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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
5.葵暦193年の初夏から194年の初夏 斉郡城 囚われの身
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5.死にたくなければ、美しくあれ


 蒼潤は一瞬で眠気が吹っ飛び、床帳を払い除け、牀榻を飛び出した。大声を上げて徐姥を呼ぶ。

 それから、許普の死を告げた清雨に視線を戻して、詳しい状況を問う。

 清雨は老婆に変装しているというのに、老婆らしからぬハキハキとした口調で蒼潤に報告した。


「許殿が泰道たいどうに送り、陳非と交戦中であるはずの千の兵が城に戻って来たのです。彼らはもともと椎郡の兵士たちであり、功郁や貞糺の息のかかった者たちだったのです。泰道には向かわず、近くで身を潜めていたようです」

「そんなバカな……っ」

「城内には功郁に従う兵が大勢いて、彼らが外郭門を開いたため、功郁軍に城内を制圧されました。宮城の奥に攻め入ってくるのも時間の問題です。こうなる前に察することができず、申し訳ございません!」


 床に深く伏した清雨を見下ろして、蒼潤は絶句する。こんな状況で謝られても困るのだ。

 とにかく、状況を把握したいと蒼潤は清雨に問いを重ねた。


「柢恵は?」

「わかりません。深江軍は宮城に押し入ろうとする功郁軍に備えて宮城大門の前で防御陣を敷いています」

「なら、俺も行かなければっ!」


 蒼潤の声を聞き付けて徐姥たちが蒼潤の私室に駆け込んで来る。

 いつもなら他の者には姿を見せない清雨が姿を消すことなく、蒼潤の前に跪いており、見知らぬ老婆の姿を見つけた徐姥は警戒を露わにして身構えた。


「天連様、その者はいったい何者ですか?」

「この者は大丈夫だ。それより、功郁と貞糺が裏切った。燕と深江軍のみんなが宮城を護るために功郁軍と戦う。俺もすぐに向かいたいから支度を手伝ってくれ」

「お待ちください!」


 清雨が体を起こして蒼潤の腕を取った。

 その機敏な動きに徐姥たちは驚き、彼女たちは清雨とは面識はなかったものの、老婆の正体を察した様子だった。


「甄殿が時間を稼いでくださっている間に、公子わかぎみは逃げるのです。今なら、公子おひとりくらいの逃げ道があるかもしれません。いいえ、命に代えてでも逃げ道を見付けてみせます!」


 清雨の言葉を聞いて、徐姥がいち早く反応を示し、蒼潤の白いはだぎの上に暗い色の衣を羽織らせる。

 そして、彼女は自分の娘に振り向くと、ひどく冷たい声を響かせた。


春蘭しゅんらん、天連様の衣に着替えるのです」


 母親の冷淡な言葉に芳華はサッと顔を青ざめさせたが、蒼潤はそれよりも更に顔色を失って声を荒げた。


「待て。ダメだ! そういうことは許さない!」

「いいえ、天連様。娘はこの時のために天連様のお側にいるのです。天連様のお役に立てるのであれば、娘は本望なのです」

「そんなバカなことがあるかっ! ――いいか、春蘭。俺はお前を必ず守るし、燕も助ける。ひとりでは逃げない!」


 ぐっと唇を引き結ぶ徐姥の顔、眉を下げて不安げな呂姥の顔、そして、物言いたげに握った拳を己の胸の前に押し当てている玖姥の顔を順に見やり、蒼潤は清雨の手を自分の腕から遠ざける。

 先ほど羽織らされた暗い色の衣を払い除けると、静かな口調で命じた。


「清雨、柢恵を探せ。きっとこの事はすぐに伯旋はくせんの耳に入る。おそらく、将軍が引き返して助けに来てくれるはずだ。その時に柢恵は夏将軍の助けになる」

「承りました。しかし、公子は如何されるのですか?」

「俺は郡主だ。殺されはしない」

 

 晤貘ごばくが蒼麗との婚姻を餌に不必要な同盟を結ばされたように、蒼家の血は尊ばれ、強く求められるものだ。

 県主でも宝玉のように大切にされるのだから、郡主を無益に殺そうとする者などいないはずである。


 だが、その一方で、屈辱を受けることは免れないだろう。

 蒼家の血を我が物にしたいと望む男は、蒼家の血が己の子孫に流れることを渇望する。

 つまり、県主、或いは、郡主であればこそ、己の子を孕ませたいと欲するのだ。


「ここに残っては、公子の秘密が明らかになってしまいます」

「致し方がない」


 蒼潤は自分が功郁の牀榻しんだいに引きずり込まれて、衣を剥がされる姿を想像して歪んだ笑みを口元に浮かべた。

 きっと功郁は蒼潤の真っ平な胸を見て仰天するに違いない。


 だけど、それでも蒼潤は殺されないだろう。

 蒼潤が郡主ではなく郡王であれば、この乱世においては、更に多くの使い道があるからだ。


 清雨を追い立てて柢恵を探しに向かわせると、蒼潤ははだぎ姿のまま私室を飛び出した。

 後ろから徐姥たちが追って来るのを感じながら、北宮の門を抜けると、側室たちのいる西宮に向かって駆けた。


 その時、遠くの方で喊声が響く。深江軍が護っているという大門の方だ。ついに深江軍と功郁軍の戦いが始まったのだと分かり、蒼潤を焦らせた。

 物々しい雰囲気となり、宮城の多くの者たちも異変に気付き始めている。蒼潤が西宮の中庭に飛び込むと、ちょうど梨蓉が私室から回廊に出て来たところだった。


「天連殿、この騒ぎはいったい……」

「敵だ! じきに、ここに敵が攻め入ってくる! 梨蓉、子供たちを隠さなければならない。ゆうを隠せ。それから、きょうかんを別々の場所に隠せ」


 蒼潤の言葉に梨蓉は顔を青ざめさせて、すぐに己の侍女に命じて、未だ眠りの中にいる驕を連れて来させる。

 りんけんも回廊に出て来て、他の側室たちも自分の子を連れて回廊に出て来た。


「琳とほう、ふたり一緒なら大丈夫だな。ふたり一緒に隠れられるところを見付けてやれ。軒は梨蓉の側に」


 軒は幼過ぎて、ひとりで身を隠すことができないだろう。梨蓉は蒼潤の言葉に頷いて軒の体を強く抱き寄せた。

 琳と朋、そして、柚が侍女に連れて行かれるのを見て、蒼潤は驕と桓の手を掴んだ。


 桓の生母は明雲めいうんで、彼女は不安げな表情を浮かべて息子を追って来たので、蒼潤は彼女の目の前で桓を中庭の井戸の中に隠すことにした。

 桓を釣瓶つるべに座らせると、その釣瓶をゆっくりと井戸の中に下していく。


「きゃあああああああ! 桓っ! 桓っ!」


 息子が井戸の中に落とされていくのを見て、明雲は半狂乱に叫び続けるので、蒼潤は玖姥に視線を向けて彼女を井戸から遠ざけた。

 静かになったところで、井戸の底から水音が響いて聞こえ、釣瓶が十分に下がったのだと分かる。


「桓、必ず助けに行くから、そこでじっと待っているんだぞ」


 蒼潤が井戸の底に向かって大声を響かせると、はい、と小さな声が心細そうに返ってきたので、蒼潤は驕の手を握った。


「お前は東宮の井戸に隠す。東宮はしばらく使っていないから、ここよりも心細い思いをするはずだ。だけど、驕。お前なら我慢できるな?」

「できます。ぼく、天連様が迎えに来て下さるまで、耐えてみせます」

「よし、いい子だ」


 蒼潤は驕の頭をくしゃくしゃに撫でると、驕のことを呂姥に頼んだ。

 天連殿、と梨蓉に呼ばれて蒼潤が振り向くと、梨蓉の隣に雪怜せつれいが震えながらお腹を抱えて佇んでいる。

 その表情にあまりにも血の気がなく、今にも気を失いそうだと思って蒼潤は眉を顰めた。


「どうした?」

「じつは、雪怜は身籠っているのです」

「え……」


 不意打ちを喰らったような心地になり、蒼潤は言葉を失う。

 だが、すぐに我に返って、片手を振り上げた。


「すぐに隠せ。殺されるぞ!」


 余計な言葉が口をついてしまい、蒼潤は、しまった、と思って舌打ちをする。

 殺されるだなんて、そんな言葉を彼女たちに聞かせて、不安を煽るようなことをするつもりなんてなかった。

 だけど、雪怜が身籠っているだなんて急に聞かされて、蒼潤は少しばかり気が動転してしまったのだ。――当然、雪怜の腹の子の父親は峨鍈のはずだからだ。


「雪怜も東宮に隠せ。急げ!」


 雪怜が侍女に連れて行かれるのを見て、蒼潤は大きく息を吸い、そして、その息をゆっくりと胸から吐き出した。

 敵に捕らわれた妻子の運命は、多くの場合、悲惨だ。

 人質としての価値があれば生かされるだろうが、そうでなければ、殺されるのが常だ。

 子や身籠っている女は問答無用に殺されてしまうが、人質を必要としていなくとも、他の価値があると思わせることができれば、生き延びることができる。

 つまり、若い女はその若さが価値となり、戦利品として生きることができるのだ。

 蒼潤は辺りの女たちを見渡して、声を張り上げた。


「いいか。目いっぱい着飾れ。生き延びるために化粧をしろ。一番上等な衣を着ろ! 美しく着飾ったら、皆、北宮に集まるんだ!」


 皆とは、侍女たちも全員である。

 まず主の身支度を整えると、侍女たちも全員、自身が持つ一番上等な衣に着替え、化粧をして、北宮に集まった。


 蒼潤も私室に戻ってから芳華の手を借りて身支度を整える。紺藍色の裙に、天色の深衣と白縹色の深衣を重ねて纏い、髪を結い上げ、竜胆の花を模した簪を挿した。

 それから、驕を隠し終えて戻って来た呂姥に化粧をして貰う。白粉をはたき、眉を描き、唇には紅を塗ると、目尻に朱を差し、頬紅をつけた。

 両肩から左右に領巾ひれを垂らして、考えられる限りの装飾品を身に着ける。耳飾りに、首飾り、腕輪、指輪、そして、髪飾りも華やかに挿した。


 北宮の正殿である蒼潤の私室に側室たちが集まり、彼女たちの侍女たちも同じ室の中で控える。

 蒼潤だけが室の奥の牀に腰かけており、他の女たちは床に腰を下ろして、敵兵たちが宮城の大門を破り、奥に攻め入って来るのを待ち構えた。

 やがて、大勢の足音が騒がしく近付いて来る。

 

(深江軍はどうなったのだろうか。燕は――)


 足音は功郁軍のものだろう。であれば、深江軍は敗れたのだと察して、蒼潤は胸の前で拳をきつく握りしめた。

 親しい者たちの顔がひとつひとつ脳裏に浮かんでは消え、そして、最後に燕の顔が浮かんで目頭が熱くなる。


(ダメだ。泣くな。だって、まだ何も分かってはいないじゃないか。燕はきっと無事だ。きっと大丈夫)


 ガチャガチャと具足を鳴り響かせながら、足音が迫って来ていた。

 その恐怖で北宮の殿舎たてものが揺れ動かされているかのように感じた。

 蒼潤でさえ恐ろしいと思うのだ。耐え切れず泣き出す女たちの震える姿に、蒼潤はぐっと唇を嚙みしめた。


 





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