10.朝陽に照らされた過ち
「楓莉、楓莉……」
彼女の首筋に絞められた跡を見付けて、蒼潤は息を呑んだ。
まさかと思った時、彼女の瞼がふっと開いて、蒼潤は胸を撫で下ろす。
「楓莉、伯旋が来た。助かったぞ」
「殿が……」
ひどく掠れた声で呟いて、楓莉は呻きながら、のろのろと体を起こした。
そして、自分に触れている蒼潤の手に気が付くと、その手から逃げるように素早く後ろに退く。
「私に触れてはなりません。御身が穢れます!」
ぴしゃりと楓莉に言われて、蒼潤はびくんと体を震わせ、彼女を凝視した。
牀榻の中に充満した青臭さが改めて鼻につく。
臭いのもとは何だろうかと思った時、膝の下の敷布が妙に湿り気を帯びていることに気付き、その気持ち悪さに蒼潤は臥牀から飛び退いた。
そして、蒼潤は朝陽に照らされた楓莉の体に散った行為の痕を目に映してしまう。
彼女の肩には歯形が痛々しく残り、胸や首筋、背中、そこら中を強く吸われて、彼女の白い肌は赤く鬱血していた。
けして見ようと思ったわけではなかった。だが、楓梨の太腿が蒼潤の視界に入ってしまい、蒼潤は思わず、ぎょっとした。
白濁したものが彼女の脚の奥から伝っている。それが何であるか分かると、蒼潤は顔を蒼白とさせ、身を仰け反らせた。
(――汚い!)
ふとそんな思いが胸に湧いてしまった。
だけど、それは一瞬だけだ。ほんの少し脳裏に過っただけで……。それなのに、楓莉はそれが蒼潤の想いのすべてであるかのように捉えて、自嘲の笑みを浮かべた。
「この穢れた体を、殿にお見せするわけにはいきません」
「楓莉、違う。すぐに湯を用意する。湯を使って、新しい衣を着て、髪を結い直せばいい。お前は綺麗だ!」
慌てて言葉を重ねたが、楓莉の耳には届かない。
――いや、違う。
蒼潤は間違えたのだ。その過ちは、今後いくら言葉を重ねて取り繕っても、どうすることもできない。
ただ、ひたすらに、口にした言葉が虚しさを響かせるだけだ。
楓莉は、先ほど蒼潤が臥牀に放った剣に飛びつくと、それを自分の首筋に当てた。
「この穢れた体を、殿だけには、お見せしたくない!」
「待て‼」
身を乗り出して剣を奪おうとしたが、とても間に合わなかった。
彼女は、スッと滑らせるように剣身を引く。赤い筋が楓莉の首筋に現れて、次の瞬間、そこから血が噴き出した。
「楓莉!」
臥室の異様な気配を感じて梨蓉が駆け寄ってくる。
蒼潤は楓莉の体が臥牀の敷布の上に沈む前に両腕で抱き留めた。汚いと躊躇う気持ちなんて欠片もない。
楓莉の手から剣が離れて、蒼潤の剣が床にカランと落ちた。
それは昨年、峨鍈から譲って貰った物で、彼が若い頃に使っていた剣なのだという。剣身は比較的短く、細身で軽いため、蒼潤はもちろん、女でもラクに扱える品物だ。
――こんな物を楓莉の目に映るところに放っておいた自分が憎い!
蒼潤は目の前で失われていく命に恐怖して、顔を青ざめさせ、体を震わせた。
「楓莉、なんてことを!」
梨蓉が楓莉の名を呼ぶ声が響いて、嫈霞も侍女たちと共に顔を抑えながら臥室に入って来る。そして、信じられないとばかりに声を上げて楓莉に駆け寄った。
蒼潤はぎゅっと楓莉の体を抱き締めて、喉から絞り出すように言う。
「俺のせいだ。俺が……っ」
「天連殿」
「俺が楓莉を殺してしまった!」
――峨鍈が近くまで来ていて、みんなで助かることができるのだというのに!
「俺は楓莉に酷いことを。楓莉は俺を助けてくれたのに、俺は楓莉を死なせてしまった」
汚れてなんかいないと心から思ってやることができていたら、きっと彼女は命を絶つことはなかったのだ。
そう思うと、蒼潤は自分が許せなかった。
梨蓉の手が蒼潤の肩に触れる。嫈霞も蒼潤の傍らに寄り添って、大きく頭を左右に振った。
「天連様のせいではございません。すべて功郁と貞糺が悪いのです。憎むべきは、功郁と貞糺です。きっと楓莉もそう思っています」
嫈霞の言葉に梨蓉も強く頷く。
「いつまでも、この姿では楓莉が可愛そうです。体を拭いて、綺麗な衣に着替えさせましょう」
「……」
「天連様、楓莉を私たちに任せて頂けませんか?」
小さく頷いて蒼潤は、楓莉の体を梨蓉と嫈霞に渡すと、床に転がった剣に視線を向けた。
臥牀から降りて剣を拾い上げると、蒼潤と入れ代わるように侍女たちが楓莉の側に寄り、彼女の体を拭い始める。
その様子から目を逸らして、蒼潤は帘幕をくぐって臥室を出た。
俄かに室の外が騒がしくなっている。
室の入口を見据えながら壁際に潜んで立っていると、北宮の門を功郁の側仕えが慌てた様子で駆け込んで来る姿が見えた。
「殿、峨鍈軍が城内に侵入しています! どうか、ご指示を!」
その者が具足を鳴らして階を上がって来たので、蒼潤は剣を握って身構える。
そして、室に入って来た瞬間に蒼潤は剣を振り払った。
倒れ伏した体を見下ろして、すぐに中庭に視線を転じれば、門をくぐって来たのは、側仕えひとりだけではなかったのだと知る。
他に5人ほど兵士がいて、仲間が切り捨てられたと知るや否や、彼らは剣を振り上げて蒼潤に切り掛かって来た。
(5人)
燕が隣にいれば、どうと言うこともない数だ。
だが、今、蒼潤はひとりで、しかも、深衣を重ねて着ているため、衣に足を取られて思ったような動きができなかった。
しかし、それでもやるしかない。
剣を横に払って、1人目の剣を弾く。幸いなことに、この兵士は剣の扱いが下手だ。或いは、相手が郡主であることに躊躇しているのかもしれない。
反した剣で、がら空きとなった兵士の腹に切り込んだ。
2人目が3人目と共に切り掛かって来る。
後ろに一歩下がって、2本の剣を避けると、身を屈めて彼らの体を立て続けに切り捨てた。
(あと2人)
そう思った時、昨夜のうちに門扉を蹴り破られた門から、続々と敵兵たちが雪崩れ込んで来る。
(ダメだ。到底、ひとりでは敵わない!)
諦めと絶望が蒼潤の胸に過った時だ。雪崩れ込んで来た兵士たちの背に矢が放たれた。
蒼潤は、ハッとして剣の柄を握り直すと、残り2人に切り掛かった。
相手の剣を弾いて懐深くに入り込むと、すぐさまその体を切り捨てる。
翻って、もうひとり。
蒼潤の足元に2人の敵兵の体が崩れ落ちたと同時に、蒼潤は呼ばれた。
「天連!」
その声に、ぐっと胸が締め付けられるような思いがして、喘ぐように息を呑んだ。
北宮の門をくぐった兵士たちが次々に討たれていく中、蒼潤は峨鍈の姿を見つけた。
「無事か!? どこを怪我した!?」
蒼潤の深衣はひどく血で汚れていたが、これは蒼潤自身の血ではない。そう峨鍈に告げようとしたのだが、その前に蒼潤は駆け寄って来た峨鍈に強く抱き締められた。
「お前が無事で本当に良かった」
▲▽
峨鍈の腕の中で蒼潤が身じろぎ、峨鍈の胸を叩いてきたので、峨鍈は蒼潤の体を放した。
どうした、と問いながら顔を覗き込むと、蒼潤の瞳が赤い。今にも泣きそうだと思って、よほど怖い思いをさせてしまったのだと峨鍈は申し訳なく思った。
「遅くなってすまなかった」
「違う」
蒼潤は峨鍈から後ずさって、頭を大きく左右に振った。
「謝らなければならないのは俺の方だ。――ごめん」
「いったいどうした?」
「お前の女を死なせた」
蒼潤があまりにも痛々しげに言うので、峨鍈は絶句した。
その沈黙を蒼潤は峨鍈の怒りだと捉えたようだ。顔を青ざめさせる蒼潤に、峨鍈はますます言葉を失う。
峨鍈は蒼潤にもう一度触れたいと思ったが、手を伸ばすと、蒼潤がびくりと体を震わせたので、峨鍈は蒼潤に向かって伸ばした手を握り締めて下ろした。
功郁と貞糺に組した者たちを討ち取るか、或いは、捉えるかして場が鎮まると、蒼潤の私室から梨蓉が出て来た。
その後ろに顔を布で覆った嫈霞の姿がある。こちらも痛々しい姿だと思って、峨鍈は眉を歪めて嫈霞に声を掛けた。
「嫈霞、切られたのか?」
「そうではありません。しばらく痣になりますが、大事ありません。殿、助けに来て下さり、ありがとうございます」
「しっかりと手当てを受けろ。――功郁と貞糺は、どこだ?」
「臥室の中です。天連殿に討って頂きました」
梨蓉が答え、彼女は峨鍈を見やり、そして、蒼潤に視線を送った。
峨鍈は梨蓉に頷く。功郁と貞糺の遺体を改めようと、室の中に入ろうとすれば、梨蓉がスッと片手を上げて峨鍈を制した。
「なんだ?」
「しばしお待ちください」
言って、梨蓉は侍女たちに命じて回廊を走らせる。
どこに向かわせるのかと目で追っていると、何人かは北宮を出て行き、他の侍女は北宮の他の室に入って行く。
その侍女の呼び掛けで、桓と明雲が室から出て来た。別の室からは柚と軒も侍女に付き添われて姿を現す。
柚は泣き腫らした顔を晒して、母親である嫈霞に駆け寄った。
「琳と朋も直にこちらに参ります。私は驕を迎えに行かなければなりません」
梨蓉が蒼潤の私室の入口から退いたので、代わりに嫈霞がその場に立った。嫈霞も峨鍈を室の中に入れる気がないようだ。
「俺も行く。驕と約束をしたのだから行かないと」
蒼潤が梨蓉を追って北宮を出て行こうとするので、峨鍈も護衛兵を数人引き連れて2人の後を追った。
「驕はどこにいるのだ?」
「東宮の井戸の中だ。呂姥に隠して貰った」
蒼潤の言葉を聞いて、後ろに従う蒼潤の2人の侍女にちらりと視線を向ける。どちらも疲れ切った表情でついてくる。乳母とその娘は北宮に残ったようだ。
蒼潤は続けて言った。
「雪怜も東宮に隠れて貰っている」
「何? 雪怜は無事なのか?」
身籠っている雪怜が生き延びたことに峨鍈は意外に思う。
当然、真っ先に殺されているものだと思っていたので、蒼潤が峨鍈に謝罪した理由は雪怜なのだと思っていた。
――では、いったい誰が死んだというのか。




