3.どちら側かと問えば、
蒼潤は頭から被せられていた峨鍈の袍を取ると、それをそのまま彼に差し出して小首を傾げる。
「なんで、そんな顔をしているんだ?」
「どんな顔をしている?」
「難しそうな顔だ。何か懸念するようなことがあるのか?」
峨鍈は袍を受け取って羽織ると、蒼潤の隣に腰を下ろした。
「功郁の降伏を受け入れるのは良いが、なぜ今なのかと……。瓊倶の動きが気になるのだ」
「瓊倶?」
「瓊倶は渕州の大半を制し、敖州、和州に勢力を伸ばしている。――もっとも、和州には糜丹がいる。争えば、容易には決着はつかないだろう」
「なら、何が不安なんだ? 瓊倶が敖州や和州に手間取っている間に、お前は併州をすべて手に入れてしまえばいいんだ」
「そうなのだが……」
なんだろうか。煮え切らない。
彼のこんな姿を目にするのは初めてで、蒼潤はどう声を掛けてたら良いのか分からなかった。
ただ黙って峨鍈の次の言葉を待っていると、彼は蒼潤の方に視線を向けて、湿り気を帯びて青く輝く髪に手を伸ばしてくる。
「瓊倶という男は、己の事に集中する前には必ず周囲のことに意識を配る男なのだ」
「つまり?」
意味が分からないと聞き返すと、峨鍈は蒼潤の髪に自分の指を絡めながら答える。
「つまり、糜丹と対峙する前に、他の憂いを断とうとするはずだ」
瓊倶の渕州は北で和州と接し、南で壬州や併州と接している。
壬州は、先任者が叛乱軍に討たれて以降、太守が不在だ。しかも、壬州の農地は荒れ果てており、民の多くは飢え死んでいる。
そんな土地なので、入ることは容易だが、入った後には立て直さなければならない。そのような余力を持った者が今のところいないのである。
――壬州は捨て置けばいい。注視すべきは、併州だ。
おそらく瓊倶ならば、きっとそのように考えるはずだ。
「和州に向かう前に、瓊倶がお前に対して何か仕掛けてくるということか?」
「そうだ」
はっとして蒼潤が顔を上げて彼の顔を仰いだので、その隙を突いたように峨鍈が蒼潤の唇を奪う。
軽く触れただけだったが、突然すぎて驚き、蒼潤は頭の中が真っ白になった。そして、気付けば、蒼潤は彼に抱き竦められている。
「おい……」
離せ、と言いかけて蒼潤は違和感を感じ、口を閉ざした。
なんだろうか。峨鍈の様子が少し変だ。
抱き締められているというよりも、抱きつかれているような感じで、なぜか彼を突き放す気になれなかった。
(瓊倶か……)
蒼潤は瓊倶という男を知らない。
会う機会は作れたかもしれないが、結果的に、蒼潤はそれを選ばなかった。
そう。もし反呈夙連盟が結成された時に蒼潤が郡王を名乗り、世に出ていたら、蒼潤は瓊倶と出会っていたかもしれない。
そして、瓊倶は自分を傀儡にしたかもしれない。そう思うと、瓊倶に対して複雑な想いが湧く。
峨鍈はおそらく瓊倶を良く思っていないのだろう。
峨鍈が放つ言葉の端々からそれを感じる。
峨鍈はよく瓊倶のことを、瓊家に生まれてきたというだけで偉そうにしている、と言う。
或いは、瓊家に生まれてきた時点で瓊俱の運は尽きているだろう、と言って嗤った。
それらの言葉が、蒼潤にはまるで自分に向けられた言葉であるかのように思えて、蒼潤は峨鍈とは一緒に笑うことができなかった。
おそらく自分は、峨鍈か、瓊俱か、と問われれば、瓊俱側の人間なのだろう。
名門瓊家の血を継ぐ瓊俱。
蒼家は他家の追従を許さない絶対的な存在であるが、そんな蒼家を除いた天下では、瓊家の力は強大なものだった。
(伯旋は、瓊俱に対抗するために俺を娶ったのだったな)
蒼潤は自分を抱く男の背に両腕を伸ばす。
(この男に俺も『蒼家に生まれてきた時点で運を使い果たしている』と思われているのだろうか)
そう思われるほど、自分の人生は良いものではないと思うのだが、恵まれているか、恵まれていないかと問われれば、きっと恵まれている方なのだと思う。
なぜなら、蒼潤は飢えたことがないし、虐げられるような目に遭ったこともない。
ならば、きっと心から分かり合える相手は、峨鍈ではなく、瓊俱なのだろう。
そんなことを考えながら、蒼潤は峨鍈の両腕の中で、じっと身を縮めていた。
△▼
「呈夙が死んだ?」
信じがたいとばかりに峨鍈は孔芍の言葉を繰り返して、彼の整った顔を見やった。
孔芍の左隣には柢恵が足を崩して座っており、右隣には熊のような大男である藩立が姿勢正しく座っていた。
「葵陽に潜ませている者からの報告によりますと、晤貘に裏切られたそうです」
「晤貘だと? しかし、奴は呈夙と親子の契りを結んでいたではないか」
「そのようなもの、晤貘にとって、なんの意味も成さなかったということでしょう」
「それで葵陽はどうなっている?」
帝都――葵陽は呈夙が悪行を尽くしたために荒廃していると聞いていたが、諸悪の根源である呈夙が死んだことで、葵陽に平穏は戻ったのだろうか。
そう問うと、孔芍は首を横に振った。
「呈夙の配下たちが、呈夙の後継を争っているそうです」
「晤貘はどうなった?」
父である呈夙を裏切ったのだ。呈夙の配下たちが黙っているはずがない。
「葵陽を追われたようですが、その後の消息は掴めていません」
そのように孔芍から報告を受けたのは、192年の暮れのことだった。
呈夙が殺されたのは192年の4月のことで、今はすでに193年の秋であるから、晤貘の行方はかれこれ1年半も掴めていないことになる。
いったい天下のどこに潜んでいるのかと空恐ろしく思っていると、突如として、その晤貘が琲州珉郡に現れた。
その報せを珉郡太守の姜良から受けると、峨鍈は卓に広げた地図を睨んだ。
姜良は晤貘に珉郡城を奪い取られ、斉郡にいる峨鍈に泣きついて来たのだ。
珉郡は琲州の北の端に位置し、併州赴郡や椎郡と接している。晤貘が珉郡に腰を据えたのであれば、赴郡と椎郡の護りを固める必要があった。
「ひとまず、赴郡は石塢に任せよう」
従兄の夏銚の顔を思い浮かべながら、彼の字を口にする。
「椎郡は如何しましょうか。功郁の降伏を受け入れるのであれば、兵を送って椎郡の護りも固めなければなりません。功郁の兵力では、晤貘に攻め込まれたら、ひとたまりもないでしょうから」
「功郁か……」
峨鍈は唸るようにその名を呟いた。
功郁の降伏を受け入れると返答する予定である。そして、功郁と貞糺を斉郡に呼び寄せ、椎郡は陳非に任せるつもりであった。
だが、晤貘が珉郡にいるのであれば、晤貘に備えて峨鍈も赴郡か椎郡城に移った方が良いだろう。
「しかし、随州にも手を伸ばしたい」
随州は壬州の南、併州や琲州の東に位置する。
随州牧の彭顕は、峨鍈の父親である峨威と因縁のある人物であった。
どちらが先かは分からないが、お互いにお互いを裏切者だと罵り合い、その名を口にしたくないと思うほどに憎しみ合っている。
峨威は、峨鍈のやることに口を挟まず、援助のみをしてくれる父親であるが、唯一、彭顕のことに関しては人が変わったように『父の仇を討て』と執拗に言ってくるのだ。
「今は難しいのではないでしょうか」
先に珉郡の晤貘をどうにかすべきだという孔芍の言葉に頷いた時だった。軽やかな足音が階を上がってくる。
蒼潤だとすぐに分かって峨鍈は室の入口に視線を向け、孔芍だけを残して他の者たちは下がらせた。
蒼潤は珍しく浮かない表情をして室に入って来ると、まっすぐに峨鍈の前まで来て、無言で文を突き付けてくる。
「何だ?」
「姉上からだ。お前に」
「河環郡主が?」
蒼潤の姉である河環郡主――蒼彰は、天幸という字を持っている。
天から与えられた幸いであるかのような聡明さを持った彼女は、 蒼潤が彼女に送ってくる文の他愛もない内容から、蒼潤や峨鍈の現状を察することができた。
であるならば、当然、峨鍈の現状を知った上で、弟を護るために知恵を差し出そうという内容の文であることは予測できた。
峨鍈は蒼潤から文を受け取ると、その文面に目を通し、それをそのまま孔芍に差し出した。
そして、孔芍が文を読んでいる間に、峨鍈は蒼潤に問い掛ける。
「お前の妹は幾つになった?」
「麗のことか? 年が明ければ、15だ」
「15……」
玉泉郡主――蒼麗は、蒼潤よりも2つ年下だ。
以前、その姿を見た時には12歳の童女だったにも関わらず、妙に色気があり、これはと思わせる美しさを抱いていた。
蒼潤は姉が峨鍈に宛てた文に目を通すことなく峨鍈のもとに持って来たのだろう。妹の話題が出て、意外そうな表情を浮かべ、そして、そわそわと落ち着かない様子を見せる。
「姉上はなんて?」
「お前の妹を晤貘にやれ、と」
「何だと!?」
蒼潤は気色ばんで声を荒げた。
「麗はまだ14だ。笄礼を済ませていない妹を、よりによって晤貘などにやれるものかっ!」
もっともな反応だった。蒼彰も蒼潤の拒絶を予想して対応策を文に記している。
峨鍈は蒼潤の腕を引いて自分の傍らに座らせた。
「河環郡主には、きちんとした考えがあるようだ」
「考え?」
「玉泉郡主の幼さを理由に婚約のみで、同盟を結ぶこと。ただし、この同盟は一時的なものであって、随州を手に入れた後はこれを破棄する」
蒼彰の文に『随州』の文字があったのを、峨鍈は苦々しく感じていた。
峨鍈が随州に攻め込もうとしていることを蒼彰は勘付いているのだ。蒼潤にさえまったく話していないことであるにも関わらず、蒼彰がそれを知っていることに空恐ろしくさえ思った。
【メモ】
渕州…大半が瓊倶の勢力下
和州…瓊倶と敵対する糜丹がいる。
琲州珉郡…晤貘に乗っ取られた。
随州…刺史は、彭顕。峨威と因縁がある。
和州
敖州 渕州 壬州
併州 随州
琲州
渕州
斉郡 豊陽郡 杜山郡 壬州
椎郡 赴郡 随州
珉郡




