11.選ばれ続けねばならない
東宮は1年ほど前に峨鍈の妾たちのために整えられ、彼女たちが皆、他に嫁ぐと、それっきり使用する者がなく、そのまま放置されていた。
門扉を開き、無秩序に草が覆い茂った中庭に入ると、梨蓉はまず雪怜の名を呼んだ。
彼女の声を聞き付けて、雪怜が宮殿の床下から這い出てくる。雪怜は峨鍈の姿を見つけて駆け寄り、わぁっと声を上げて泣いてしがみ付いて来た。
蒼潤は真っ直ぐ中庭の隅に掘られた井戸に向かう。
井戸の中を覗き込むと、驕を呼んだ。井戸の底から返事があると、ホッと表情を緩ませ、釣瓶を引き上げようと縄を両手で掴んだ。
「驕、待っていろ。すぐに引き上げてやるからな!」
しかし、蒼潤の細腕では時間が掛かると判断して、峨鍈は護衛兵たちに視線を投げた。彼らは蒼潤に代わって縄を引き、釣瓶に腰掛けた驕を井戸の中から引き上げる。
「天連様!」
井戸から出された驕は生母の梨蓉ではなく、真っ先に蒼潤に抱きついた。
その姿を目にして、峨鍈は苛立ちを覚える。こんな時であるから耐えて口を閉ざしたが、内心、驕を蒼潤から引き剥がしたくて堪らなかった。
驕にとって蒼潤は嫡母ということになる。
本来、正室と側室の子の仲が良好なのは、歓迎すべきことではあるが、驕が蒼潤のことを嫡母とは思っていないことは明らかであった。
よく遊んでくれる兄だと思っているうちは良い。
だが、予感がするのだ。驕は面差しがあまりにも自分と似ていて、自分と似た眼差しを蒼潤に向かている。
2人の様子を少し離れた場所から眺めていると、峨鍈の胸騒ぎなど、まるで察していない蒼潤が驕の頭を撫でながら微笑んだ。
「よく頑張ったな。偉かったぞ」
「天連様と約束をしたので、頑張りました。ぼく、少しも泣きませんでした」
「すごいな。俺は少し泣いた。今も泣きそうだ」
「今も泣きそうなのですか? では、ぼくが慰めて差し上げます」
言って、驕が蒼潤の頬に触れようとしたので、峨鍈は気色ばんだ。
雪怜の体を押し退けて、蒼潤のもとに駆け寄ろうとしたが、その前に梨蓉が驕の体を抱き締める。
「驕、本当によく頑張りました。お前が無事で母は嬉しい」
「母上……」
9歳の子供である。さすがに母親に抱き締められれば、ホッと気が緩んだのだろう。その瞳がうるうると揺らいで、今にも涙が溢れそうになる。
驕は涙を見せまいと、梨蓉の胸に顔をぐっと埋めた。
それから、北宮に戻る。
門扉が打ち破られた門のところで琳が梨蓉のことを待っていた。琳と共に身を隠していたという朋は、すでに嫈霞の傍らにいるようだ。
北宮に集まった家族の顔を見渡して、ようやく峨鍈はこの場にいない者に気が付いた。
「楓莉か」
呟くと、蒼潤の肩がびくっと揺れた。その反応を見て、峨鍈は楓莉の死を察する。
嫈霞が階から降りてきて梨蓉に囁くように告げた。
「楓莉を別の室に運びました。今、体を清めて新しい衣に着替えさせています」
「ありがとう。――殿。お待たせ致しました。中に入ってくださって結構です」
梨蓉が峨鍈に振り向いて言ったので、峨鍈は頷いて階を上がり、蒼潤の私室に踏み込んだ。
室の中はひどく荒されている。衣装箱はひっくり返され、文机は叩き割られていた。そして、峨鍈は帘幕を払い除けて臥室を覗き込み、そこで起こった事を悟る。
兵士に命じて臥室から功郁と貞糺の遺体を運び出させると、一糸まとわぬ2人を中庭に転がした。
回廊から見下ろして、兵士に命じる。
「首を落として城壁に晒せ」
日に日に暑さを強く感じ始める時期である。
晒した首の肉はすぐに腐り、ずり剝けて骨が露出することだろう。
体は城外に討ち捨てて獣に喰わせてやれと冷ややかに言い放つと、息をひとつ吐いてから梨蓉に振り向いた。
楓莉に会えるかと問えば、彼女は頭を左右に振る。
「楓莉が望んでおりません」
「では、お前に任せる」
「承知致しました」
梨蓉が頭を垂れたので、峨鍈は蒼潤に視線を向けた。蒼潤は口元に両手を添えて、えずいている。
太陽はすでに空高く上っていた。その陽の光のもとで、功郁と貞糺の遺体を目にして、気分を悪くしたのだろう。
功郁は首を切られ、その傷口がぱっくりと割れて見える。貞糺の方は胸を深く一突きだ。蒼潤が与えたものに違いない。
普段の蒼潤ならば、敵の命を奪うことに躊躇いはなく、遺体を目にしても動揺を表情に出さないが、今は楓莉の死に対する自責の念が大きな恐怖となって蒼潤を蝕み、些細なことでも大きな動揺を示した。
「天連、俺の私室を使っていい。休んでいろ」
蒼潤の私室はもはや使えない。室を整え直したとしても、そこは蒼潤にとって忌む場所となってしまったに違いない。
梨蓉たちと共に西宮で暮らさせるか、それとも東宮を整えさせてそこで暮らさせるか。どちらにせよ、蒼潤の私室が定まるまで峨鍈の私室を使わせるしかないだろう。
「大丈夫だ」
「意地を張るな。とても見ていられない顔をしている。休め」
痛々しいほどの蒼白な顔で意地を張るものだから、峨鍈は蒼潤の乳母に命じて、蒼潤を連れて行かせた。
「殿」
呼び掛けられて振り向けば、梨蓉の顔色も悪い。だが、梨蓉にはもうしばらく耐えて貰わねばならない。
彼女たちは子供たちと他の側室たちを西宮に送ると、凛と背筋を伸ばして言った。
「申し上げございません。天連殿のお心に傷をつけてしまいました。天連殿がいらっしゃらなければ、子供たちは無事では済まなかったでしょう。そのため、本来、護られるべき御方に護って頂きました」
「あいつが自ら進んでそうしたのだろう」
蒼潤は多くを護ろうとして、己の手から零れ落ちてしまったものを強く悔やんでいる。
起きた事の詳細は分からなかったが、おそらく楓莉は蒼潤の身代わりとなって功郁と貞糺の前に身を投げ出し、そして死んだのだ。
そして、そのことで、蒼潤は楓莉に対して詫びても詫び切れない想いを抱えてしまっている。
「心の傷は治るまでに長く時間が掛かります」
「悪いが、俺はすぐに赴郡に向かわねばならん。天連のことを任せる」
「なりません!」
ぴしゃりと梨蓉は峨鍈の言葉を退けて、細く整った眉を釣り上げた。
驚いて峨鍈は梨蓉の顔を見つめたまま見開く。
「恨み言を申し上げるつもりはありませんが、殿はここにいらっしゃるまで、天連殿のことしか頭にありませんでしたね。私には分かるのです。殿は真っ先に天連殿を呼び、天連殿しか目に入っていない御様子でした。それが答えではありませんか? それほど大切な方が傷付いていらっしゃるのに、殿は逃げるのですか?」
「何?」
逃げるつもりなどないと言いかけるが、梨蓉にキッと睨まれて口を閉ざす。
「手放してはなりません! きちんと向き合うのです。常に傍にいなければ、殿のお気持ちは天連殿には伝わりません。お心が欲しいとおっしゃれば良いではないですか」
「しかし、あいつは男だ。郡主ではないのだぞ」
「そんなこと、初めから承知の上で天連殿を選んだのではありませんか!」
梨蓉に強い言葉で言われて、峨鍈はぐうの音も出ない。
峨鍈が反論して来ないと分かると、梨蓉はふっと峨鍈から視線を外して俯いた。
「此度のことで分かったのです。天連殿はその気にさえなれば、殿のもとから去ることができるのだと」
「……」
「皆が天連殿を欲しがります。常に天連殿は選ぶ立場にあるのです。ですから、殿は天連殿に選ばれ続けねばなりません」
梨蓉は気付いたのだ。
峨鍈が本当の意味で蒼潤を手に入れることができねば、いつの日か、蒼潤が峨鍈に背を向ける時が来るのだということに。
「梨蓉、数日後に芝水がここに来る。来たら、芝水に斉郡を任せて、俺は天連を連れて赴郡に向かう。他の側室たちや子供たちのことを、お前に頼みたい」
梨蓉は顔を上げて、ハッとしたように峨鍈を見た。
そして、目を細めて微笑む。
「もちろんです、殿。お任せください」
その後、梨蓉は自分と楓莉の侍女たちに命じて、美しく身支度させた楓莉の遺体を安置する場所を整え、それから西宮に戻って行った。
峨鍈も戦の後始末を指示し、孔芍や夏葦が寄越してきた使いから報告を受けると、いくつか命令を下して、ようやく私室に向かった。
すっかり日が暮れている。私室の入口の脇で、左肩を白い布で覆った甄燕が座り込んだまま寝入っているのを見付けて、峨鍈は顔を顰めた。
おい、と声を掛けたが、ぐっすりと眠っていて目覚める様子がなかった。
「よほど肝を冷やしたのでしょう。そこから離れようとしなかったのです」
室の中から蒼潤の侍女のひとりが出て来て言った。
「深江軍の多くは怪我を負い、死者も少なくないと聞きました。門を破られ、奥に敵の侵入を許してしまったと、燕は責任を感じているのです」
「燕は、まだ子供だ」
甄燕がいくら大人びていて、冷静な判断ができるとしても、冠礼を済ませていない子供だ。歳も蒼潤とふたつしか変わらない。
「それでも、天連様に何かあれば自分のせいだと思ってしまうのが燕なのです」
「燕の怪我はひどいのか?」
「肩を深く切られ、血を多く失ったようです」
「ちゃんと休ませてやれ」
峨鍈は中庭にいた下男を呼ぶと、燕の体を担がせる。そして、そのまま下男は侍女の案内で、燕の室に向かった。
「殿、お食事をお召し上がりになられますか?」
室の中に入ると、蒼潤の乳母が尋ねてきた。峨鍈はさっと視線を室の中に巡らせる。どうやら蒼潤は既に臥室で休んでいるようだ。
「いや、済ませてある。お前たちはもう下がっていい。よく休め」
乳母とその娘、もうひとりの侍女が揃って頭を下げて室を出て行った。