8.俺を恐れる必要なんてない
(イライラする)
余計なことに囚われている気がして仕方がなかった。
(嫌だな。うわーっ、嫌だなぁ)
生来、悩むには向かない頭を持っている。
いつまでもぐずぐず考えているのは、心底、苦手である。
とにかくスッキリさせたくて、蒼潤は芳華を呼ぶと、着替えを手伝わせた。
紺藍色の裙に、天色の深衣と白縹色の深衣を重ねて纏う。髪は結い上げ、竜胆の花を模した簪を挿す。
それだけでは華やかさに欠けると、芳華が言うので、金細工の髪飾り挿した。
眉を描き、紅を差して、瑠璃の耳飾りと翡翠の腕輪をつける。
最後に両肩から左右に領巾を垂らして、どこからどう見ても少女に、そして、郡主らしく見えるように着飾ると、蒼潤は姥たちに振り返った。
「徐姥、董夫人のもとに使いを出してくれ。これから伺う、と」
承りましたと徐姥が室を出て行った後、残った呂姥と玖姥に視線を向ければ、二人は床に跪いて物言いたげに蒼潤を見上げる。
「天連様……」
「もはや、お前たちに任せておくことはできない」
「ですが、天連様っ!」
すっと片手を掲げると、長い裾がその動作に従いサラリと流れ、高く結い上げた髪の横で、しゃらしゃらと簪に連なった珠が鳴る。
言い淀んだ玖姥と呂姥を、つと目尻に朱を入れた眼で一瞥すると、彼女たちはグッと言葉を呑んだ。
「これ以上の醜い争いは無用だ。見るに耐えられない。俺が詫びを入れれば済む話であっただろうに」
さっと裾を引いて足を踏み出す。
行く、と短く言い放つと、蒼潤は姥たちと芳華を従えて梨蓉の私室へと向かった。
梨蓉の私室に足を踏み入れると、すでに他の側室たちも梨蓉の室に集まっていて、中にいた女たちが一斉に身動いた。
ざわめきを受けながら蒼潤は真っ直ぐに室の奥へと向かい、用意された敷物の上に腰を下ろした。
姥たちも蒼潤の傍らに座すと、どこからか、ひそひそと囁く声が聞こえる。
蒼潤はそれらには目もくれず、自分と向かい合うように座った女に視線を向けた。
(あっ)
あの時のあの女性だと思って声を上げそうになり、蒼潤はぐっと唇を引き結んだ。
数日前、峨鍈の子供たちと遊んだ時に姿を現した女性こそが、董梨蓉だったのだ。
彼女も蒼潤の姿を見て、はっとしたような表情になる。
しかし、すぐに表情を引き締めて、今こそが初対面であるかのように蒼潤の前に座していた。
見れば見るほど、力強ささえ感じるような凛とした美しい女である。
峨鍈から彼女の話を聞いた時、早く会ってみたいと思った女が、今、目の前にいるので、蒼潤は押し黙ったまま彼女を見つめた。
(あいつ、こういう女が好みなのか)
次に梨蓉の後ろに座した女たちに視線を向けた。
華やかに着飾った彼女たちは側室たちだ。それぞれ異なった美しさを纏っているが、皆、意思の強そうな瞳をしている。
なるほど、と思って、蒼潤は僅かに瞳を伏せた。
峨鍈は細身の女を好む。だが、たおやかなのは見た目だけに留め、自分の意思を持った強い女が好きなのだ。
例えば、夫が2年も放っておいても自分たちだけで家族を守れるような女を妻に望んでいる。
その結果、気が強そうな女ばかりが集まっていた。
梨蓉の侍女が水を注いだ器を運んできた。
差し出された青磁の器を受け取って、ひとくち水を口に含むと、蒼潤は梨蓉に視線を向けた。
察して、梨蓉が手を打ち鳴らす。それを合図に侍女たちは皆、室を出て行き、徐姥のみが蒼潤の後ろに残った。
それから、ようやく蒼潤は紅を塗った唇を開いた。
「わたしが互斡郡王の子、深江郡主である」
高く声を響かせ、目尻に朱を入れた眼で見据えれば、梨蓉がゆっくりと、そして、優雅に頭を下げる。
「董蓮。字は、梨蓉と申します。郡主様におかれましては、私の室にお越し頂き、恐縮でございます」
「先日は、そちらから訪ねて来られたのに無礼申し上げた。許して頂きたい」
「とんでもございません」
梨蓉が微笑んだので、蒼潤はわずかに顔を緩めた。そして、彼女の後ろに控えている女達に目を向けた。
梨蓉がひとりひとり名を呼んで紹介する。
「こちらが第3夫人の栄夫人。その隣が第4夫人の怏夫人。そして、第5夫人の羅夫人。第6夫人の楊夫人」
名を呼ばれ、彼女たちは流れる動作で蒼潤に向かって礼をした。
ただ、頭を下げるだけの動作だ。それなのに、どうしてと思うほど、その所作は美しい。
彼女たちの挨拶が終わり、視線が自分に集まったことを感じて蒼潤は再びゆっくりと口を開いた。
「先に無礼を働いたのは、わたしだが、わたしは郡主で、正室だ」
言いたいことが分かるか、と蒼潤は側室たちを順に見渡した。
「よもや、侍女が独断でやったことだとは言うまいな。もしそうであるなら、侍女の管理をしっかりしろ」
側室たちの頭が下へ下へと下がっていく。
おそらくこれで蒼潤の周囲で起こった啀み合いは緩和されるだろう。
だが、けして、なくなりはしない。それは一人の男に嫁いだ女達の性なのだから仕方がない。
一人の男の寵だけを頼りに女たちは争い、奪い合う。
子を授かれば、その子の将来を生き甲斐にする。――そういうものなのだ。
だが、そうだと言って、それらに自分までもが巻き込まれるなど、まっぴらだった。
自分は峨鍈の正室だが、女ではない。
彼の力を利用するために、彼の正室に甘んじているだけだ!
蒼潤はその場ですくっと立ち上がった。しゃらしゃらと耳元で簪が鳴る。
女たちを順に見下しながら、静かに静かに言葉を放った。
「女という生き物は、実に難儀だな」
だが、理解はできる、と続けて蒼潤は己の襟元に手を掛けた。
「お前たちは伯旋の妻だ。彼の寵を失えば、存在意義を失う。だから、わたしを恐れた。郡主であるわたしを。伯旋が焦がれ、欲した血を持っている俺を恐れたんだ。わたしに対する嫌がらせは不安の表れなのだろう。寵を失うかもしれない、生きている意味を失うかもしれないという」
――高い塀の中に一生閉じ込められ、ただ息をして生きているだけの忘れられた存在になるかもしれない。
彼女たちにとって、夫の寵を失うということは、そういうことだ。
蒼潤は頭を左右に振った。簪が鳴る。うるさい、と思った。
男ならば、こんな物、着けたりはしない。 ――そう男ならば。
(俺は男なのだ!)
蒼潤は己の襟元に両手を添える。
「だが、わたしはお前たちの脅威にはなり得ない」
そして、蒼潤は思いっ切り襟を左右に開いた。
バサリ、と衣が落ちて、息を呑む音が響く。
「わたしを恐れる必要なんてない」
梨蓉が色を失った顔で蒼潤を見上げている。 他の側室たちも言葉なく、蒼潤を見上げていた。
「わたしはお前達と伯旋の寵を争う気はない。――俺は男だ」
「蒼夫人……」
「天連で構わない。いや、むしろ字で呼んで貰いたい。俺は形ばかりの伯旋の妻で、真実、俺は一度たりともあいつの女になったつもりはない。俺は男で、いずれ玉座に着く者だ!」
▽▲
とんだ暴れ馬でございますね、と梨蓉が言って峨鍈の盃に酒を注いだ。
先日、梨蓉の機嫌を損ねてしまい、この数日は毎夜、梨蓉の私室を訪れていた。
――郡主様にお会い致しました。昂と名乗っておられました。どういうことでしょうか?
にこにこと笑みを浮かべながらも、冷ややかな目付きで問い質して来た梨蓉に峨鍈は大いにたじろいだ。
「思い付いた名がそれだった。大切なものには大切な名をつけたい」
峨鍈がそう答えると、梨蓉の瞳がみるみるうちに潤み、溢れた涙が頬を伝った。
梨蓉は最初の子を2歳で亡くしている。峨鍈が昂と名付けた息子で、生きていれば、奇しくも蒼潤と同い歳だっただろう。
「殿は、あの子のことなど既に忘れてしまっているのだと思っていました」
「まさか忘れるわけがない。あの子は俺にとっても最初の子だった。俺の血を分けた最初の息子だ」
「あの方が琳と驕に昂大哥と呼ばれ、子供たちと遊んでいたのです。その姿を見て、私は胸が張り裂けそうになりました。しかし、今の殿のお言葉を聞くことができて、私は幸せでございます」
そうして梨蓉が両手で顔を覆って涙したのは、先日のことだ。
今夜の彼女は、どこか面白がっている様子を見せて、峨鍈に勧められた盃を啜るように酒を呑んでいる。
「殿に頼まれましたので、あの方の秘密を守ろうとしたのですが、私が口を挟むよりも先にあの方が自ら衣を脱ぎ捨ててしまったのです」
蒼潤ならばやりそうだと峨鍈はため息をつく。
「あの方は、いずれ玉座に着くとおっしゃっておりましたが……。殿もそのおつもりなのでしょうか?」
「……」
「殿はてっきり……」
「梨蓉」
それ以上言うなと峨鍈は彼女の字を口にする。
今はまだ、峨鍈はそれに触れられたくなかった。
蒼潤は玉座を望んでいて、峨鍈がそれを与えてくれるものだと信じている。
だが、峨鍈は可能な限り長く蒼潤を自分の両腕の中に閉じ込めておきたかった。
――このままではいずれ袂を分かつ時が来る。
蒼潤は龍だ。帝位継承を持つ郡王であり、青王朝の玉座に座ることを許されたごく僅かな者のうちのひとりである。
峨鍈の下には付かないだろうし、峨鍈もまた誰の下にも付くつもりはない。 己の手で掴み得るすべてのものを望んでいる。
負ける気はしなかった。
蒼潤はあまりにも幼く、弱い。浅はかで、己を知らな過ぎる
その時が来た時に地に伏せるのは、おそらく蒼潤だ。
自分の剣が蒼潤の体を貫く光景を想像して、峨鍈は無性に胸が苦しくなった。
(――やめよう。まだ来てもいない時のことを考えるのは)
峨鍈は盃を飲み干し、それを膳の上に伏せた。そして、名残惜しそうにその盃を眺めてしまう。
やめよう。やめようと思いつつも、峨鍈はどうしても考えてしまうのだ。
はたして蒼潤は、自分が己の手で掴み得るもののひとつになるだろうか、と。
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