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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
4.葵暦193年の春 併州斉郡城 側室たち
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5.女たちの争い


「どのようなことでしょうか」

「その前に言っておくが、俺が安らげるのは、梨蓉、お前のもとだけだ」

「まあ」


 梨蓉が表情を和らげ、彼女にしては高い声を上げた。

 けして彼女のご機嫌取りのための言葉ではなく、心に抱いていることを素直に口にしただけであったが、結果的に梨蓉を喜ばせることができたようだったので、峨鍈は調子に乗って更に言葉を続けた。


「他の側室たちと過ごすのも、それなりに楽しいが、お前のもとに戻った時にだけ『帰って来た』という想いがする。お前は本当に良い女だ」

「他の方の話は余計でしたね。口にされない方が良かったです」

「いや、聞いてくれ。お前と離れていたこの2年間、俺はずっと安らいだことがない。特に、あの郡主だ。あいつのことを想い、あいつと過ごしていると、妙に胸がざわついて心が掻き乱されるのだ」

「……」

「その姿が目に見えれば気が散るし、見えぬところに置けば、どうしているのかと不安になる。遠ざけるべきか、常に傍におくべきか、じつに悩ましい」

「…………」

「あの姿を見ると、揶揄いたくなって堪らない。先程も言うつもりがなかったことを、ついつい口にしてしまい、しまったと思う反面、あいつの青ざめた顔を見て、どうしようもなく気持ちがたかぶってしまった」

「………………殿、一回、口を閉ざしましょうか」


 にっこり笑顔を凍り付かせて、梨蓉は冷ややかに言った。

 峨鍈は言われた通りに、ぐっと唇を引き結び、それから、己の額を両手で覆って背中を丸める。


「殿……」


 梨蓉が気遣わしげに峨鍈の背中に片手をそっと添えてくる。

 峨鍈は、はぁ、と大きくため息をついた。それから、ゆっくりと顔を上げると、重々しく口を開いた。


「俺が妻に迎えた深江郡主は、男なのだ」

「……えっ」


 梨蓉は瞳を見開く。おそらく聞き違えたと思ったに違いない。

 峨鍈は彼女の美しく整った顔を見つめながら、ひとつひとつの言葉を置いていくように、はっきりとした口調で語った。


「蒼潤。――天連と俺があざなを与えたのだが、天連は生まれる前から命を狙われていて、郡主としてでなければ到底生き延びることができなかったのだ」


 梨蓉の瞳が薄闇の中で左右に揺れ動く。

 彼女にしては珍しく動揺し、戸惑っている様子が峨鍈の目に映った。


「なぜ、殿は男の身である郡主様を娶られたのですか? たしか、互斡王には他にも娘がいたはずです」

「深江郡主が龍だったからだ。梨蓉、お前にも見せてやりたい。天連の髪は青く輝くのだ。あの輝きを目にしてしまったら、誰もがあいつを手に入れたいと望むはずだ」

「髪が青く?」

「俺はあいつを手に入れたいのだ。確かに娶ったが、手に入れられたという気がまったくしない」


 知らず知らず峨鍈は拳を堅く握っている。


「どうすれば手に入れられるのか、どのような状態を手に入れたとするのか、それが俺には分からんのだ」

「殿……」

「梨蓉、お前に頼みたい。深江郡主が男であることを外に漏れぬようにして欲しい。会えば分かるが、非常にやっかいな奴だ。奥に閉じ込めていくことができん」

「ああ、それであのかんぬきなのですね」


 梨蓉が腑に落ちたようにパッと顔を上げて言った。

 

「誰にも会わせぬように奥に閉じ込めておければ秘密は守れるのだが、あいつは塀を越えて抜け出すのだ。それから、石塢せきうの息子として調練に参加している」

「えっ……調練にですか?」

「やっかいだろう?」

「なぜそのようなことに?」

「いろいろとあったのだ。――梨蓉、お前には負担をかけてしまうかもしれないが、あいつのことを頼む」

「そのいろいろとやらを聞かせて頂きたいものです」


 仕方がないですね、とでも言うように梨蓉は苦笑を浮かべ、承りました、と峨鍈に向かって頷いた。



 △▼



 大気を切り裂いたような悲鳴で蒼潤は目覚めた。

 寝惚けた頭でも分かる。悲鳴の主は、乳姉弟ちきょうだい芳華ほうかだ。

 慌てて牀榻から飛び出し、帘幕たれまくをめくり上げて隣の室へと駆け込むと、そこで蒼潤は思わず言葉を失った。

 辺り一面、真っ赤である。室の中に大量の血液がぶち撒けられていた。


「これは……?」

「天連様……」

「いったい、どうしたんだ?」


 へたり座っている芳華に駆け寄ると、芳華は涙目を蒼潤に向けて来る。

 室を見渡せば、床も壁も家具も何もかも、血で汚れていた。

 しばらくして徐姥たちがやって来て、蒼潤と同様に息を呑む。玖姥が地団駄を踏んで言った。


「やられましたわ、天連様」

「やられた? 誰の仕業か分かっているのか?」

「ええ。もちろんです。側室たちに決まっています!」

「側室たち?」

「側室たちの挨拶を断った天連様に対して嫌がらせをしてきたのです」

「それにしたって、これは酷い」

「ええ、酷いです。隣の室がこんな有様なのに、天連様はよく気が付かずに眠っていらっしゃいましたね」

「なぜそこで俺を責めるんだ。寝ていたんだから気付かなくても仕方がないだろう」


 むっとして言えば、その通りです、と徐姥がぴしゃりと言い放つ。


「これは私たちの落ち度です。これまでは北宮の門には閂が差されていて、外の者が入って来ることはありませんでした。そのことに、すっかり油断して天連様の室の警護を怠ってしまいました」

「ずっと夜は殿がご一緒でしたから、お側に控える必要がありませんでしたし」

「今後は代わる代わる寝ずの番をする必要があります」


 えー、と蒼潤は声を上げて姥たちを見渡した。


「そんなの大変じゃん。お前たちが疲れてしまう。とりあえず、また門に閂を差せばいいんじゃないのか? 今までは門の外で閂をしていたけど、それだと意味がないから、内側で閂を差せばいいじゃん」

「いけません。殿が来られるかもしれません」

「来ても門が開かなくて、俺は万歳だな」

「天連様!」

「とにかく、生臭くて堪らないから、掃除しようよ。俺、何をしたらいい?」


 天連様は……と言って呂姥が中庭を指差して、にっこりとする。


えんと中庭で遊んでいてください」

「……」


 すぐに甄燕が呼ばれ、彼は蒼潤の室の様子を目にして、ぎょっと顔を強張らせた。


「いったいどんな恨みを買ってしまったんですか?」

「俺にはよく分からない」


 どうしてだろうか? と芳華に視線を向けると、芳華は困ったように眉を寄せて言った。


「実は、側室方から再三に渡って、ご招待を受けているのです」

「んん? どういうこと?」


「昨日も、その前日にも、楊夫人や羅夫人、怏夫人、栄夫人からの使いがやって来て、それぞれご自身の私室に天連様を招きたいと。でも、呂さんも玖さんも、正室の天連様が側室のもとに行くなんてあり得ないことだと言って、使いの者を追い払ったのです」


「なるほど。だけど、なんでそれを報告しなかったんだ。側室たちから使いが来ていたなんて聞いていないぞ」

「天連様が気になさることではありませんので!」


 きっぱりと言い放ったのは、芳華ではなく、掃除のための水桶を運んでいた玖姥だった。


「側室たちのことは私たちに任せてください」

「けどさー」

「さあ、燕。天連様を外に連れ出して。今日は調練がないのですか?」


 手早く着替えさせられ、回廊に押しやられる。

 ――と、そこに呂姥が鶏の死骸を大きな布に包んで両腕に抱え、室の奥から出て来た。

 なるほど、室の中にぶち撒けられた血は鶏のものだったようだ。

 室の隅にその死骸が転がっているのを呂姥と徐姥が発見して、呂姥がどこかに運ぼうとしていたので、蒼潤は思わず呼び止めた。


「それ、貰っていい?」

「どうなさるのですか?」

「柢恵のところに持って行こうかと」

「持っていってどうするのですか?」

「食べるに決まっているだろ」

「食べるのですか!?」


 やられた腹いせに柢恵に対して嫌がらせをするのかと思った、と失礼なことを蒼潤の隣で芳華が言う。

 違うと言うと、芳華はホッとしたような表情を浮かべた。

 そして、呂姥が改めて本当に食べるのかと聞いてきたので、 蒼潤は、うん、と頷いた。


「食べなきゃ、鶏が可哀想だ。よく血抜きされているから味は悪くなっていないと思う」


 もったいないじゃないかと言わんばかりの蒼潤に、芳華も呂姥も呆れ、甄燕は諦めた表情を浮かべている。

 蒼潤に代わって甄燕が呂姥から鶏を受け取ると、蒼潤は柢恵を訪ねて、孔芍の執務室に向かった。


 幸い、孔芍は不在で、柢恵だけが室にいる。

 そして、これは幸いなのかどうか分からないが、柢恵は文机に突っ伏して居眠りをしていた。

 蒼潤は気持ちよさそうに眠る柢恵の体を揺すって、その寝惚けた顔の前に鶏を突き付けた。


「喜べ! 土産持参してきたぞ」

「生臭い」

「生だからな」

「眠い。寝かせてくれ」

「嫌だ。焼いて一緒に食べよう」

「お前、鶏を捌けるのか? そのまんま焼くなよ。あと、塩もふってくれ」


 言葉は返って来るが、柢恵はまだ文机に顔を埋めている。

 蒼潤は、むーっと頬を膨らませて、鶏の嘴で柢恵の頭を突っついた。


「俺はできないから、燕が焼く」

「天連様、俺がやるより厨房くりやに持って行った方が無難です」

「そうだ。そうしろ。お前らがやるより、その方が安心して食える」

「失礼だなぁ。せっかく目の前で焼いてやろうと思ったのに。燕が」

「俺、厨房に行ってきますね」


 さっと甄燕は蒼潤から鶏を奪い取ると、踵を返して回廊に出て厨房の方へと駆けて行った。

 蒼潤は文机を挟んで柢恵と向き合うように床に胡坐を掻いて座った。


「なあ、阿恵あけい


 親しみを込めてそう呼ぶと、柢恵が顔を横に向けて、ちらりと蒼潤の方を見る。


「女って、面倒臭い生き物だな。見ていると、ひどく疲れるんだ。――どうして、たったひとりの男の寵愛を得るために、そこまで躍起になるのかなぁ。競い合って、争って、啀み合って……」






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