2.人毛で何を作ろう?
「まあ!」
驚きの声がいくつも重なる。彼女たちは瞳を大きく見開いて、峨鍈の手元を覗き込んだ。
彼の手元では、器の水に浸されて濡れた蒼潤の髪が鮮やかに青く染まっていた。
「どういうことですの?」
「殿、信じられません。天連様の髪が青くなりました」
「面白いだろう。こいつの髪は濡れると青くなるのだ」
なぜお前が得意げに言うのだ、と蒼潤は峨鍈を睨み付ける。
だが、抵抗するのも面倒なので、されるままになって、峨鍈がさらに蒼潤の髪を濡らしていくのを、じっと耐えた。
「殿、私にもやらせてください。天連殿、髪に触れてもよろしいですか?」
まさかと思って見やれば、梨蓉が瞳を輝かせて蒼潤の青く染まった毛先を凝視している。
そんな瞳を向けられては、嫌だとは言えない。蒼潤がぎこちなく頷くと、梨蓉は侍女が置いていった水壺を手繰り寄せて、そこから柄杓で掬った水を少しずつ蒼潤の髪にかけていった。
「なんて不思議! 殿が以前おっしゃっていた通りに青く輝いています」
その口振りから察するに、峨鍈は蒼潤が龍であることを梨蓉には話していたようだ。
そのこと自体は別に構わないが、おそらく峨鍈は蒼潤の不在の場所で他にも蒼潤の話をしていそうで、それがなんとなく気に喰わなかった。
他の側室たちも梨蓉の隣までにじり寄って来て、蒼潤の青い髪に目が釘付けになっている。
嫈霞は梨蓉から柄杓を受け取ると、蒼潤の髪を水で濡らし、次は私がと手を差し出した明雲の手のひらに柄杓を乗せた。
そうして、側室たちによって順番に髪を濡らされて、蒼潤の髪はすっかり青く染まってしまった。
ポタポタと毛先から床に落ちた雫を見やり、人のことを見世物にしやがって、と恨めしさが蒼潤の胸に湧く。
大暴れしてやりたい気持ちを、ぐっと抑えた。
ようやく側室たちと穏やかな交流が持てるようになってきたところだ。ここで蒼潤が暴れてしまっては、再びそれぞれの侍女たちを巻き込んだ争いが始まってしまう。
その時、奥歯を噛み締めて俯く蒼潤の頭に、ふわりと柔らかな布が掛けられた。
驚いて視線を上げると、梨蓉と目が合う。彼女はにっこりと微笑むと、その乾いた布で蒼潤の濡れた髪を優しく拭いてくれた。
「とても美しくて羨ましいですわ。いったいどういう仕組みなのでしょうか。抜け落ちた毛でも色は変わりますか? 変わるのでしたら、抜けた毛で良いので分けて欲しいです」
抜け毛でも青く変わることは、以前、芳華が試みて確認している。
頷きつつも、眉を顰めて蒼潤は梨蓉に問い返した。
「そんなものを貰ってどうするんだ?」
「そうですねぇ。刺繍糸にするのはどうでしょうか」
「あら、素敵!」
梨蓉の言葉に嫈霞がすぐに反応する。
「天連様の髪で手巾に刺繍したら、色の変わる手巾になりますね」
「さすがに布地をつくるのは無理でしょうか?」
「できなくはないと思いますが、かなりの量が必要でしょう」
じっと側室たちの視線が蒼潤の髪に集まる。
髪を毟り取られそうな危機感を覚えて、蒼潤はたじろいだ。
「房飾りや紐などは作れそうです」
「いいな。できたら俺にもくれ」
愉快そうに女たちの会話を聞いていた峨鍈が不意に口を挟んだ。
「もちろんですわ。私が殿のために組紐を編みましょう。剣の装具にお使いください」
「でしたら、私は房飾りを作りますわ」
「殿の手巾には、私が刺繍させてください」
明雲、雪怜、楓莉が競うように言ったので、おいおい、と蒼潤は顔を引き攣らせた。
彼女たちはそれらを蒼潤の髪の毛でやると言っているのだ。
抜け毛で勝手にやってくれるのであれば、構わないのではないかとも思うが、自分の髪の毛が峨鍈の剣の装具や手巾の刺繍になると想像すると、ひどく気色が悪かった。
蒼潤は引き攣った顔のまま峨鍈に振り向く。
「お前、本当にそんなものが欲しいのか?」
「お前が作ってくれてもいいんだぞ」
「気持ちが悪くなるようなことを言うな。――話が終わったのなら、俺は私室に戻りたい」
「まあ待て」
腰を浮かしかけた蒼潤の肩を峨鍈が押さえつける。そして、彼は側室たちを順に見渡して言った。
「見て分かったと思うが、こいつをお前たちと同等だとは思うな。今ここで見たことは口外してはならないし、こいつが郡主ではないことは知られてはならない」
「天連様は郡主ではなく、本当は郡王であられるのですね」
雪怜の言葉に峨鍈は頷き、だが、と言い加える。
「今はまだ郡主でいて貰わねば困る。故に、この秘密はお前たちの侍女にも、けして漏らしてはならない。――分かったか?」
「承知致しました」
深々と頭を下げた側室たちを見て、なるほど、と蒼潤は腑に落ちた。
これを言いたいがために峨鍈は自分たちを集め、蒼潤の髪を濡らしたのだ。
なんだよ、と蒼潤は少しだけ拗ねたような気持ちになった。
結局、峨鍈が口を出して来るのなら、最初からそうしてくれたら良かったのだ。
蒼潤が側室たちとそれなりに関係を築いたのを見てから、のこのこと登場して、偉そうにふんぞり返りながら彼女たちに命じるなんて、蒼潤からしてみれば、余計な事でしかない。
「もういいか?」
ぶすっと頬を膨らませて言えば――きっと峨鍈には蒼潤の想いなどお見通しなのだろう――彼は苦笑を浮かべる。
一番上に羽織っていた直裾袍を脱ぐと、彼はそれを蒼潤の頭の上にバサリと被せた。
視界を塞がれた蒼潤はすぐに峨鍈の袍を払い除けようとしたが、その前に体がふわりと浮いて蒼潤は、うわぁっと声を上げる。
「何するんだよ!」
抱き上げられ、肩に担がれる。
「降ろせ! 嫌だ!」
「頭を隠せ。それが郡王である証だと知る者がお前の青い髪を見れば、ひと目でお前が郡王だと知られてしまう」
「皇族か、後宮の一部の者しか知るわけがない!」
「分からんぞ。現に、俺は知っていた」
言い返す言葉を失って蒼潤は、ぐっと押し黙った。
頭から袍を被されて何も見えないが、きっと彼は、抵抗を諦めた蒼潤に満足そうな笑みを浮かべているに違いない。
蒼潤の体を担いだまま峨鍈が歩き出した。室から回廊に出ると、中庭で遊ぶ子供たちの声が聞こえて、父上、父上、と峨鍈に駆け寄ってくる。
蒼潤は荷物のように運ばれている自分の姿を子供たちに見られたくなくて、息を殺してじっとしていたが、子供たちには袍で頭を隠されていても蒼潤だとすぐに分かってしまったらしい。
「天連様は、どうされたの?」
「具合が悪いの?」
琳と朋の声が聞こえた。
なんでもない、と言って峨鍈は階を降りると、子供たちの間を抜けるように中庭を進み、西宮を出た。
しばらく父親に追い縋っていた子供たちも、西宮を出てしまえば追いかけてくることはない。
やがて、小さい足音はバタバタと遠ざかっていった。
峨鍈は北宮の蒼潤の私室に向かってまっすぐ向かってくれているようだ。蒼潤は土を踏む音に耳を澄ませ、彼の歩みに合わせた振動に体を委ね、瞼を閉ざした。
あまりにも蒼潤が大人しく担がれているので、峨鍈は不審に思ったようで、おい、と口を開いた。
「具合でも悪いのか?」
「――と言うよりも、頭に血が上ってきた」
「莫迦。早く言え」
峨鍈は蒼潤の両膝を片腕で掬い、もう一方の腕で蒼潤の背中を支えながら自分の体の前に抱え直した。
重怠くなってしまった頭を峨鍈の肩に乗せて、蒼潤は被せられた袍を捲って景色を確かめる。すると、ちょうど峨鍈が北宮の門をくぐるところだった。
門の内側に入ってしまえば、互斡国から蒼潤が連れて来た者たちしかいない。
その者たち全員が蒼潤の秘密を知っているというわけではないが、彼らの中にいると、蒼潤はホッとして気が緩んでしまう。
そろそろ下ろして欲しいと蒼潤は薄く口を開くが、声を出す前に峨鍈が唐突に言葉を放った。
「貞糺のことだが――」
「えっ、貞糺?」
すぐに小太りの男を思い出した。
戦場で見かけたその男は、帰るべき自分の城を奪われ、顔からはすっかり血の気を引かせていた。
それは、2年前のことである。
食料を求めて壬州から併州に攻め込んで来た叛乱軍を鎮圧するために峨鍈が出兵した際に、手薄となった斉郡に向けて兵を挙げた者がいた。赴郡太守――貞糺である。
もっとも彼の野望は、蒼潤と柢恵によって、逆に赴郡城を奪われる形で破られ、現在は妻の兄にあたる椎郡太守のもとに身を寄せている。
椎郡太守の名を功郁といった。
「貞糺がどうした?」
一時期、峨鍈は貞糺の妻子を人質としていた。
だが、叛乱軍を己の民、或いは、兵士として受け入れた後、併州のうちの斉郡、豊陽郡、杜山郡、赴郡を手中にしたため、もはや貞糺も功郁も敵ではないと、貞糺の妻子を彼が身を寄せる椎郡へと送り届けている。
併州で峨鍈に敵対しているのは、椎郡だけだ。そして、その兵力差は圧倒的に峨鍈の方が勝っていた。
ちなみに、併州の南に位置する琲州には峨鍈の故郷がある。
祖父の代から親しく付き合いのある者たちが太守の座にあり、彼らは峨鍈を支持していた。
そのため、併州椎郡さえ手に入れることができれば、彼は二州を勢力下におくことになるのだ。そして、おそらくそれも時間の問題であった。
「功郁が降伏を申し出てきた」
「へぇ!」
一戦交えて明らかな負けを得るよりも、無傷のまま軍門に下ることを選ぶとは、功郁という男もなかなか賢明な判断ができると、蒼潤は単純に思った。
「椎郡城を明け渡し、貞糺も差し出すと言ってきている」
「ふ~ん。貞糺なんか今さらいらないけど、城を攻め落とす手間が省けて良かったな」
峨鍈が靴を脱いで階を上がった。
蒼潤の私室に入ると、中にいた呂姥と玖姥を下がらせて、蒼潤の体を牀の上に座らせるように下ろした。