3.旋風に一瞥もされず
昔から、天下は郡国制を敷いている。
全土を州郡県に分かち、それぞれの長を皇帝が選任派遣するという仕組みである。
当初、州は13あり、1州の下に8つの郡が置かれ、1郡の下には10の県が設けられていた。
だが、時が流れるに従って新たな県が現れたり、併合されたりして、数に差が生じるようになっていった。
更に、皇族が封じられた郡は『国』とされ、これの長は『相』である。
郡の統治は郡太守が、県では県令が設けられ、これらを監視する役目として州刺史が置かれている。
州刺史は独自の軍隊を持たず、叛乱が起きても、鎮圧する力がない。 王朝末期に近付くにつれて各地で乱が起こるようになるが、打つ手がないのである。
そこで、朝廷は新に『州牧』という役職を設けた。
これは領内の民を組織して、独自の軍隊を作る権利を有していた。 乱を鎮めるために設けられたこの州牧が、やがて大きな力を得て、乱世を招いたとも言われている。
渕州は帝都の遙か北東に位置する。
渕州には郡が5つ、国が3つ設けられており、冱斡国はその内の一つである。
渕州冱斡国は、馬の産出地として、知られている土地である。 しかし、それだけの土地であった。
冱斡城の街並みは都のそれとは比べものにならず、中央に通った大通り沿いこそ賑わっているが、大通りから僅かに横道に入れば、閑散とした雰囲気があった。
小さな城郭だ。僅かな手勢だけを連れて互斡国に入った峨鍈は、馬を曳きながら、辺りを見回した。
大通りの店先を覗きながら歩き進むと、男が横道から大通りに出てきて、峨鍈の斜め前を歩く男に片手を上げた。
そうして会話が始まるのかと思いきや、二人は擦れ違う。どうやら軽い挨拶をしただけのようだ。
横道から大通りに出てきた男が、正面から歩いてきた男に挨拶をされた後に、店先で果物を売っている男に呼び止められて、店の中に入っていく。
随分と顔の広い男だと思ったが、どうも違和感がある。その男だけではなく、荷車を押す男も、店先を覗いてはひやかしていく男も、まるで皆が顔見知りのように言葉を挨拶を交わしていた。
狭い城郭の内だ。長く住み続けている者が多ければ、そういうこともあるのかもしれない。そう思った時、ふと視線を感じた。
視線はひとつではない。四方から探るように視線を送られている。
(よそ者が珍しいのか)
それだけ閉鎖的な土地だということなのだろう。往々《おうおう》にして田舎の方ではよくあることなので、峨鍈はさほど気にせず堂々と路を進んだ。
「お待ち下さいっ!」
不意に、若いというよりも幼い声が大通りを甲高く響いた。続いて、懸命に駆けて来る少年と、それを追うもうひとりの少年。
先を駆ける少年が頭の後ろで高く結んだ髪を大きく揺らしながら、くるりと振り向いて、ひどく慌てたように大声を張り上げた。
「燕、早くしろ! 翠恋が苦しんでいるんだぞ!」
こちらの少年の声は更に幼い。息を切らし、頬を上気させた顔は、丸みを帯びていてまるで少女のようだ。
12歳。――いや、もう1つか、2つ上だろうか。こちらの少年を14歳だとすると、もう一人の少年は16歳くらいだろうか。
言葉遣いから察するに、二人は主従関係にあり、おそらく年下の少年の方が主なのだろう。少年たちは旋風のように峨鍈のすぐ脇を駆け抜けていった。
旋風に一瞥もされなかったことで峨鍈は妙に興味を抱く。たまらず少年たちを追って駆け出した。
大通りから逸れて横道に入ると、牆《土塀》が見えてくる。牆は里の周りをぐるりと囲っており、その内側には民家が立ち並んでいる。少年たちは里の入り口である門の前を素通りした。
彼らが足を止めたのは、里の先にある木造の建物の前だった。大きな厩である。
厩の入り口には人垣ができていて、ひどくざわついていたが、少年たちに気付いた者たちが場所を譲って彼らを厩の中に入れた。
峨鍈も厩の入口までたどり着く。何事かと側に立つ男に尋ねると、馬がお産をしているのだという答えが返ってきた。
馬の苦しそうな鳴き声が聞こえてきて、峨鍈は再び同じ男に問いかける。
「難産なのか?」
「ああ、仔馬の体勢が悪い。あれはダメかもしれないな」
正常ならば、母馬の産道の中の子馬は、前肢2本と頭を産道入口に向けている。
ところが、産道に手を入れて確認したところ、2本の肢に触れた後、その奥にあるはずの鼻面に触れることができなかったのだという。
耳を澄ませると、厩の中から慌しい声がいくつも響いて聞こえてきた。
「阿葵様、これは逆子かもしれません」
「そうでなければ、首が後ろの方に曲がっているのでしょう」
「どうすればいいんだ?」
「逆子なら仔馬の肢を引っ張って、窒息する前に出さねばなりません。しかし、逆子ではなく、首が曲がっているのなら、無理に引っ張ることで仔馬の頭が母馬の腹の中で引っ掛かり、母馬の産道を傷付け、母馬共々死んでしまいます」
「どうやって判断する?」
「前に出ている肢が前肢か後肢かで判断しますが、これがとても難しいのです」
「郭爺がいればなぁ」
「昨年、病で死んじまったからなぁ」
惜しむ声が聞こえ、その声に被さるように馬の苦し気な嘶きが大きく聞こえた。
「早くどうにかしなければ! どうしたらいい!?」
「阿葵様、わたしどもには判断できかねます。翠恋は阿葵様の馬です。阿葵様がご判断ください」
「……郭爺は、どうやって前肢か後肢かを判断していたんだ?」
「郭爺なら、産道に手を入れて肢に触れていました。前肢なら、腕節というものがあるのだそうです」
「翠恋の体を抑えてくれ。私が確かめてみる。説明の続きを」
厩の中が一段と騒がしくなる。峨鍈は首を伸ばして中を覗き込むが、他の者たちの体の陰になっていて見えない。ならば厩の中に入ろうとすれば、隣の男に止められた。
「あんた、よそ者だろう。よそ者がこんなところで何をしている?」
「馬が好きなものでな。お産と聞いて見物しているのさ」
男は怪訝そうな表情を浮かべて、さらに何か問おうとしたが、厩の中で馬が大きく嘶き、阿葵様、と慌てふためいて叫ぶ声が聞こえる。
「大丈夫だ! 手を入れた。どうすればいい?」
「まず蹄と球節があります。その奥に肘があるはずです」
「肘? この曲がっているところだな」
「それは前肢であれば肘ですが、もし逆子で後肢であったのなら飛節です。肘か飛節かを判断するのは、とても難しいですが、もし今、阿葵様が触れている肢が前肢ならば、球節と肘との間に腕節という関節があるはずです。関節がなければ、肘ではなく飛節なので、後肢ということになります」
「……」
「……阿葵様?」
「……………」
長い沈黙の果てに細い声が響く。
「関節が……ある…と思う」
おそらく少年には腕節の有無が分からなかったのだろう。手探りでそれを判断しなければならないのだ。幼い子供の手で探り、判断がつかなかったとしても仕方がない。
周りの男たちもそれを十分に承知していて、少年の言葉に神妙な顔で頷いた。
「では、前肢ですね。首が曲がっているので、一度、仔馬を奥まで押し込みます」
「押し込んだら翠恋を立たせますから、阿葵様はしばし離れてください」
「仔馬が生きていれば、自力で首の位置を戻すかもしれません」
戻らなければ、再び産道に腕を入れて仔馬の頭を引っ張り出さなければならない。そうなれば、母馬の命を優先するので、仔馬の頭に鉤棒を引っかけて、力ずくで引っ張るのだ。
数人がかりで母馬の手綱を引いて、嫌がって暴れる母馬を励まして立たせようとしている声が響いた。母馬は嘶きながら立ち上がり、カツカツと蹄を踏み鳴らし、ひと回りすると再び蹲ったようだ。
「――どうだ?」
「駄目です」
「もう一度試してくれ。もう一度だけ! 翠恋、頑張れ! 頑張るんだ!」
今にも泣き出しそうな声が響く。誰もが胸を締め付けられそうになって厩の中の様子を見守っていた。
再び男たちが数人がかりで馬を立たせ、立たせた状態で産道に腕を入れて仔馬を奧に押し込む。母馬が苦しがって首を大きく振って暴れ、どうっと倒れるように蹲った。
「今度はどうだ!」
「――鼻面に触れました!」
「よし! 前肢を掴んで引っ張り出せ‼」
急いで仔馬を出さなければ母馬の体力がもたない。
掛け声と、男たちが力む声、馬の嘶きが厩に響き、外から中の様子を覗き込んでいる者たちも固唾を呑んで拳を握る。
――それにしても、と峨鍈は思った。
難産だとは言え、たかが馬の出産で、これほど人が集まるものだろうか。
怪訝に思う気持ちが表情に出ていたのだろう。隣の男が峨鍈に振り向いて言った。
「あの馬は特別なのさ。郡主様の馬だからな」
「郡主?」
思いがけない場所で思いがけない言葉を聞き、峨鍈は瞳を大きくする。
だが、先ほど厩から漏れ聞こえてきた声によると、出産している牝馬は『翠恋』という名で、『阿葵様』と呼ばれる少年の馬であるはずだ。
「ひとつお尋ねしたいのだが、阿葵様という方はいったいどちらの若君だろうか」
「あの方は……、おっと、よそ者にペラペラ話したとなると、あいつらに睨まれてしまう」
「あいつら?」
男の視線の先にいたのは、先ほど大通りで擦れ違った男たちだ。離れた場所から、物陰に隠れるようにして峨鍈の様子を窺っている。
【メモ】※『蒼天の果てで君を待つ』の設定です。
公主…皇帝の娘(ただし、生母は皇后に限る。皇后は通常、郡主の中から選ばれる)
郡主…皇太子の娘(父親が皇帝になれば、公主になる)、皇帝の姉妹(父親の在位中は公主)、皇帝の兄弟の娘(皇太子にとっては従姉妹)。ただし、どれも生母は郡主に限る。龍ではなく、『龍の揺籃』であり、髪は青くならない。
県主…側妃が産んだ娘(皇帝の娘でも生母が郡主でなければ、公主ではなく県主。また、皇帝の側妃が郡主であった場合は、その娘は郡主となる)