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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
5.葵暦193年の初夏から194年の初夏 斉郡城 囚われの身
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9.俺のものに触れるな!


 ひと息に言い切ると、峨鍈は馬の脇腹を蹴った。慌てたように孔芍が呼び止めてきたが、構わず馬を駆けさせる。

 張隆が千の兵を率いて後ろからついてくる。そのほとんどが騎馬なので、ここから斉郡城まで3日の距離だが、峨鍈は2日で駆け抜けるつもりであった。


 日暮れが近い。馬が砂地を蹴り上げるように駆けるので、濛々と砂塵が舞い、馬の横を駆けている兵士たちの鎧を薄っすらと黄ばませる。

 それがほんのりと赤みを帯びて見えるようになった頃、西の空が燃えるように赤く染まっていることに気付いた。

 それからしばらく進んで、不意に峨鍈は張隆に声を掛けられて馬の歩みを緩める。いつの間にか、辺りは藍色の闇に包まれていた。


「今日はこの辺りで進軍を終えるべきかと」

「できれば、もう少し進みたい」

「歩兵がついて来られません。馬も疲れております」 


 仕方がない、と峨鍈は張隆の言葉に従った。

 翌日も馬を駆けさせ、歩兵を走らせたが、琲州蒲郡の東の端からずっと西へ西へと急ぎ進軍してきた兵士たちと馬の疲労感は大きく、峨鍈の思った通りには進軍できなかった。

 そうして、峨鍈が斉郡城を眼前にした時、斉郡城の城壁には『功』と『貞』の軍旗が掲げられていた。 


「不世」


 峨鍈がその名を呼ぶと、痩身の男がすうっと現れて、峨鍈の馬の前で跪く。


「天連はどこだ?」

「城内です」

「城内の様子は?」

「許殿が討たれました」


 許普の名を呟いて峨鍈は己の膝を拳で打つ。


「遅かった」

「夏将軍に送った早馬も間に合わなかったようです。申し訳ございません」


 夏葦が斉郡城を発つ前に間に合えばと早馬を送ったのだが、夏葦は既に泰道に向かってしまったようだ。

 だが、その早馬は夏葦が泰道に到着する前には追い付けるはずだ。せめて夏葦と陳非が戦うようなことだけは避けなければならない。


「柢恵はどうした?」

「ご無事です。郡主様の手の者が柢殿を匿ったようです。その者を通して、柢殿と連絡が取れます」


 それは良い報せだと峨鍈は胸を撫でおろした。

 だが、すぐに眉を顰める。


「なぜ、その者は天連の側におらんのだ? 天連はどうした?」

「側室方と共に宮城の奥です」

「何?」


 峨鍈は、ぞっとした。とても信じがたい言葉を聞いた心地になり、不世の顔をまじまじと見つめてしまう。

 それから、苛立って声を荒げた。


「なぜあいつは逃げんのだ!」


 柢恵が無事に逃げられたのなら、当然、蒼潤にも逃げる時間があったはずだ。

 逃げずにいれば、自分の身がどうなってしまうのか想像することもできないというのだろうか!


 斉郡城を制圧した功郁と貞糺は、まず蒼潤に会おうとするだろう。蒼潤が郡主だからだ。

 多くの者たちは、通常、郡主の顔を拝むことなく生涯を終える。

 しかし、深江郡主は宦官の孫である峨鍈に嫁いだ。これは平時ならば、絶対にあり得ないことだ。

 いったいどのような郡主が宦官の孫なんかに嫁いだのだろうかと、誰もが興味を抱くだろう。


 その感覚は、地上に降りて来た天女に対して抱く興味に近い。本来ならば、高嶺の花のような存在が、ひょっとしたら手が届くかもしれないと思わせるからだ。


 功郁と貞糺が蒼潤を殺す心配はない。

 問題は、蒼潤が男だと知った彼らが蒼潤をどう扱うかだ。  

 

 血を重んじる時代である。

 もっとも高貴とされる蒼家の血を利用しないはずがない。


 蒼家の――特に蒼潤の血は、使いようによっては玉璽にも等しい価値を持つ。  

 瓊倶、もしくは、晤貘、或いは他の何者かと手を結ぶ際の交渉材料になるだろう。

 そして、もし彼らに大きな野心があれば、蒼潤の血を頼りに天下を望むこともできる。蒼潤を玉座へと押し上げ、その後見という地位を得るのだ。


 ――その時、蒼潤はどう動くだろうか?


 峨鍈はきつく拳を握り締め、それがギシギシと音を立てる。

 腹立たしさと焦燥感が峨鍈の胸に溢れていた。それも、蒼潤と峨鍈が利で結ばれた関係に過ぎないせいだ。

 もっと確かな繋がりが自分たちの間に結ばれていたら、腹立ちはともかく、焦りを感じることはなかっただろう。


 蒼潤はいつでも峨鍈を見限ることができる。

 蒼潤さえその気になれば、峨鍈のもとを逃げ出して、どこへなりとも行けるからだ。

 そして、郡王だと名乗れば、逃げた先でいくらでも自分を支えてくれる者を見つけることができるだろう。

 蒼潤自身はそのことに気が付いていないが、蒼潤と峨鍈の関係は出会った当初から峨鍈の方がずっと分が悪いままだった。


 初めは、ただ、郡王を自分の手の内に入れておきたいと考えていただけなので、利で結ばれた関係でも構わないと思っていた。

 だが、近ごろではそれが堪らなく虚しいもののように思えて、どうすれば本当の意味で蒼潤を手に入れることができるのかと、そればかり考えている。


「天連……」


 父親面した夏銚が蒼潤に親しげに触れるのを見かけるたびに、己の忍耐を試されているような心地になった。

 蒼潤が柢恵と仔犬のように遊び回り、そうかと思えば、身を寄せ合って、互いの耳元で言葉を囁き合い、笑い合う姿を見て、微笑ましいという想いよりも苛立ちが込み上げてきてしまう。

 そして、今、自分が城壁の外で敵の軍旗を見上げている間にも、蒼潤の身に起こっているだろうことを想像すると、気が狂いそうだった。


(功郁……。貞糺……)


 蒼潤が男だと暴かれるには、蒼潤自ら衣を脱ぐか、無理やり衣をぐかのどちらかだ。

 どちらにせよ、蒼潤の肌が晒されたことになる。

 功郁、或いは、貞糺の汚い手が蒼潤の肌に触れるさまを想像して、峨鍈は奥歯をギリギリと嚙み締めた。


(許さん。許さんぞ。俺のものに触れたその手を切り捨てて、必ず息の根を止めてやる!)

 

 この数日、天幕の中で横たわっても眠れずに赤く充血してしまった眼で不世を見下ろし、いくつか命を下す。

 そして、張隆に城攻めの支度を整えさせた。



 ▼△



 蒼潤が握り締めて膝の上に置いた両手に白い光が射す。朝か、と室の中で梨蓉の侍女が呟いた。

 うっ、と小さく呻いて嫈霞がゆっくりと瞼を開く。彼女の侍女がその体を支えて、嫈霞が右手で顔を抑えながら起き上がった。

 梨蓉は嫈霞の傍らに膝をつくと、声を潜めて尋ねる。


「大丈夫?」

「顔がひどく痛みます」

「薬を塗り直しましょう」


 梨蓉の視線を受けて嫈霞の侍女が塗り薬の支度を始めた。

 嫈霞が手当てを受けている様子を蒼潤は牀に座って見守りながら、臥室の方に意識を向ける。

 臥室から何の音も聞こえなくなってしばらくが経っていた。


 あんなにも激しく軋んでいた臥牀の音も、肉がぶつかり合う音もしない。

 楓莉は最初ふたりを誘うようであったのに、ある時から泣き出し、悲鳴を上げて許しを得ようとしていた。

 その様子に興奮した貞糺が何度も何度も獣のように咆える声が響き、功郁もまたよろこんでいる声が一晩中ずっと聞こえ続けていたので、臥室が静まり返ってもすぐには蒼潤も梨蓉も身動きが取れなかった。

 あまりにも長く恐怖に晒され続けていて、その恐怖に終わりが来ることが信じられなかったのだ。


(おそらく楓莉は気を失い、功郁と貞糺は満足して眠ったのだ)


 蒼潤は剣を掴んで、すっと牀から立ち上がった。

 足音を忍ばせて床の上で足を滑らせるように歩く。梨蓉が息を呑んで蒼潤の動きを目で追ってきていた。

 蒼潤が臥室の入口を覆った帘幕に手を伸ばした時だ。蒼潤は気配を感じて、私室の入口に振り返った。

 すると、年老いた下女が蒼潤に向かって跪いていた。


公子わかさま殿とのが外壁門を抜けて、こちらに向かっております」


 容貌に反して声が若々しいので、下女の正体が知れた。

 蒼潤は瞳を大きく見開き、危うく声を上げそうになったが、唇を引き結んで梨蓉と嫈霞に振り向いた。

 梨蓉も嫈霞も両手で己の口を塞いで、瞳を見開いている。その瞳に喜びと安堵を見て、蒼潤は下女――清雨に視線を戻した。

 

「柢殿はご無事です。柢殿が外郭門を開き、殿を中に手引きしたのです」


 柢恵の無事を喜びつつ、甄燕はどうしたのかと問おうとして、蒼潤はすぐに思い直した。

 今それを聞いて、もしも甄燕の身に何か起きていたと知ってしまったら、その途端に蒼潤は心が折れてしまう。


(伯旋が助けに来た)


 今この時に蒼潤が心に留め置くべき事は、その一点のみだ。

 なぜ彼がこんなにも早く駆け付けることができたのか分からないが、朝の陽射しと共に蒼潤たちに希望が差し込んできた気がした。

 ならば、もはや躊躇っている時ではない。蒼潤はぐっと剣の柄を握り直して、そっと帘幕に手を掛けてくぐり、臥室に足を踏み入れた。


 むっと臭気が押し寄せてくる。

 その青臭さに蒼潤は息を詰まらせ、楓莉の衣が裂かれて床に投げ捨てられている様子を横目で見ながら、静かに静かに牀榻しんだいに近付いた。

 床帳たれまくの中を覗き込むと、功郁が楓莉の体に覆い被さったまま寝入っていた。その隣で貞糺も、牀榻の天蓋に向かって口をぽっかりと開けて、いびきをかいている。


 蒼潤は物音を立てずに功郁の脇に立つと、その首筋に剣を滑らせた。

 ぶしゅーっと功郁の首から赤が噴き出すのを見て、蒼潤は剣を逆手に持ち直す。膝を付いて臥牀に乗り上がると、すぐさま貞糺の胸に剣を突き立てた。


「う……っ」


 貞糺が呻き、ばちっと目を見開いた。両腕を上げ、自分の胸に突き刺さった剣の存在を確かめるように、その剣身を握ると、剣の柄を握り締めている蒼潤を見上げて睨む。

 蒼潤は奥歯を噛み締めて、さらに深く貞糺の体に剣を突き刺して、その体を剣先が臥牀に届くまで貫いた。


 まるで抵抗するかのように貞糺は両足をばたつかせたが、やがて動かなくなる。

 蒼潤は貞糺の体から剣を引き抜くと、臥牀の上に放り、すでに息絶えている功郁の体を臥牀から引きずり下ろした。

 どすん、と音を立てて床に転がった功郁には見向きもせずに、その巨体の下敷きになっていた楓莉の肩に手を掛けて、恐る恐る揺すりながら声を掛けた。







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