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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
6.葵暦195年から196年 併州城から葵陽
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1.贈り物は、馬なら受け取る


 夏銚かちょう晤貘ごばく軍を討ち破ったとの報せが峨鍈のもとに届いたのは、峨鍈が蒼潤を連れて斉郡城を発ち、赴郡に向けて進軍している最中であった。


 峨鍈は晤貘が赴郡に攻め込んで来た時点で、珉郡と接する琲州(しょう)郡とでん郡の太守に出兵を命じている。

 珉郡太守の姜良きょうりょうは晤貘に城を奪われて以来、淀郡に身を寄せていて、峨鍈の命を受けた淀郡太守から軍を借りると、それを自ら率いて稍郡太守と共に珉郡城を攻めた。

 そして、彼らは、赴郡から敗走してきた晤貘軍が珉郡城に帰り着く前にこれを落城させ、姜良は再び珉郡太守として返り咲く。

 帰る城を失った晤貘は、数千の兵たちと放浪の身となった。


 一方、峨鍈が命じて椎郡太守となっていた陳非ちんひは、夏葦との戦闘は避けられたものの、裏切り者の汚名を着せられたことに憤り、峨鍈とたもとを分かつ。

 峨鍈は陳非に向けて使者を送り、謝罪したが、陳非はこれを受け入れず、椎郡を去った。

 陳非が中原を彷徨っていると、偶然にも同じく彷徨っていた晤貘と出会い、ふたりは共にしばらく姿を消した。

 次に彼らの名を聞くのは随州であるが、それはこれより一年後のことである。


 年が明けて、葵暦195年。

 峨鍈はつい郡城をへい州城と改めて妻子と共に移ると、しばらくの間の拠点とした。

 その春が終わる頃に、峨鍈と敵対関係にあった随州刺史の彭顕ほうけんが病に倒れ、食客の蒼邦そうほうに随州を任せて、この世を去る。


 彭顕には実子がいるのに、なぜ食客なんぞに随州を譲ったのかと様々な憶測が飛び交ったが、蒼邦という男が彭顕の実子よりも優れていたからだろうと、峨鍈の周囲では結論付けられた。


 では、蒼邦とはどれほどの人物なのだろうか。

 

 蒼邦は蒼姓を名乗っているが、爵位はなく、貧しい農民として育ったような人物である。

 (たい)(たい)県の出身で、彼の祖父や父は役人であった。祖父は県令にまでなったが、父は若くして亡くなったため、蒼邦が幼いうちからその暮らし向きは貧困していたという。


 蒼邦自身も若い頃は役人を目指して勉学に励んでいたが、魏壬ぎじん莫尚ばくしょうというふたりの男たちと出会ったことで、蒼邦は己の生き方を定めた。

 蒼邦は郷里を出て、魏壬ぎじんや莫尚と共に戦場を転々とし、武勲を立てていく。その過程で、名声と人望を拾い集めるように得ていき、随州に至ったのだ。


 蒼邦が随州牧となってからまもなくすると、随州に晤貘が現われる。


 晤貘は初め蒼邦に対して親しげで、蒼邦の方も獰猛な獣を手懐けられた気になっていたのだろう。お互いに、義兄よ、義弟よ、と呼び合う仲になった。

 しかし、その蜜月は長くは続かない。

 晤貘が随州を乗っ取り、追われた蒼邦は峨鍈を頼って併州に流れてきたのだ。


 おそらく蒼邦は、峨鍈も晤貘を敵としているため、峨鍈が自分を拒むことはないだろうと踏んだのだ。

 その読みは些か外れていたが、峨鍈は蒼邦を食客として併州城に招き入れた。


 峨鍈としては蒼邦と手を組んだつもりはなく、戦わずして随州を手に入れた蒼邦に興味を抱いており、この際に蒼邦という男を見定めてやろうという魂胆だった。


 蒼邦が併州城に身を落ち着かせて間もなく、峨鍈から十分に持て成されて気を大きくしたのか、蒼邦は同姓のよしみだからと、深江郡主に挨拶をしたいと言い出した。

 これを聞いて峨鍈の心は一気に冷え込む。

 蒼邦の言葉を突っ撥ねて、けして蒼邦を蒼潤に会わせることはなかった。


 故に、この時期に蒼潤が蒼邦の名を耳にすることはなかった。



 △▼



 不意に枕を外されて、蒼潤の意識は泥のような眠りからゆっくりと浮上する。

 んっ、と声を漏らすと、すぐ耳元で峨鍈の声が聞こえた。


「すまん、起こした」


 瞼を開くと、朝陽が牀榻しんだい床帳たれまくを透かして、その中にいるふたりの姿を露わにさせている。

 峨鍈は蒼潤の頭を右手で支え、その下から左腕を抜いたところだった。


 この頃、蒼潤は峨鍈と一緒に眠る時は、彼の体を敷布代わりにするか、彼の腕を枕代わりにしていることが多い。

 なので、よほど蒼潤の眠りが深くない限り、峨鍈が起きれば蒼潤も目覚めてしまうのは必須だった。


 蒼潤は枕だと思っていたものが峨鍈の左腕だったのだと分かると、あくびをしながら体を起こす。


「お前はもうしばらく眠っていたらいい」

「いや、起きる。今日は雪怜せつれいのところに行く約束をしている」


 雪怜は昨年の末頃に娘を産んだ。

 ねいと名付けられたその赤子が日に日に成長していくので、その様子を眺めていることが、今の蒼潤には一番面白いことだった。

 本当なら毎日でも会いに行きたいところなのだが、それは迷惑になるから控えるべきだと徐姥に諭されて、毎日ではなく七日に一度の頻度で雪怜のもとを訪れている。

 

「調練には参加しないのか?」

「今日はしない」

「昨日もしなかっただろう」

「……」


 実際、一昨日も、一昨昨日さきおとといも、蒼潤は調練に参加していない。

 深江軍のことは、ずっと燕に任せっきりになっていた。

 そのことを責めているわけではなく、峨鍈は蒼潤の様子を案じて、そんなことを言ってくるのだと分かっているので、蒼潤は言い返したりせずに口を閉ざした。


 一年前の出来事で深江軍は欠員を多く出してしまい、それを補うために姉の蒼彰が互斡国から新兵を送ってくれている。

 今はその新兵たちの調練に励むべき時期なのだと分かってはいたが、どうしても蒼潤は気が向かなかった。

 夏銚と夏範が赴郡に行ったきりになっていて、調練でどんなに力を尽くしても、ふたりのいない寂しさと物足りなさが拭えないからである。


「気が向かないのであれば、無理に調練に出る必要はない」


 もともと峨鍈は蒼潤が男装し、兵士たちの中に混ざることを良しとしていない。

 ならば、当然そう言うだろうなということを思った通りに口にしたので、蒼潤はぴくりと片眉を跳ねさせて峨鍈の顔を見上げた。


 目が合うと、いつものように彼が触れてくる。

 頬に手を添えられて、その手がまるで猫でも撫でるかのような手つきで蒼潤の首筋をなぞってきた。

 くすぐったいと身を捩ると、彼は淡く微笑みながら言う。


「絹を手に入れたから、新しい衣を作って貰うといい」

「衣? ……またかよ」

「簪は足りているのか? 新しい物が必要だろう」

「なんでだよ。要らねぇよ」

「なら、櫛にするか。翡翠の腕輪を送ろうか。いや、お前は翡翠よりも瑠璃か」

「だから、聞けよ。要らないって」


 未だ楓莉の死が蒼潤の心で傷となっていて、何でもない様子を装っていても、ふとした瞬間に表情が陰ってしまう。

 どんなに楽しく過ごしていても、どうしても考えてしまうのだ。この場には楓莉もいるはずだったのに、と。

 そんな蒼潤を峨鍈は見逃してくれず、気付かない振りをしてくれれば良いものを、元気付けようとしてくるから蒼潤には彼が面倒臭い!

 

 贈り物など要らないと何度言っても贈ってくるし、本当は夜だって、牀榻をひとりで広々と使って眠りたいのに、なぜか峨鍈は毎晩、蒼潤の臥室にやってきて、蒼潤の牀榻に入り込んでくる。

 蒼潤は男で、自分と共寝しても子供ができるわけではないのだから側室たちのもとに行くべきだと伝えても、彼はまったく聞く耳を持たなかった。


「簪だの、櫛だの、そういう物は梨蓉たちにくれてやれ。俺は必要ない」


 これも何度も何度も伝えていることだ。


「なら、馬をやろう。ごう州の馬を取り寄せてやる」

「敖州の馬?」

「気性は荒いが、体が大きく、よく走るそうだ」

「へえ!」


 それは少し興味がある。――いや、少しどころか、大いに興味があって、自分でも分かってしまうくらいに蒼潤の声音は高く響いた。

 峨鍈が、ふっと笑みを零して言う。


「お前は本当に馬が好きだな」


 その言い方に揶揄われたような気がして悔しい気持ちが沸いたが、今更、取り繕っても仕方がないので、蒼潤は素直に認めた。


「ああ、好きだ」

「そんなに好きか?」

「そんなに好きだ!」

「そうか」


 彼の目が細められて、蒼潤の頬に添えられた彼の手がすっと後頭部の方に移動したので、これは、と思って蒼潤は瞼を閉ざす。

 すると、予期していた通りに彼の顔が近付いてきて、口付けられた。

 これまで不意打ちのように感じられた彼の口付けが、この頃では、したいのだという彼の気持ちを汲み取れるようになって、いくらか蒼潤は心構えができるようになっていた。


(それに、これは嫌じゃない)


 ならば、好きかと問われれば、違うと言い張りたいところだが……。

 朝だからか、それは軽く触れただけで、峨鍈は蒼潤から顔を離した。

 ほんの少し物足りなさを感じて、蒼潤は遠ざかっていく峨鍈の唇を目で追ってしまう。

 昨夜、眠りにつく前にされた口付けはもっと深くて、長くて、気持ち良かったと、その感覚を思い出し掛けて、蒼潤は、ハッとした。慌てて峨鍈から目を逸らす。

 幸い、彼は蒼潤のその様子に気が付いておらず、臥牀から足を下ろして立ち上がり、はだぎだけを羽織った姿で先に臥室を出て行った。 


 半月後、敖州の馬の馬が併州城に届けられた。

 力強さを感じる栗毛の馬で、その逞しくも美しい姿に蒼潤は大いに喜び、連日その馬に乗って遠乗りに出かけるようになる。


 すると、その翌月、白毛の馬が蒼潤のもとに届いた。

 雪を纏ったかのようなその姿に目を奪われて、蒼潤は思わず、わぁっと声を高く上げた。






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