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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
5.葵暦193年の初夏から194年の初夏 斉郡城 囚われの身

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12.俺はあいつらとは違う


 峨鍈が帘幕たれまくをくぐって臥室に足を踏み入れると、牀榻しんだい床帳たれまくの中で気配が身動く。

 峨鍈は牀榻しんだいに歩み寄りながら言った。


「起きていたのか」


 自分の牀榻に蒼潤がいるというのが、何やら不思議な心地がして床帳をそっとめくった。

 すると、臥牀しんだいの上で蒼潤がゆっくりと体を起こす。


「……眠れない」

「なら、少し話そう」


 昼間に見た時は女のように髪を結い上げていたが、今の蒼潤は、髪を解いて背中を覆うように下ろしている。

 返り血を拭うついでに洗髪したのだろう。ならば、きっと蒼潤の髪は瑠璃色に輝いているはずだ。

 だが、牀榻の中では、窓から射し込んでくる月明かりが届かず、それを確かめることができなくて峨鍈は残念に思った。

 蒼潤は両膝を抱えるようにして座り、恐る恐るといった様子で口を開いた。


「怒っているんだろ?」

「何?」

「楓莉を死なせてしまったから」


 蒼潤の表情が見えない。――と同時に、蒼潤には峨鍈の表情が見えていないから、そのような的外れなことを口にするのだ。

 怒っていないと言って峨鍈は臥牀に上がる。

 すると、蒼潤が怯えたように肩を揺らして身を竦めたので、峨鍈は蒼潤から距離をとって腰を下ろした。


「俺、知らなかったんだ」


 唐突に蒼潤が言ったので、何が? と視線を向ければ、その視線から逃れるように蒼潤は顔を俯かせて続けた。


「命さえあれば、それでいいと思っていた」


 声が震えている。

 何に怯えているのか、蒼潤は峨鍈から目を逸らしたまま、ぽつりぽつりと語り出す。


「だけど、女にとって貞節や貞操は命よりも大切だったんだ。それなのに、俺は女たちに着飾れと命じて……。だって、そうすれば、生き延びれると思ったから」


 だからなのか、と峨鍈は蒼潤の言葉を聞いて思い当たる。

 侍女を含め、女たちは皆、化粧を施し、華やかな衣を身に纏っていた。

 確かに、目を惹くような美女であれば、その美貌を惜しむ男は多いだろう。勝者側の男に望まれて、命だけは助かるかもしれない。

 しかし、絶対に殺されないかと言えば、そうではなく、ただ殺されるだけでは済まない場合もある。

 だから、多くの場合、女たちはわざと顔を汚し、醜い振りをしたり、男に扮して災いから逃れようとするのだ。


「そもそも女が貞節や貞操を大事と考えるのは、それを男が女に求めるからだ。男は女に多くを求めすぎる。そう思いつつも、俺は隠れたはずのゆうが見付かってしまった時に思ったんだ。大哥あにうえのために柚の純潔は護らなければならない、って」


 蒼潤が『大哥』と呼ぶ相手は夏銚の長男の夏範だ。直に、柚を夏範に嫁がせる予定であった。


「大哥に頼まれたわけじゃないのに……。俺は柚が見つかるまで、梨蓉や嫈霞、明雲や侍女たちが生き延びてさえくれれば、それでいい――彼女たちがどんな目にあっても仕方がないと思っていた。……いや、仕方がないというのは違うんだけど、殺されるよりはマシだから、それくらいどうにか耐えて欲しいって思っていたんだ。だから、もしかしたら今ごろ、梨蓉や嫈霞、明雲も、楓莉のように死んでいたかもしれない」


 それくらい、と自分の言葉を繰り返して蒼潤は頭を左右に振る。


「それくらいっていうのを、俺はちゃんと理解していなかった。貞糺の娘たちは賊に凌辱されて死んだそうだ。完全に逆恨みだったんだけど、貞糺は柚を自分の娘たちと同じ目に合わせようとしていた。柚の怯えた顔と、柚に向けられた貞糺の悪意を見て、俺はようやく理解したんだ。『それくらい』だなんて、とんでもない! それは、生きていたくなくなるくらいに嫌なことなんだ、って!」


 俄かに声を荒げて蒼潤は拳を握り締め、ぐっと眉を寄せた。

 

「だけど、楓莉が死んでしまったのは、そのせいじゃない。俺のせいだ。俺が楓利を殺したんだ」

「天連……」

「俺が楓莉に対して、汚いって思ってしまったから!」


 蒼潤は苦しげに、その言葉を吐き捨てた。


「汚いのは俺の方だ。楓莉に護って貰ったくせに、その楓莉を汚いだなんて! 本当は俺が臥室に行くはずだったんだ。柚や皆を護らなきゃと思ったのは、俺だから。――それなのに、功郁と貞糺に、ふたりで俺を犯すと言われたら体が震えて……」


 ふたりで、と聞いて峨鍈は胸の中にどす黒い感情が沸いた。

 ひとりなら良いという問題ではなかったが、蒼潤がそのように弄ばれていたかもしれないことに怒りを覚える。


「梨蓉に、俺はまだ子供だと言われて、そしたらもう……動くことができなくなってしまった……」


 よほど悔しかったのだろう。語りながら、蒼潤は瞳に涙を溢れさせて、何度も何度も手の甲で目元を拭った。


「女は綺麗な格好をすると、自信が湧いて勇気が出るのだと玖姥から聞いたことがある。だから、楓莉が臥室に行ったのは、俺が綺麗な格好をしろと言ったせいなんだ。そのせいて死んでしまうのなら、そんな勇気なんか必要なかったのに!」


 何もかも己のせいだと思って自分を責めている蒼潤に、峨鍈としても梨蓉と同じ言葉を掛けてやるしかなかった。


「お前は幼い」

「……っ」

「幼いお前が必死にでき得ることを考えて、柚や他の子供たちを護ってくれたことに感謝している。だがな、そのためにお前が傷付くくらいなら、護って貰わなくて良いと俺は思っている。――それから、他の男に触れられた女を汚いと思うのは、やはりお前が幼いからだ」


 責めているつもりはないので、努めて穏やかに諭すように言った。


「そして、楓莉も若かった。楓莉は汚されたのではなく、傷付けられたのだ。いくらか歳を重ねれば、この違いを理解できるようになるだろうし、他の男に触れられた女を汚いだなんて思わなくなる」


 実際、討ち破った敵の妻を自分の妻に迎えることは少なくない。他の男のものだった女を汚いと感じるのは、若い男と処女を有難がっている輩くらいのものだ。

 そんなものよりも、その女自身の魅力の方が勝るということを彼らは知らないのだ。 

 峨鍈の言葉に、蒼潤はキッと睨むように顔を上げる。


「お前がそんなことを言ったら、楓莉がなぜ死ななければならなかったのかが分からなくなる!」

「当然だ。死ぬ必要などなかったのだからな」

伯旋はくせん!」

「俺はお前に対しては怒っていないが、楓莉に対しては怒っている。勝手に死にやがって」


 おそらく梨蓉と嫈霞、そして、明雲は、たとえ凌辱されるような目に遭っても、楓莉のように自ら死を選んだりしないだろう。

 3人とも母親だからだ。母親が死ねば多くの場合、子が不幸になる。家において、生母こそがその子の最大な後ろ盾だからだ。

 子供のことを想えば死んでなどいられないということもあるが、たとえそのような目に遭ったとしても、彼女たちは自分が汚されたとは思わないだろう。

 そもそも女が体を汚されたと感じるのは、子を宿やどはぐくむ場所に意にそぐわぬ男の種を放たれるからだ。


 だが、既に子を産み終えている彼女たちが死を選ばないからといって、彼女たちがまったく傷付かないかと言えば、当然そんなわけがない。

 意にそぐわぬ男に物のように扱われれば、どんな女でも深く傷付き、しばらく――或いは、その後、死ぬまでずっと心を痛めて苦しみ続けるだろう。しかし、その傷を癒し続けながら生きていくしかない。

 そして、その時に寄り添える夫であり続けることができるか否かは、男側の問題である。


 それに、と峨鍈は言って、楓莉に対して怒りを感じているもうひとつのことを口にする。


「楓莉は、お前の心に深い傷を刻み、お前にとって忘れられない女になってしまった。じつに許し難い」

「……何を言っている」


 本当に心当たりがないのか、それとも、自覚しながらも分からない振りをしているのか、蒼潤はようやく顔を上げて、薄闇の中で、じっとこちらを見つめてくる。

 その瞳を見つめ返して、峨鍈は僅かに膝を前に進めた。

 すると、蒼潤が怯えたように体を後ろに引いたので、峨鍈は苛立ちを覚えた。


「お前、俺が怖いのか?」

「……そんなわけがない」

「俺がお前を、楓莉がされたような目に合わせると思っているのか?」

「そんなことはない。――だけど、楓莉はたくさん泣き叫んでいて、苦しそうで、やめて欲しいと何度も何度も許しを請うていた。そんな声がずっと聞こえていたんだ」


 男たちが女に対して無体を働く物音を、ひと晩中、聞いていたという蒼潤が、その行為を嫌悪し、恐れを抱くようになってしまってもおかしくはないかった。

 もともと蒼潤はそういった行為に対してひどく奥手で、それを少しずつ慣れさせていたところだったというのに、今回のことでそれらがすべて無駄になったとでもいうのか。

 峨鍈は功郁と貞糺に対して怒りを覚えた。


 峨鍈は無理に距離を縮めるのを諦めて、蒼潤を怖がらせまいと努めて穏やかな声音を響かせる。


「お前は怖かったのだ」

「でも、俺は男だ。怖いわけがない……」


 蒼潤の瞳に戸惑いの色を見て、峨鍈は続けた。


「お前は臥室の物音を聞いて、自分も同じ目に合うのではないかと恐怖を抱いたのだ。だが、それでいい。男でも尊厳を傷付けられると感じたら恐れを抱くものだ」

「でも……っ。違う……。俺は男だし、孕むわけじゃないし……。あんなことで自分が汚されるとは思わない」

「………」

「……いや、でも。やっぱり……。孕むとか、孕まないとか、そういうのは関係が無くて……。あんなことを強要されるのが嫌だ。だから、そうなんだ。きっと、お前の言う通りだ」


 峨鍈が口を閉ざしている間に、蒼潤はひとり頭の中でぐるぐると考えを巡らせ、やがて観念したように言う。


「俺は……怖かったし、今も怖い……っ」

「天連、俺が怖いか?」

「……」

「俺はあいつらとは違う」

「……うん」


 僅かに間があったが、蒼潤が頷いたので峨鍈はゆっくりと腕を上げた。

 蒼潤に向かって手を差し出すと、蒼潤は口を固く閉ざして、その手を凝視する。

 その様子がまるで野生の獣のようで、峨鍈は野生の獣を手懐けようとしている気分になった。


「俺はお前に、あいつらが楓莉にしたようなことはしない」

「……」

「ただ、お前に触れたいのだ。――手を握ってもいいか?」

「……手?」

「そうだ。手を握りたい」

「……」

「俺が怖くないのなら、お前から俺の手に触れてくれ」


 蒼潤は押し黙って峨鍈の手を見つめ、それから、恐る恐る自分の手を峨鍈の手に近付けていく。


「手を握るだけか?」

「抱きしめたい。今夜はお前を抱き締めて眠りたい気分だ」

「……本当にそれだけか?」

「それだけだ」


 分かった、と頷いて蒼潤が指先で峨鍈の手のひらに、そっと触れたので、峨鍈は蒼潤の手を掴んだ。


「――っ!?」


 驚きに瞳を大きく見開いた蒼潤の手を引いて、峨鍈は自分の両腕にその体を抱き込む。

 ドキドキと蒼潤の鼓動を強く感じて、落ち着かせるためにその背中を撫でると、やがて強張っていた体から力が抜けて、峨鍈の体に寄り添ってきた。

 いつもに比べて随分と大人しい。それだけ心も体も疲弊しているということか。抗う気力がないのだ。


 峨鍈は蒼潤の体を支えながら、ゆっくりと背中から倒れるようにして臥牀に横たわる。

 蒼潤の体が今よりもずっと小さくて軽かった頃にそうしていたように、その体を自分の体の上に乗せると、蒼潤は峨鍈の胸に右耳を押し当てた。

 じっと峨鍈の鼓動を聞いている。


「寝ろ。俺がお前を護ってやる。だから、俺の腕の中にいる間は何も恐れるな」


 言って包み込むように抱き締める。

 蒼潤は何も応えなかったが、しばらくして安心したような寝息が聞こえ始めた。



 





【メモ】


 赴郡

 珉郡 (太守は姜良)

でん郡 しょう郡 




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