7.怖がるな。だって、
できるわけがないと蒼潤を侮っているのだろう。功郁が嘲笑いながら蒼潤の方に一歩近づく。
蒼潤は功郁に視線を戻し、ニヤリと唇の端を持ち上げて不敵に笑ってみせた。
「できるわけがない? 本当か?」
「……」
「どうだ? わたしにはできないと思うか?」
「待て! 待って頂きたい! 殿下、落ち着いて話をしましょう」
慌てたように両手を前に突き出して、功郁が蒼潤との取引に応じる余地があることを示したので、蒼潤は剣身を首に当てたまま内心ホッする。
思った通り、功郁は蒼潤を殺せないし、自ら死なれては困るのだ。
功郁が瓊倶と交わした約定は、峨鍈から蒼潤を奪えというもので、蒼潤を瓊倶に捧げよというものではなかったようだ。
ならば、本来、蒼潤の生死は問われないはずである。
だが、名門瓊家の瓊倶とは異なり、功郁は蒼家の血を惜しいと考えているようだった。
そうであるならば、郡主は生きたまま手に入れて、その腹に自分の子を孕ませなければ意味がないと考えるはずである。
自分の内に流れる血は、男たちの欲望を焚き付ける。峨鍈と出会い、蒼潤はそのことを身に染みて知った。
血が何よりも強い力を持っている。
高貴な血こそ天がその者に天下を語ることを許した証だと、人々が真剣に信じているからだ。
血こそが力。
血こそが権利。
そして、血こそ証である。
だから、峨鍈は蒼潤を欲し、功郁もまた蒼潤が欲しいのだろう。
峨鍈と出会ってから蒼潤は自分の血の価値を改めて知り、蒼潤に対して、その血を欲する者たちの考え方を少しだけ知った。
そういう者には、己の身が一番の盾になり、交渉材料になるのだ。
「この者たちを全員、無傷で峨伯旋に引き渡すのであれば、わたしは大人しくお前に従おう。――お前を夫に向かえてやってもいい」
吐き気がするようなことが自分の口から飛び出して来たので、蒼潤は自分自身に苦笑を浮かべたくなった。
(誰がお前なんかを夫に迎えてやるものか)
背が低く太っている貞糺に比べたら、功郁は背が高く、がっしりとして見えるが、どちらも胴回りは似たようなものだ。
甲高く喚き散らす貞糺に対して、功郁の声は低く、蒼潤に対しては丁寧な口調で接しているが、その笑みは厭らしく、幼く見えるからと蒼潤のことを彼が侮っているのは明らかだった。
(伯旋とは比べようもない)
容姿に関してもさることながら、内に秘めた志の高さは峨鍈の方がずっと上である。
峨鍈ならば、他者の援軍ありきの作戦など立てないはずだ。功郁は己自身で乱世の覇者となるのではなく、今後は瓊倶の傘下に入るのだという。
そんな男を夫に迎えるつもりなど蒼潤にはさらさらなくて、ひとえに梨蓉たちを守るための嘘だったが、そうと悟られないように蒼潤はまっすぐ功郁の目を見つめ続けた。
すると、功郁がずいっと蒼潤に顔を寄せた。
じっと見入るように蒼潤の顔を眺め、やがて功郁はニタニタと下卑た笑みを浮かべる。
「貴女の母君の桔佳郡主は大層美しい方だと聞く。なるほど、貴女も美しい」
功郁の太い指が蒼潤の頬に触れた。
蒼潤はぞわりと寒気を覚えたが、ぐっと眉間に力を込めて耐えて言う。
「兵士たちを下がらせろ。宮城から出て行かせるのだ」
「そんなことできるはずが……」
はっ、と蒼潤は笑い声を上げた。
「できない? ここには女と子供しかいないのに? これから郡主の夫になろうという者が、随分と臆病なのだな」
煽るように言えば、功郁は顔を青ざめさせて、兵士たちに向かって片手を振る。
兵士たちが遠ざかっていく足音に耳を澄ませながら貞糺が義兄に対して不服げな声を漏らした。
「峨鍈の娘だけは、わたしにください。峨鍈の娘だけは!」
貞糺が柚に歩み寄って、柚の頭を鷲掴みにしようとしたので、蒼潤はその肉厚な手をすかさず蹴り飛ばす。
両手が剣で塞がっていたこともあったが、少しばかり嫈霞が受けた仕打ちへの仕返しを意識していた。
貞糺は蒼潤に蹴られた右手を抑えて、赤く充血した眼を大きく見開く。
「殺してやる! 全員、犯して殺してやる!」
その狂ったような恐ろしい表情と言葉に女たちが悲鳴を上げて、身を寄せ合って震えたので、蒼潤は剣身を己の首に当てたまま功郁を睨んだ。
功郁は蒼潤の視線を受けて、やれやれと貞糺の肩を叩いた。
「落ち着け。我らは峨鍈から郡主を奪ったのだ。それだけで十分ではないか」
「十分なものか。峨鍈の娘を犯してやらねば、妻と娘たちが浮かばれない!」
「では、ふたりで郡主を犯すというのはどうだ?」
功郁のとんでもない提案に貞糺の表情が大きく変わる。
「ほら、よく見てみろ。郡主は峨鍈の娘ではないが、お前の娘と同じくらいの年齢ではないか」
「……」
「峨鍈は、自分の娘を犯されるよりも、郡主を奪われる方が悔しがるかもしれないぞ。あの男は長い間、蒼家の娘を欲しがっていた。自分の血が腐っているからだ。宦官の祖父の力を借りてようやく手に入れた郡主を奪い、犯してやれば、あの男は血を吐くような思いを味わうはずだ」
「……なるほど。たしかに義兄の言う通りだ」
「だろう? お前の種を郡主の腹の中に放たれては困るが、一緒に楽しませてやろう」
貞糺の肩を抱いて、その耳に囁くように言った後で、功郁はニヤニヤしながら蒼潤に振り向いた。
「殿下、そういうわけなので、今夜だけは耐えて頂きたい」
「大した趣味だな。下衆が」
「口の利き方には気を付けてください。今後は俺が貴女の夫なのですから」
蒼潤は剣を徐姥に預けて、肩に掛かった髪を片手で後ろに払った。
すると、蒼潤を指差しながら貞糺が気が狂ったように喚く。
「泣き喚いて許しを請うても攻め立ててやる。朝が明けるまでだ!」
蒼潤は貞糺の言葉を鼻で嗤う。しかし、それは蒼潤にできる精いっぱいの強がりに過ぎない。
貞糺だけならば討ち取れそうだが、功郁は巨体もさることながら、知恵も回るようで、兵士たちを遠ざけたからとはいえ、蒼潤ひとりでは敵いそうにはなかった。
(腹を括るしかないのか。――幸い、まだ夜は明けていない。暗い中で、うまくやれば、男だとは知られないかもしれない)
どうやってうまくやるのかは知らないが、男同士であっても、穴に突っ込むのだということは、かつて芳華に無理やり見させられた書物で知っている。
朝になって臥室が明るくなる前に肌を隠してしまえばいい。そうすれば、数日くらい隠し通せるのではないだろうか。
そうやって蒼潤が時間稼ぎしている間に、夏葦が斉郡城に戻って来てくれれば、みんなで助かることができるはずである。
(だけど、うまくやれるだろうか)
もしも蒼潤が男だと知ったら、功郁と貞糺はどうするだろうか?
蒼潤への欲を失い、柚や他の女たちに手を出すだろうか。それとも、構わず蒼潤の体を犯すだろうか?
郡王の体を組み敷いて犯すのは、存外に征服欲が満たされるものかもしれない。
もし、功郁と貞糺の欲が女たちに向かいそうになったのなら、そう言って煽れば良いだろうか。
(こんなことになるのなら、伯旋からもっといろいろ教わっておけば良かった)
ふと、そんな想いが蒼潤の脳裏に過る。
峨鍈は、男を抱く趣味はないと言いつつも、そういう趣味はなくともお前相手にならできそうだと言って、時々、戯れに触れて来ることがあった。
試してみるか、と何度か尋ねられたこともあって、蒼潤はその度に『否』と答え続けている。
なぜそんなことを峨鍈と自分がしなければならないのか、どう考えても必要性を見出せなかったからだ。
だけど、こんな事態になって思うのは、峨鍈の言う通り、練習くらいしておけば良かったということだ。
練習さえしていたら、こんな風にはならなかったかもしれないと、蒼潤は震え始めた己の膝を口惜しく思った。
(大丈夫だ。ぜんぜん大したことじゃない)
――そう思うのに。
ちっとも震えが止まらなくて、蒼潤は自分の心の中に恐れがあることを知った。
(バカな。怖がるな。だって、子供たちが殺されたり、柚や女たちが弄ばれるより、俺ひとりが功郁と貞糺の好きにされる方がずっと怖くない)
だって、蒼潤は女じゃない。
犯されたからって、孕むわけではないし、女がそうされるよりは傷付かないはずだ。
ただ、屈辱を受けるだけ。
だけど、それで、みんなを守ることができるのであれば、まったく構わないではないか。
蒼潤に向かって功郁が隣の臥室の方に顎をしゃくった。そこで蒼潤を抱こうというのだ。
「天連殿」
功郁に従って臥室に向かおうとした蒼潤の袖を梨蓉が掴む。
振り向けば、片手で軒を胸に抱き締めたまま、梨蓉が大きく首を左右に振った。
「なりません」
「大丈夫だ。大したことじゃない」
「いけません! 殿と約束をしているのです。天連殿をお守りすると」
「俺も梨蓉たちを守りたい」
既に臥室に入った貞糺の急かす声が響く。
蒼潤は梨蓉の手を振り払おうとしたが、思いの外その手は強く蒼潤の袖を掴んでいた。
梨蓉が蒼潤の瞳を真っ直ぐに見つめ、はっきりとした口調で言う。
「天連殿、貴方もまだ守られるべき子供なのですよ」
思いがけない言葉に蒼潤は息を呑んだ。
違うと言いかけて、――だが、その時、張り詰めていた糸がプツリと切れてしまったのを感じて、蒼潤は瞳を大きく揺らし、そのまま一歩も動けなくなってしまった。
「天連殿は十分に私たちを守ってくださいました。ここからは私に任せてください」
そう言って梨蓉は蒼潤の肩に手を添えながら立ち上がり、自分が座っていた場所に蒼潤を座らせる。
彼女は、キッと臥室の入口を睨み付け、功郁と貞糺の待つ臥室に向かおうとした。しかし、その時だ。さっと立ち上がり、梨蓉よりも先に臥室に入ろうとする者がいた。――楓莉である。
彼女は帘幕をくぐって臥室に身を投じる前に梨蓉に振り向くと、くすりと笑みを浮かべて言った。
「大姐様では、些か、とうが立っております。私が適任でしょう」