2.青龍の末裔
平時であれば、心に願うことさえ憚るような縁談を、峨鍈が互斡郡王に対して打診したのには、些か奇異な経由があった。
互斡郡王――蒼昏は、胡帝の長子で、かつて皇太子であった人物だ。
そして、政敵に陥れられた蒼昏が皇太子の地位を廃され、命さえ奪われそうになった時に、床に這いつくばって胡帝に懇願したのが、峨鍈の祖父――峨旦であった。
――第一皇子をお助けください。皇后様がお産みになった皇子は、第一皇子のみでいらっしゃいます!
元より胡帝には蒼昏を死なせるつもりはなかったが、後宮では蒼昏の政敵である恙貴人が絶大な力を持って政にも口を出すようになっていたため、胡帝はこれを表立って抑えることができず、峨旦の懇願を受け入れたという態で、蒼昏を冱斡郡王に封じ、大勢の護衛をつけて妻子と共に渕州冱斡国に送ったのだった。
つまり、峨鍈の祖父は蒼昏の命を救ったことになっている。その縁を頼って峨鍈は蒼昏に文を送ったのだった。
――とは言え、峨鍈も最初から蒼家の娘を娶ろうとなど大それたことを考えていたわけではない。瓊家に対抗できる家柄の娘であれば、どこの娘でも良いと考えていた。
ところが、名門と謳われる家は皆、宦官の孫との縁談など鼻で嗤って相手にもしなかったため、ならば、いっそ蒼家の血を得て、自分を嗤った者たちを見返してやりたいと峨鍈は考えた。
そして、祖父のつてを辿り、まず何人かの県王に文を送った。
県王とは、皇族の中でも郡主以外の側妃が産んだ皇子のことである。
青王朝において皇帝は、郡主の中から皇后を立てて、その皇后が産んだ皇子は郡王に封じられる。これに対して、郡主以外の側妃が産んだ皇子は県王に封じられた。
また、郡主とは、生母を郡主とした皇太子の娘や皇帝の姉妹、或いは、皇帝の兄弟の娘に与えられる称号である。
皇后が産んだ皇帝の娘のみ公主と呼ばれ、郡主の側妃が娘を生めば郡主、郡主以外の側妃の娘は県主と呼ばれた。
郡王は郡主から王妃を選び、その王妃が息子を産めば、その息子も郡王に封じられるが、郡主以外の妻が産んだ息子は県王となる。県王の息子以降は、蒼姓を名乗ることは許されても、県王には封じられないが、郡主が産んだ郡王の息子は何代進もうと、郡王に封じられた。
このように別格とも言える蒼家に対して、峨鍈が送った文はひとつも返事をもたらさなかった。
致し方がないことだと思いつつも、蒼家の血がどうしても欲しいのだと峨鍈がぼやくと、その時には既に病床にあった祖父が聞き付けて、峨鍈を枕元に呼ぶと、思い出したかのように話し出した。
「――今の皇帝陛下は、龍ではない」
東洋の王朝において、皇帝や王を龍に例えることはよくある話だ。
だが、峨旦が大真面目に語り始めた話は峨鍈の度肝を抜くような内容だった。
「蒼家が別格なのは、彼らが龍の子孫だからなのだ。それも風雨を司る青龍の子孫だ。そして、正統な血筋の皇子は、――つまり、郡王は髪が青い」
「青い? 青い髪など見たことがありません」
「普段は黒いのだ。陽の光に照らされると、青く見える時がある」
「見間違えでは?」
「決定的なのは、髪を水に濡らした時だ。濡れたところから、はっきりと青く色が変わる」
「まさか! 信じられません」
思わずといった様子で峨鍈が声を大きくすると、峨旦は細い眼をさらに細めて言う。
「わしは先帝のお世話をしたことがある。当然、沐浴のお世話もした。その時にこの目で見たのだ。湯で濡れた先帝の髪が青く変わったところを。ところが、わしがお仕えした皇子は――今の陛下のことだが――あの方の髪は青くならなかった」
「では、先帝のみの特徴だったのではないですか?」
「いいや、互斡郡王の髪も青く変わったのを見たことがある。そこで、わしは調べたのだよ」
峨旦は溺愛する孫にニヤリと笑ってみせた。
「我が国の皇后には必ず蒼家の娘が――それも郡主が選ばれる。お前も知っての通り、古来より天下は同族不婚だ。姓を同じくする男女が婚姻を結ぶことを禁忌としてきた。ところが、これは蒼家を例外とし、皇帝は、先の皇帝の兄弟の娘、つまり皇帝の従姉妹である郡主を皇后として迎えてきた。そして、皇帝の兄弟の正妃にも必ず郡主が選ばれる。龍の血を保つためだと考えれば、納得できる話だと思わないか?」
「龍の血って、本当なのですか?」
峨鍈は未だ祖父の話を半信半疑に耳を傾けていた。
第一、祖父の作り話のような昔話から自分の活路が見出せるとも思えない。峨鍈は半ば祖父への孝行だと思って、祖父の相手をしていた。
峨旦はそんな孫の心の内などお見通しだとばかりに、ニヤニヤと笑みを浮かべて話を続ける。
「かつて、東の果てにクムサという国があった。その国では王族が天に祈らなければ雨が降らなかったという。王族は河伯の子孫であり、河伯とは青龍のことだった。クムサの王族は、青龍の力を失わぬように近親婚を重ねていたらしい。そして、青龍の力が他国に渡らぬよう、王女はけして他国には嫁がなかったという。さて、我が国の前身は、トガム国だ。――これは知っておったかな?」
「はい。存じておりますよ、おじじ様」
「トガム国はクムサ国を取り込もうと、幾度も攻め入っている。そして、ついにクムサ国を滅ぼし、王族男子は皆殺しに、王族女子は皆、トガム国に連れ帰った。――最後のクムサ王には、ふたりの娘がいた。王女たちは、巫女の一面を持った、それは美しい娘たちだったようだ。そして、彼女たちは青い髪を持っていた」
「青い髪ですか……」
峨鍈は祖父の話の結末が分かったような気がして、祖父の言葉を繰り返すように呟いた。
「姉王女はトガム王を篭絡し、王の側妃となり、妹は王弟の妃となった。他の王族女子もそれぞれトガムの王族に嫁ぎ、やがて、姉王女の息子がトガム王になり、妹王女の娘が王妃となった。その王と王妃の間に生まれた子供たちは髪が青かったという。――こうして、トガム国の王族は河伯の子孫となり、国名を『青』と改めた」
国名を改めた時に、姓を『蒼』とし、歴を『葵暦』に改め、皇帝を称している。
東のクムサ国を滅ぼした後に北方と西方に勢力を伸ばし、広大な国土を手に入れたため、皇帝を称するのに何ら不足もなくなったからである。
「クムサの姉王女は長命で、後宮において長く権力を振るい続けた。そのため、皇后にはクムサの王族の血を継いだ娘しかなれず、クムサの王族女子は皆、トガムの王族に嫁いでいるため、結果、蒼姓の娘でなければ皇后になれないという法ができたのだ。さらに皇后の産んだ皇子でなければ皇帝にはなれないという法もできたが、これは皇后が必ず皇子を産めるとは限らなかったため、やがて廃された」
だが、と峨旦は、ここが重要なところだと言わんばかりに人差し指を立てた。
「郡主が産んだ皇帝は『龍』だが、それ以外の妃が産んだ皇帝は『龍』ではないと、はっきりと区別されている。そして、『龍』ではない皇帝は一代限りで、『龍』に玉座を譲らねばならない。『龍』か、『龍』ではないかは、髪の色で分かる。おそらく、あの青い髪は郡主から子に伝わってくるものなのだろう。同じ皇帝の子であっても、郡主が産んだ皇子でなければ、髪は青くならないのだ」
「髪が青くなれば、確実にクムサ王族の子孫です。結局、トガム国はクムサ国を滅ぼしたが、クムサの王女に帝国を乗っ取られたというわけですね」
「そういうことだ」
そこで峨旦は一度言葉を切って沈黙した。トガム国だのクムサ国だの、それらの国々が存在したのは400年以上前のことだ。
真実、トガム国がクムサ王族に乗っ取られていたとしても、それについてあれこれ思うことはない。
そんなことよりも問題は、龍か否かの方だと峨旦も峨鍈も承知していた。
「今の皇帝の母君は、先帝の貴人だった」
恙釜の妹の恙貴人のことだ。今は息子を帝位に着かせ、恙太后と呼ばれている。
「恙太后を見ていて、わしは分かったのだ。龍ではない者は龍を殺そうとするが、龍は龍を殺さない。――故に、わしは先帝に第一皇子の命乞いをしたのだ」
龍が、クムサ王族を祖とする者たちのことであるのなら、共に帝国を乗っ取っている仲間である龍を龍は殺さない。龍を排除しようとするのは、龍ではない者――つまり、クムサ王族の血を受け継いでいない、或いは、その血が薄まってしまった者たちである。
「さて、鍈よ。ここにお前の活路があると、わしは考えるのだが、どうだろうか? わしは第一皇子――冱斡郡王の命の恩人だ。冱斡郡王には王妃が産んだ娘が3人いると聞く。もちろん王妃は蒼家の娘で、桔佳郡主だ。3人の娘たちも郡主であり、つまり、龍を産む。龍の揺籃だ。本来ならば、宦官の孫になど手の届かぬ方々だが、恩人の孫であるお前を、よもや冱斡郡王は門前払いをしないだろう」
祖父の眼光が怪しく輝く様を峨鍈は冷静に見つめる。
胡帝、そして、礎帝の御代において権勢を振るった祖父は半月前から病床にあった。
臥牀に横たわった体は、いつの間にか骨と皮だけのまるで枯れ枝のような有様になっている。
きっと死期を悟ったのだろう。祖父が最後の贈り物として話して聞かせてくれたことを、峨鍈は無駄にするつもりはなかった。
峨鍈はさっそく互斡郡王に文をしたためる。その返事が届いたのは、祖父が亡くなった翌年の早春のことだった。
【メモ】
クムサ国が滅びるのは、『馨る水の王国』のヨンジュたちよりもずっと後のこと。
クムサの王族は、雨を降らせる力を使うと、髪が青くなる。
蒼家の郡王は、陽の光に照らされると青く見えたりする。水に濡れると、はっきりと青くなる。
クムサの王族は、クムサの地のみで雨を降らすことができる。他の土地では雨は降らせることができない。
蒼家の郡王には、雨を降らせる力はないはず……。旧クムサの地に行けば、降らせるかも?