろう……?」
信じられないことに馬が嘶いて答えた。
嘘だろ、と蒼潤はその青毛馬に歩み寄って、馬の鼻先に手をかざす。
鼻息が手にかかって、まるで撫でてくれと言うように蒼潤の手に馬が鼻面を押し付けてきた。
「天狼! どうしてお前がこんなところにいるんだ!? 信じられない。本当にお前なのか?」
天狼は、蒼潤が特別に可愛がっていた翠恋という名の牝馬が4年前に産んだ仔馬だった。
闇のように黒い牡馬なのだが、額にだけ白い毛が混ざり、その形が綺麗な十字をしているため、夜空に浮かんだ星のようだと思って、蒼潤が『天狼』と名付けたのだ。
全天で最も明るい星である天狼星に由来している。
「お前が喜ぶと思って、互斡国から連れてこさせた。どうだ? 嬉しいか?」
「嬉しい!」
ぱっと振り返って満面の笑顔で答えれば、面食らったかのような峨鍈の顔と目が合った。自分から訊いてきたくせに、なんていう顔をしているのだろうと呆れてしまう。
じとりと視線を送れば、こほんと咳払いをしてから峨鍈は言った。
「月毛の馬は時間が掛かりそうだ」
「もうそれはいいよ。天狼がいれば十分だ。天狼だったら戦場に連れて行っていいだろ?」
闇に溶けるような青毛の馬だ。夜に動く時には絶対に重宝される馬であることは間違いない。
蒼潤の問い掛けに頷いて、峨鍈は自分の馬も厩から出させる。
「遠乗りにいくぞ」
「うん」
併州城は、黒土の平野の中に外郭を大きく広げるようにして佇んでいる。
その周辺には田畑が広がっているため、馬を思いっ切り走らせるためには、外郭門を離れてもっと遠くまで行かなければならなかった。
峨鍈と馬を並べて駆けさせる蒼潤の後ろを、甄燕が馬で追ってくる。さらにその後ろを峨鍈の護衛たちが追ってきていた。
蒼潤は天狼の手綱を握りながら、大きく育った天狼に感慨深く思う。
天狼は、峨鍈と初めて出会った時に産まれた馬だ。
この馬が歩んだ時間だけ、蒼潤は峨鍈と共に過ごしている。
だから何だということはないのだが、天狼が蒼潤を背に乗せて駆けられるほど、逞しく育っていたことが蒼潤には不思議なことのように思えた。
(産まれたばかりの仔馬だった天狼がこんなにも大きく育っていたなんて)
時の流れの速さを感じると同時に、果たして自分はどの程度、成長したのだろうかと焦りを感じる。
調練に参加し、初陣も果たした。
城を落としたこともあるし、剣や弓の腕も以前よりずっと上がったように思う。
いつか帝位に着くのだと思いつつも、これまで蒼潤は政治にまったく明るくなかったが、軍事のことはもちろん、民生や司法について問えば、峨鍈が蒼潤に分かりやすいように噛み砕いて説明し、教えてくれるので、なんとなく理解できるようになった気がする。
県や郡は、いわゆる小さな国だ。
県を治める県令、郡を治める太守がどのように政治を行っているのか、その県令や太守に不正がないか監察する刺史や牧の仕事ぶりを目の当たりにしつつ、疑問に思ったことを即座に峨鍈に質問するのは、大いに勉強になった。
いつか蒼潤が玉座に座った時に、彼から学んだことが活かされるはずである。
ちなみに、昨年から峨鍈は併州牧と琲州牧を兼任している。
牧とは、軍事権を持った刺史のことだ。
蒼潤が武芸を磨き、知識を得ている間に彼もまた武力を高め、勢力を広げていた。
(大きく成長したのは、天狼だけではないということか)
蒼潤は手綱を引いて天狼の脚を止めた。峨鍈に振り返ると、彼も自分の馬の脚を止めて蒼潤を見やる。
天連、と彼が蒼潤を呼んだので、蒼潤は彼の馬の隣に天狼を並ばせた。
「雪が降り出す前に、ここを発つ」
「どこに行くんだ?」
「帝都に上ることにした。――お前も来るか?」
はっと息を飲んで蒼潤は峨鍈を見上げる。
青王朝の帝都――葵陽。
呈夙が散々荒らし、呈夙が晤貘に殺された後は、呈夙の遺臣たちがその後釜を争っているという。
そんな場所に向かって峨鍈はどうしようと言うのだろうか。
戸惑いが瞳に現れていたのだろう。峨鍈が付け加えるように言った。
「皇帝からの密書が届いたのだ。呈夙の残党を葵陽から一掃せよと。おそらく俺だけに送られたものではなく、手当たり次第に送った密書だろう。――俺はこれに乗る」
「だけど、随州はどうするんだ?」
晤貘が随州に居着いていて、いつどこに向けて兵を進めて来るのか、まったく読めなかった。
「芝水に蒲郡を任せ、晤貘を牽制する。万が一、晤貘が攻めてきたら、赴郡の石塢に援軍を出させる」
「爸爸に蒲郡を任せるのは?」
「南も気になるのだ。石塢にはどちらにでも行ける場所にいて貰いたい」
南というと、黄州と予州のことだろうか。それとも、越州だろうか。
越州には蒼勲がいる。
蒼昏や礎帝の異母弟であり、県王である。
礎帝が即位した際に越州南江国の相に封じられたが、いつの間にか越州牧となり、越州の広大な土地を勢力下においている。
黄州の牧は、蒼善である。
彼の数代前が郡王であるが、彼自身は郡王でも県王でもなかった。州牧としての功績と勤勉な人柄が認められて、胡帝の県主が彼に降嫁している。
そして、予州には瓊倶の異母弟の瓊堵と穆匡がいる。
峨鍈が彼らのうちのいったい誰のことを気にしているのか分からなかったが、南どころか、北には瓊倶、東には晤貘がいて、どちらの方角を向いても敵ばかりであった。
「――そうか、だから西なのか」
帝都のある葵陽は、併州や琲州から見て西にある。
蒼潤はそう呟きながら、何とは無しに西の空に視線を向けた。
葵陽には従弟――蒼絃がいる。
蒼絃は、蒼潤と同じく胡帝の孫である。
恙太后が産んだ県王である礎帝の子で、呈夙によってわずか10歳で玉座に座らされた蒼絃は、奇しくも蒼潤と歳が同じだった。
(蒼絃)
もしも蒼潤の父である蒼昏が皇太子であり続け、礎帝ではなく蒼昏が帝位を継いでいたら、蒼潤の人生は今とは大きく異なっていたはずだ。
蒼潤は皇城の後宮で郡王として育ち、今頃、玉座は蒼潤のものだったに違いない。
(――取り返してやる)
県王のくせに帝位についた礎帝。
その息子で県王ですらない蒼絃は本来、帝位継承権を持たず、玉座に座るべきではないのだ。
身の丈に合わないものを握り締めて、玉座にしがみ付いている蒼絃に引導を渡してやるのが、蒼潤の役目だ。
(奪い返してやるんだ。蒼絃が手にしているすべてを)
蒼潤は手綱を握る両手に、ぎゅっと力を込めて峨鍈に振り返った。
葵陽に行く。峨鍈と共に行く。――それがいったいどういう意味を持つのか、そのことに気が付かないまま蒼潤は峨鍈に答えた。
「行くよ、一緒に。――葵陽に」
【メモ】
月毛…馬の毛色の種類の一つ。栗毛の一種。クリーム色から淡い黄白色。金色に見える。
中国で唐代にはすでに月毛の馬がいたらしい。上杉謙信の愛馬が月毛だったらしい。