4.偽りと裏切り
つまり、と蒼潤が眉間に皺を寄せながら言う。
「実際には、麗は嫁がないということか?」
「そうだ」
蒼潤はあからさまに安堵の表情を浮かべた。
こんなにも想いと表情が強く結びついている者も珍しい。何ひとつ言葉にしなくとも、その顔を見れば、蒼潤が何を考えているのか、峨鍈にはすぐに分かった。
裏表のない蒼潤と接していると、峨鍈も身構える必要がなく、気持ちが軽くなる。
もしも、蒼潤ではなく蒼彰を妻に選んでいたら、今頃いったいどのような腹の探り合いが行われていただろうかと想像するだけで、苦々しい気持ちになった。
蒼潤を選んで良かったと思いながら、その顔を眺めていると、蒼潤が不服そうに唇を尖らせて言う。
「だけど、それは騙すことにならないか? だって、最初から麗を嫁がせるつもりなんてないんだから」
「そうだな。同盟と言いながら、こちらに都合の良い時間稼ぎに過ぎないな」
「ひどいな。それで、どうすんだ?」
「俺は同盟というものが好かん」
「なら、この話は無しだな!」
「――と言うわけにもいくまい」
「どっちだよ!」
軽く苛立ったように声を荒げた蒼潤に唇の端をくっと引き上げて笑い、峨鍈は蒼潤の左頬に手を伸ばした。
すると、蒼潤が素早く身を引いたので、峨鍈は蒼潤に触れることのできなかった右手を軽く握って苦笑交じりに口を開く。
「晤貘との交渉は河環郡主が行ってくれるそうだ」
「任せても良いものでしょうか?」
峨鍈と蒼潤の会話に孔芍が口を挟んできた。
それを咎めることなく、峨鍈は孔芍に視線を向けて頷く。
「任せてみよう。お手並み拝見といったところだ。――しくじれば、晤貘と戦うのみだが、うまくいけば随州を攻められる」
そして、葵暦193年の暮れ。
晤貘は珉郡城に腰を据え、蒼麗と婚約した。
蒼麗は笄礼を済ませ次第、晤貘に嫁ぐことになっており、嫁ぐ際には渕州互斡国から併州を通り、義兄である峨鍈の護衛のもと琲州珉郡に向かうため、吉日まで婚礼の準備を整えて待っていて欲しいということで話がついているようだ。
通常ならば、鼻で嗤って撥ねつける話である。すぐに娘が嫁いでくるわけではなく、目に見えるかたちで利がないからだ。
ところが、蒼家の血を持つ娘を貰えるという話は、晤貘にとっても有難くも畏れ多いことだったようだ。
しかも、蒼麗は、ただ蒼家の娘というわけではない。郡主である。その上、彼女には『絶世の美女』という付加価値があり、晤貘は一も二もなく承諾した。
葵暦194年。随州攻略のために峨鍈は斉郡を許普に任せ、自らは琲州蒲郡に移った。
蒼潤は連れて行ったが、側室や子供は斉郡に残している。
蒲郡は豊陽郡や赴郡と東で接していて、蒲郡から見て、豊陽郡の西隣が斉郡だ。2年前に壬州の叛乱軍が荒した杜山郡は蒲郡の北に位置する。
蒼麗が晤貘に嫁がないまま、季節は初夏になった。
峨鍈が随州の彭顕と戦線を開いたのを見計らったかのように赴郡で事が起きる。珉郡の晤貘が赴郡に攻め込んだのだ。
赴郡は夏銚に任せている。――とは言え、夏銚に与えた兵力では厳しい戦いが予想された。
そこで椎郡の陳非に援軍を要請し、峨鍈自らも随州から撤退して赴郡に向かうことを決めた。
「やはり同盟は好かんな」
「麗を嫁がせるつもりがないことが知られたんじゃないのか?」
「まあ、そうだろうな」
本当に嫁がせるつもりがあれば、年明けすぐにでも嫁がせている。そうではなかったのだ。嫁がせるつもりなどないと考えるのが普通だ。
「むしろ、年が明けてから半年も晤貘が動かなかったことが有り難い」
そのおかげで、赴郡城では晤貘と戦うための準備を十分に整えられた。それだけでも、この短すぎる同盟の意義はあったのだ。
ところが、蒲郡を西に向かって進軍し、赴郡の東の端に入ったところで、新たな報が入る。
陳非が赴郡への援軍と見せかけて、斉郡に攻め入ったというのだ。
「信じられん。なぜだ?」
陳非は、峨鍈が30前後で騎都尉に任じられた頃から彼に仕えていた人物だ。
勇敢で強い信念を持った男であり、信頼に足る人物だった。そのため、峨鍈は陳非に椎郡を任せたのだ。
晤貘に呼応するように動いた陳非に、峨鍈は彼らの裏で糸を操る人物の陰を見たような気がした。
(――瓊倶か)
晤貘と陳非を結び付けたのは、瓊倶かもしれない。
峨鍈は奥歯をギリギリと噛みしめ、従弟に振り向いた。
「芝水、斉郡に向かってくれ」
「承知」
芝水とは、夏銚の実弟である夏葦の字だ。
夏銚同様に大きな体躯をした彼は騎乗したまま短く応えると、すぐさま馬首を返して、己の兵を引き連れて斉郡の方角へと駆けていった。
みるみる遠ざかっていく夏葦の背にちらりちらりと視線を送りながら、蒼潤が落ち着きなく言う。
「伯旋、俺も斉郡に向かいたい」
「何?」
「春蘭たちが斉郡城にいる。心配なんだ。梨蓉たちや子供たちのことも……」
春蘭とは、蒼潤の乳姉妹であり、侍女である芳華の字だ。笄礼を済ませる以前は『小華』と呼ばれていた蒼潤の乳母の娘である。
蒼潤の乳母と侍女たちは、深江郡主の不在を隠すために斉郡城に残しているため、今、蒼潤の身の回りの世話をしているのは甄燕だけだった。
峨鍈は柢恵を近くに呼んだ。
目の届かない場所に送るのは不安でしかないが、自分と共に赴郡に向かい、豪傑と名高い晤貘との戦に巻き込むよりは斉郡に向かわせた方が安全かもしれない。
「柢恵、夏昂と共に斉郡に向かえ。2人とも進軍中は芝水の命に従え。そして、斉郡城に着いたら許普に従え。勝手な真似をするなよ」
「分かった」
「承りました」
「昂」
人目があるので、『潤』とも『天連』とも呼ぶことができず、峨鍈は蒼潤の偽名である『夏昂』の名を呼んだ。
蒼潤が手綱を握り締めて峨鍈に振り向く。
「無茶をするなよ」
「お前こそ。――晤貘という男は無双の豪傑だと聞いた。斉郡に兵を割かねばならないのが痛いだろう。陳非を蹴散らしたら夏将軍をすぐに赴郡に送る。それまで耐えろ。お前に何かったら、……困る」
峨鍈は蒼潤の言葉に眼を細める。
どうやら自分の身を案じてくれているらしい。それに加え、峨鍈を失ったらと、万が一の事態を想像して不安を抱いている様子を見せる。
それだけ蒼潤の中で自分の存在は大きくなっているのだと分かり、峨鍈は無性に蒼潤に触れたくなった。
だが、峨鍈が伸ばした手が蒼潤に触れるその前に、蒼潤は馬の脇腹を蹴って駆けて行った。
深江軍を率いた蒼潤と柢恵が去っていく姿を見送って、峨鍈は赴郡へと急いだ。
▽▲
蒼潤は、峨鍈と別れてから3日目には斉郡に入った。そこから斉郡城まで1日半で駆ける。
陳非は斉郡の西の端である泰道の辺りまで進軍しているようで、夏葦はそのまま泰道に向かったが、蒼潤と柢恵は斉郡城に留まった。
すぐに芳華や姥たち、そして、梨蓉や他の側室たち、彼女たちの子供たちの無事を確認する。
5千の兵を率いた夏葦が陳非に敗れるとは思えなかったが、万が一のことを考えて、許普や柢恵と共に斉郡城の護りを固めた。
「許殿の兵はどのくらいだろうか?」
「わたしが殿からお預かりしているのは、2千の兵だ。そのうち、千は一報後すぐに泰道に向かわせており、陳非と交戦中だ」
許普は、蒼潤や柢恵とは20以上も歳が離れていたが、年少の2人に対して侮った態度をすることなく、真摯に答えてくれた。
柢恵の視線が蒼潤に向けられる。
「お前の深江軍が500だろ。つまり、斉郡城にいる兵の数は、千と500だ」
「功郁と貞糺は、どこにいる?」
「城内の治安を任せている」
仕方がないことだが、こういう時には浮足立ってしまう者が多い。
功郁と貞糺にそれぞれ200ずつ兵を与えて城内の見回りをさせているのだという。
「夏将軍は明日には泰道に着くだろうか」
「着くだろうな」
そしたら、すぐにでも陳非と一戦交えるはずだ。
それにしても、と柢恵が腑に落ちないとばかりに言った。
「陳殿が殿を裏切るとは信じがたいなぁ。あの人は、なんて言うか、そういう曲がったことが嫌いな質なんだ」
そう言われても、蒼潤は陳非と面識がなかった。
許普は陳非をよく知っているようで、柢恵の言葉に深々と頷く。
「まったくだ。陳殿は、わたしよりも長く殿に仕えていて、殿からの信頼も厚かった。なぜ裏切るような真似をしたのか、まるで分からん」
「何か、おかしいな……」
柢恵が呟くように言ったので、蒼潤は柢恵に視線を向けた。
「何がおかしい?」
「分からない。だけど、何か違和感がある。――しばらくは城内の見回りと城壁の見張りを厳格に、いつ何が起こっても対応できるようにしていよう」
「うん、分かった」
許普や柢恵と別れると、蒼潤は甄燕を連れて宮城に向かう。
西宮の梨蓉たちに戦況を伝え、彼女たちを不安にさせないような言葉を選びながらも、万が一に備えるようにと告げた。
その夜のことだ。蒼潤は体を強く揺さぶられて暗闇の中で瞼を開いた。
「公子」
「……清雨か?」
「はい、わたしです」
蒼潤の臥牀の下で膝を折った老婆が静かな声で答える。
この者が姿を現したということは、何かよくないことが起きたということだ。
蒼潤は眼を擦りながら体を起こし、何度も何度も目を瞬かせた。
「何があった?」
「城代の許殿が討たれました。功郁です」
「なんて……?」
「功郁と貞糺が裏切ったのです」