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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
5.葵暦193年の初夏から194年の初夏 斉郡城 囚われの身
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1.甘い。甘い。

 

 蒼潤は身軽に地を蹴ると、振り向きざまに峨驕の剣を払った。

 剣術の練習用の木剣がくるくると回転しながら空を舞う。やがて、カランカランと軽い音を立てて転がるように地面に落ちた。


「さすが天連様だわ」


 階に腰を下ろしたりんほうが手を打ち鳴らして言った。

 この二人は仲が良く、いつ見ても一緒にいる。母親は違うが、髪を二つに分けてお団子を結った姿は、その顔立ちを含めて、なんとなく似ていた。

 まるで双子みたいだが、実際は琳の方がひとつ年上で、11歳だ。 


きょうを相手に勝って、そんな褒められると、居心地が悪い」


 なんせ蒼潤と峨驕は8つも歳の差があるのだ。

 悔しそうに下唇を噛み締めている驕を見やり、蒼潤は彼の頭をくしゃりと撫でた。


「天連様、次は僕の相手をしてください」

「ダメだ。もう一回、ぼくとやるんだよ」


 がんが驕が持つ木剣よりも一回り木剣を構えて言うと、驕が慌てて自分の木剣を拾いに走る。その後ろ姿を見送りながら蒼潤はニヤリと笑みを浮かべた。

 蒼潤が思うに、子供たちの中で見込みがありそうなのは、驕と頑だ。どちらも負けず嫌いで、蒼潤が打倒しても打倒しても、何度でも挑んで来る。そういうのが、蒼潤は嫌いではない。

 むしろ、彼らの今後が楽しみだと、わくわくしてしまうのだった。


 側室たちが斉郡城にやって来てから、直に三ヶ月が経つ。

 彼女たちは蒼潤が男だと知ると、その日のうちに態度を改めたため、蒼潤の姥たちと側室の侍女たちの確執はなくなった。

 この平穏を長く保つためには、蒼潤が率先して側室たちと交流を持つべきだという梨蓉の助言を受け入れて、蒼潤は北宮に側室たちを招いたり、蒼潤から西宮に足を運んだりするようにしていた。 


 蒼潤が嫁いでくるまで峨鍈の正室であった梨蓉は、蒼潤のことをよく理解してくれて、彼女が奥の事のいっさいを引き受けてくれている。

 先日も、季節が移り変わったからと新しい衣をつくってくれた。布地を買い求めるところから、誰にどの布地を与えるのかを決め、そして、峨鍈と彼女の子供たちの物はもちろん、蒼潤の衣まで仕立ててくれたのだ。


 ――子供たちのついでですよ


 そう言って微笑んだ梨蓉の瞳には、蒼潤の姿に別の誰かの姿が重なって映っているように思えたが、蒼潤はそれについて梨蓉に尋ねるようなことはしなかった。


「天連殿が子供たちと遊んでくれるので、とても助かっています」


 蒼潤が頑の相手をしようと木剣を構えた時、梨蓉の声が聞こえて視線を向ければ、彼女と嫈霞おうかが並んで回廊を歩き、こちらにやって来る姿が見えた。


 嫈霞は、えい夫人と呼ばれ、峨鍈の第三夫人だ。朋の生母である。

 彼女には朋の他にもうひとり娘がいて、ゆうという名なのだが、今年15歳になり笄礼けいれいを済ませているため、蒼潤の前にはめったに姿を見せなかった。

 時々、琴の音が聞こえてきて、柚の所在が分かる程度だ。


 梨蓉と嫈霞は、階に座っている琳と朋の近くで膝を折ると、抱え持っていた器を娘たちの前に置いた。


「さあ、果物を持ってきましたよ。みんなで食べましょう」


 わぁっと声を上げて、子供たちが木剣を投げ捨てて集まって来る。すぐに動かなかったのは驕と頑だけだ。

 もう少し剣術の稽古を続けたかったのにという顔をして、木剣を握り締めたまま渋々、歩いて来る。

 蒼潤も自分の木剣を腰紐に挟むと、琳と朋を真似て階に腰を下ろした。


「これで手を拭いてください」


 そう言って、嫈霞が濡れた布を差し出してくる。

 受け取って手を綺麗に拭くと、次に梨をひとつ差し出された。


「ありがとう」

「たくさん召し上がってくださいね」


 柔らかく微笑んだ嫈霞の顔が、どことなく自分の母親である桔佳きっか郡主に似ていると思った。

 だが、実際には蒼潤は桔佳郡主に微笑みかけられたことがないので、こんな風に微笑んで貰いたいという願望がそう思わせたのかもしれない。

 蒼潤は子供たちが次々に器の中の果物に手を伸ばす様子を眺めながら、嫈霞から受け取った梨にガブリと皮ごと齧りついた。


「天連様、それを食べ終えたら、またぼくと勝負してください」


 袖を引かれて蒼潤が振り返ると、驕がまだ木剣を握り締めている。

 階の下から上目遣いに言ってくる姿が可愛らしくて蒼潤は微笑むと、驕の頭をくしゃりと撫でた。


「分かったから、葡萄を食べろ。好きだろ?」

「うん」


 器に手を伸ばし、驕のために葡萄をひと掴みして、それを差し出すと、驕は蒼潤の手のひらから葡萄をひとつ摘まんで口の中に入れた。


「甘い」


 嬉しそうに顔を綻ばせる驕を見て、蒼潤も再び梨に齧りつく。驕に片手を差し出したまま梨を食べ終えると、梨の甘い汁が滴った手と腕に舌を這わせた。

 ねえねえ、と驕が蒼潤を呼ぶ。


「天連様、もっと葡萄を取って」

「ああ、うん」


 気付けば、蒼潤の手のひらから葡萄がなくなっていた。

 驕に請われて、果物の器に手を伸ばそうとした時だ。おいっ、と低い声が響いた。


「甘えるな。自分で取れ」


 回廊の先に視線を向ければ、峨鍈が明雲めいうん雪怜せつれい楓莉ふうりを連れてこちらに向かって来る。

 峨鍈は真っ直ぐ蒼潤のもとまで来ると、その手首を取って、引き上げるように蒼潤を立たせた。


「手がベタベタだな」


 言って彼は先ほど蒼潤が舌を這わせた手を自分の口元まで運ぶ。そして、ぺろりと舌を出して蒼潤の手のひらを舐めた。


「うわっ。なっ、なにすんだよ!」

「甘いな」

「殿もいかがですか?」

「いや、俺はこれで十分だ」


 これ、と言われたのは蒼潤の手で、峨鍈と淡々と会話をしているのは梨蓉だ。峨鍈が蒼潤の手や腕に舌を這わせているのを、にこにことした顔で見つめている。

 蒼潤としては、にこにこしていないで峨鍈を止めて欲しいところだ。

 救いを求めるように嫈霞にも視線を向けたが、彼女は口元を片手で押さえて、ふふふっと笑っている。


(ダメだ、嫈霞にも期待できない)


 そうと分かると、蒼潤は更に視線を漂わせた。

 明雲、雪怜、楓莉の3人は峨鍈の寵を失いたくないため、峨鍈のやることに口出しできないだろう。

 ならば、と子供たちを見やれば、彼らはみんな果物を食べるのに必死だ。

 ただひとり、驕のみが不貞腐れたように頬を膨らませて、じっと父親をめ付けている。


「もうやめろ。離せ」


 心底、嫌だと思いながら低く声を響かせれば、峨鍈は蒼潤の手に舐めるのをやめたが、そのまま手を握って言った。


「室の中で話そう」


 峨鍈の力が強くて、その手を振り払えそうになかったので、仕方がなく蒼潤は峨鍈に従って梨蓉の私室へと移動した。


 梨蓉が侍女に命じて、峨鍈や蒼潤、側室たちに飲み水を振舞う。

 子供たちは再び中庭で遊び始めたようで、外から楽しそうな声が聞こえてきた。

 蒼潤としては、峨鍈の隣に座らされているよりも子供たちと遊んでいた方が楽しいのに、なんだって峨鍈や側室たちと一緒に室の中にいなければならないのか、まるで分からなかった。


 女たちが腰を落ち着かせたのを見て、峨鍈が口を開く。


「柚を子則しそくに嫁がせようと思う」

大哥あにうえに!?」

「なんだ、不服か?」

「いや、そうじゃなくて。驚いただけだ」


 子則とは夏範のあざなだ。夏範は夏銚の長男で、蒼潤が扮する夏昂の優しい兄である。

 夏範の穏やかな表情を脳裏に思い浮かべて、蒼潤は口元に片手を添える。手には梨や葡萄の甘い香りが残っていて、自分でも舐めたし、峨鍈にも舐められたが、まだベタベタとしていた。


「嫈霞、どう思う? お前の娘の話だ」


 峨鍈に視線を向けられて嫈霞は薄く微笑み、受けた視線を流すように蒼潤を見やった。


「天連様は夏殿をよくご存知ですよね? どのような御方ですか?」

「大哥は良い男だ。嫁げば絶対に柚を大切にしてくれる」

「天連様がそうおっしゃるのでしたら、私からは何もございません。よろしくお願いいたします」


 嫈霞が深々と頭を下げたのを見て、峨鍈が己の膝を叩いた。


「よし、決まりだな。支度を始めてくれ。婚姻は来年だ」

「まだ時間があるんだな」


 どこかホッとした思いで呟くと、そんな蒼潤を峨鍈がちらりと見やる。

 思い返せば、自分は14歳で、慌ただしく笄礼を済ませ、きちんとした支度が整わないうちに峨鍈と婚礼を挙げてしまった。

 もっとも偽りの婚礼なのだから、きちんとした支度など必要はなかったのだろう。


 承りました、と梨蓉と嫈霞が峨鍈に向かって応え、うむと彼が頷いた。そして、口元に水の入った器を運び、峨鍈は、ふと思い立ったようにその手を止める。


「そう言えば、お前たちにはまだ見せていなかったな」


 何をだ、と蒼潤が思ったのと同時に楓莉が高い声を響かせた。


「あら、何をですか?」


 側室たちの中で一番若い彼女が興味を惹かれた様子で身を乗り出すと、峨鍈はニヤリと笑みを浮かべて、彼女に答える。


「面白いものだ」

「まあ、何ですか? 見たいです」

「見せてくださいな」


 瞳を輝かせる楓莉に対抗するように明雲も雪怜も峨鍈の方に身を乗り出す。

 潤、と峨鍈に呼ばれて、蒼潤は嫌な予感がした。顔を強張らせた蒼潤に峨鍈の手が伸ばされる。

 何をするつもりか分からないが、とにかく逃げようと身を縮めると、蒼潤の髪を高く結い上げていた髪紐をするりと峨鍈に奪われた。

 ばさりと髪が下に流れ落ちて広がり、蒼潤の肩を隠す。そして、峨鍈は蒼潤の髪をひと房、手に取った。


「おい。俺は見世物じゃないぞ」


 峨鍈が何を側室たちに見せようとしているのか、蒼潤には分かった。

 うろんな目で彼を見やれば、彼は片手を振って侍女たちを下がらせると、ニヤニヤしながら器の水の中に蒼潤の髪の毛先を浸した。




 





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