8.恐怖に溢れた長い夜
楓莉の姿が帘幕の向こう側に消えて、臥室から声が聞こえる。
「なんだ、お前は。殿下はどうした?」
「楊羽と申します。楓莉と字でお呼びください」
「お前のような女には用はない。郡主を連れて来い」
「郡主様はまだ幼く、なんともみすぼらしいお体をしていらっしゃいます。御覧になられませんでしたか? 胸が真っ平らなのですよ。あのような色気のない体を朝まで抱こうとおっしゃるのですか? 四半刻で飽きてしまわれるのがオチでしょう。比べて、わたくしの胸の豊かなこと。触れてみてください。――ね? 幼い郡主を抱いて喜んでいては、幼子が好みかと嗤われますわよ。峨伯旋のように」
臥室から貞糺が楓莉を罵っている声と、それを打ち消すような功郁の大きな笑い声が響いた。
「そうか、そうか。峨鍈は胸のない幼子が好みなのか」
「ええ、そうですよ。まるで覇者らしくない。そう思いませんか? それに、功様。功様は郡主を娶られるのでしょう? ならば、今後いつでも郡主を抱くことができます。未だ蕾の郡主よりも、今咲き誇っている私になさいませ」
楓莉の甘い声に功郁が彼女の体を牀榻の床帳の中に引き込んだ気配がする。どうやら彼女は功郁の関心を強く惹くことに成功したようだ。
だが、貞糺はまったく納得できていない様子で楓莉を罵った。
「自ら抱かれに来る女を辱めて何になると言うのだ! 郡主を犯せないというのなら、わたしはやはり峨鍈の娘を犯す! 先ほどの娘をわたしに寄越せ!」
臥室から響いて聞こえた恐ろしい声に柚が身を縮めて、ガタガタと震える。
いつの間にか、泣き声が止んだと思って視線を向ければ、桓は明雲の腕の中で失神しており、軒の口は梨蓉の手に塞がれている。
「貞様、わたくしをご覧になって。まずは楽しみましょう。あんなちっぽけな娘のことなんて後で良いではないですか。朝が来るまで、まだまだ時はありますから」
長くしつこく不満を言い募っていた貞糺の声が楓莉に宥められて、やがて細く小さくなっていく。
ふふふっ、と楓莉が笑い声を漏らし、布が大きく裂かれる音が響いた。
(――っ‼)
功郁の笑い声、貞糺の罵り声、そして、楓莉の呻き声が聞こえ、臥牀が激しく軋む。それら臥室から聞こえてくるすべての音に蒼潤は怯えて、床に膝をついた格好でガタガタと震え始めた。
そんな自分の姿がまるで柚と同じだと気が付いて、蒼潤の胸に無力感が溢れる。
(何もできない。やめろと叫ぶことさえもできない。助けたいのに。守りたいのに!)
梨蓉から子供だと指摘を受けて、蒼潤の中で張りつめていた糸はぷつりと切れてしまい、蒼潤は身動きが取れなくなっていた
臥室では、楓莉が蒼潤の身代わりとなって、本当なら臥室で蒼潤がされるはずだったことを彼女が代わりにされている。
それが何であるのか、蒼潤の知識ではまったく足りていなくて、いったい臥室で何が行われているのか分からなかった。
それ故に、臥室から響いてくる音は、未知の恐怖となって蒼潤に襲いかかってくる。
「天連殿」
梨蓉に呼ばれて振り向くと、蒼潤の血の気のない顔を見て彼女は目を見開く。
そして、彼女は、ご無礼を、と呟くように言って、片腕で蒼潤の体を抱き締めた。
軒と共に梨蓉に抱き締められた蒼潤は、自分が4歳の軒と同じくらいに幼くなってしまったような気持ちになる。
泣きたい。
泣き喚きたい。
自分の無力と臥室から押し寄せてくる恐怖を泣いて遠ざけてしまいたい。
だけど、蒼潤は自分にはそれが許されないことを知っていた。
「梨蓉、放してくれ。大丈夫だ」
「ですが、天連殿」
「柚をもう一度、隠そう。貞糺はまったく信用ならないし、功郁の気もいつ変わるか分からない」
切れてしまった糸を再び結ぶようにして気持ちを奮い立たせると、蒼潤は辺りに意識を巡らせる。
功郁の命令に従って兵士たちは北宮から出て行ったようで、少なくとも目の見える範囲に兵士の姿はない。
子供たちを隠すのであれば、今だ!
「桓を明雲から引き離すのは酷だろう。明雲、北宮のどこかで、ふたり一緒に隠れていろ」
青白い顔で明雲が桓を抱き締めながら、こくこくと何度も頷いて、侍女の手を借りながら蒼潤の私室から出て行く。
柚のことは玖姥に頼んで北宮のどこかに隠しに行って貰うと、蒼潤は嫈霞の侍女に視線を向けた。
「嫈霞の手当てを」
嫈霞は未だ意識が戻らない。命には別状なさそうだが、貞糺に蹴られた顔はしばらく大きな痣が残りそうだ。
嫈霞の侍女が主の手当てをする様子を眺めながら、蒼潤はふらふらと立ち上がり、牀に戻って腰かけた。
全身が耳になってしまったかのように、臥室の音を拾ってしまう。
喘ぎ声。
男たちの歓喜の声に混ざって聞こえる女の悲鳴。
そして、ギシギシと臥牀が軋む音。
何度、剣の柄に手を伸ばしただろう。その度に、その手を徐姥と梨蓉に代わる代わる押さえ付けられた。
徐姥の隣で芳華が震えている。
玖姥が戻って来て、呂姥の隣に座った。ふたりとも顔に血の気がない。
梨蓉は臥室の音を幼い軒に聞かせてはならないと、軒を北宮の他の室に連れていくように軒の乳母に命じた。
母親と離れたがらない軒が泣いて抵抗したため、最後には乳母に抱えられて軒は室を出て行く。きっと室を出た後も、しくしくと泣いているに違いない。
(驕はどうしているだろうか。井戸の中で泣いていないといい。琳と朋は大丈夫だろうか。そのまま、けして見付からないように隠れているんだぞ)
蒼潤は唇を噛み締める。
口の中に鉄の味が広がり、梨蓉に唇を手巾で拭かれて、薄皮を噛み千切っていたことを知った。
朝が、ひどく遠かった――。
▽▲
峨鍈が、蒼潤と柢恵を夏葦と共に斉郡に向かわせた3日後のことである。
赴郡城に向かって進軍しながら峨鍈はどうしても腑に落ちず、孔芍を傍らに呼ぶと、彼を相手に不満をぶつけた。
「陳非はいったい俺の何に不服だったと言うのだ」
「さあ、陳殿のお気持ちはわたしには計り知れません」
「俺はあいつと、そこそこ仲が良かったと思っている」
「わたしにもそのように見えましたが」
「あいつを椎郡に向かわせる前に、お互い腹を割って語り合い、酒を酌み交わしたのだ。それなのに、なぜ、あいつは俺を裏切ったんだ?」
「殿、何か心当たりがないのですか? 例えば、その時に不用意なひと言を言ってしまったとか」
「ない」
まったく考える様子も見せずに短く言い切った峨鍈に、孔芍はお手上げだとばかりに首を横に振った。
「でしたら、わたしには皆目見当もつきません。――そもそも陳殿は本当に裏切ったのですか?」
「なんて?」
「裏切ったという報は、いったいどこから届いたのですか?」
峨鍈は孔芍の言葉に、はっとして馬の手綱をひいた。
峨鍈の馬が嘶き、脚を止めたので、隊列が大きく乱れ、先頭を進んでいた張隆が慌てて号令をかけて進軍を止めた。
「殿、何事ですか!?」
張隆が馬を走らせて来る。孔芍も峨鍈の隣で馬の歩みを止めて、怪訝顔で峨鍈に視線を向けてくる。
峨鍈は馬上で両腕を組み、うむと低く唸ると、不世の名を呼んだ。
どこからともなく痩身の男が姿を現し、峨鍈の馬の前で跪く。不世は峨鍈が使っている間者組織の長であった。
「陳非は今どこにいる?」
「泰道の辺りかと」
泰道は斉郡の西の端である。
椎郡と接しているため、椎郡から斉郡に攻め入れば、まず泰道に入る。
「まだ泰道にいるのか。泰道で陳非は何をしている? 俺なら、泰道などというところでは留まらず、さっさと先に進むが」
「泰道で陣を敷いております」
「陣を敷いている?」
不世の言葉を繰り返して、峨鍈はますます怪訝に思った。
殿、と孔芍が峨鍈を呼ぶ。視線を向ければ、孔芍の顔はどこか青ざめて見えた。
「陳殿は敵に備えて陣を敷いているのではないでしょうか?」
「敵?」
「もしや、何者かが椎郡に攻めて来ると思ったのでは?」
「どういうことだ?」
峨鍈は孔芍の顔を睨み付けながら、孔芍の言葉の意味を探ろうと、頭を巡らせる。
泰道は椎郡から斉郡に攻め込む場合に必ず通る場所であるが、それと同時に斉郡から椎郡に攻め込む場合も必ず通る場所であった。
椎郡は平地が多いが、斉郡の泰道というところには必ず通らなければならない谷間がある。そこに陣を敷いたとなれば、斉郡に攻め込むためというよりは椎郡を守るための行動だと頷けた。
「つまり、陳非は斉郡から椎郡に攻めて来る者がいると思ったのだ」
斉郡の城代は許普である。
許普が峨鍈を裏切り、斉郡に攻め込むという情報を陳非が得たというのだろうか。
「いえ、待ってください。許殿の温和な性格を考えれば、裏切るなどあり得ません。しかし、斉郡には功郁と貞糺がいます」
「功郁と貞糺だと……?」
峨鍈はギョッとして孔芍を見やった。
その2人の名を聞いたとたんに胸騒ぎを覚えて堪らなくなる。
「思えば、陳殿は功郁と貞糺の降伏に疑心を持っておられた。2人が殿を裏切ったと思い、軍を泰道に進めたのではないでしょうか?」
「嫌な予感がする」
峨鍈は脳裏に瓊倶の顔を思い浮かべた。
憎たらしい相手なので、敢えて彼の間抜けな表情ばかりを思い浮かべて、彼であったのなら、どのような手を打つだろうかと想像した。
晤貘は制御不能な猛獣のような一面がある。
それに、おそらく晤貘は何もせずとも、蒼麗が自分に嫁ぐ気がないと気付けば、峨鍈の領地に攻め込むだろう。
ならば、その時に乗じて動かせる者が必要だ。
椎郡の陳非も、斉郡の城代の許普も、峨鍈との関係は良好である。
だが、人と人は物理的な距離ができてしまうと、その分、心にも距離ができてしまうものだ。
おそらく、瓊倶は離間を謀る余地が十分にあると考えたのだろう。
峨鍈は胸騒ぎに従って、答えを導き出した。
瓊倶が自分に仕掛けて来た策とは、人の仲を裂くために投じられた石である。
そして、その石とは、――功郁と貞糺なのだ。
「斉郡城に向かう!」
「殿? 今なんと?」
驚いて聞き返す孔芍にはかまわず、峨鍈は張隆に命じる。
「千を率いてついて来い。残りの兵は、仲草、お前が赴郡城まで連れて行け」
「殿!」
「赴郡まで、あと1日の距離だ。万が一、途中で晤貘軍と鉢合わせしたら、とにかく城まで逃げろ。お前では晤貘に勝てん。戦うな。逃げろ。そして、赴郡城についたら、石塢に従え。石塢には、お前の判断に任すと伝えろ!」