2.側室たち来たる
「昂は調練に行くぞ」
「はい、爸爸!」
蒼潤は、ぱぁっと顔を輝かせる。
もちろん調練に参加できることも嬉しいのだが、それよりも蒼潤は夏銚の注意が自分に向いたことが嬉しい。
「でも、その前に今のをもう一回やってください。もう一回!」
振り回された体が、ふわっと空に浮く感覚が堪らなく楽しくて蒼潤は、ひしっと夏銚の太い腕にしがみ付く。
「爸、ぶん回してっ!」
「まったく。お前は仕方がないヤツだな」
夏銚は、ふんっ、と言ってその腕を振り回しながらその場で回転した。
あはははっと笑い声を上げる蒼潤を、柢恵が信じられないものを見たという表情を浮かべる。そして、徐々に距離を取るようにしてその場を離れ、やがて孔芍の執務室がある方へと駆けて行った。
柢恵の背中を見送って夏銚が蒼潤の足を地面に下したが、蒼潤はまだ夏銚の腕にしがみ付ていた。
初めて夏銚を見かけた時から、如何にも強そうな彼に蒼潤は憧れていて、逞しくて大きな体躯も、厳つい顔も、割れたようなガラガラ声も格好良いと思うし、そんな彼が自分を息子として扱ってくれることが嬉しくて堪らない!
夏銚が本当に自分の父親であったのなら良かったのに、と蒼潤は思う。
夏銚の血を受け継いだ息子であったのなら、もっと一緒にいられただろうし、もっといろんなことを彼から学べたはずだ。
それに、彼の実の息子である夏範のような逞しい体を手に入れられたに違いない!
夏範が羨ましいと思いつつ、夏範ならばけしてやらないであろう甘え方を蒼潤はする。
「爸爸、今日は弓を見て」
「ん」
「もっと遠くまで射られる強い弓が欲しい」
「強請りたい物があるのなら、殿に言えばいい」
「えー、あいつはダメだ。面倒臭いんだよ」
「面倒臭い?」
「もっと可愛く強請れとか、媚びてみろとか、意味が分からないことを言ってくるんだ」
「なんだそれは。意味が分からんな」
「だろ」
むっとして言えば、夏銚も眉間に皺を寄せて首を傾げる。
「お前はそのままでも可愛いのにな。――よし、新しい弓が必要かどうかは、お前の腕前を見てからだ」
うん、と蒼潤が元気に頷くと、夏銚は蒼潤の頭に、ぽんっと大きな手のひらを乗せる。
それから、ふと、柢恵が去って行った方に視線を向けて、思い出したように言った。
「それにしても、柢恵とずいぶんと仲良くなったものだな」
「ああ、うん。あいつ、面白いんだ。他のヤツなら、ダメだって思うようなことでも平気でやるし、それで怒られてもまったく気にしないだろ?」
「そういうところがまさに仲草の頭痛のタネになっているな」
「そんなところも面白い!」
「まったく……。仲良くなることは良いことだが、悪戯はほどほどにな」
夏銚は大きく笑い、まるで幼子を扱うかのように蒼潤の頭をわしゃわしゃと撫で回す。
くすぐったくて嬉しくて蒼潤はケラケラと笑い、夏銚の腰に両腕を回して抱き着いた。
「爸爸が本当に俺の父上だったら良かったのに!」
「儂はお前を本当の息子のように思っているぞ」
「本当に!? 嬉しい!」
大好きっという言葉を胸の中で溢れさせて蒼潤は夏銚に抱き着いた腕にぎゅっと力を込める。
すると、不意に声が響いた。
「夏殿。その子は、あんまりそういう扱いはしない方が貴方の為ですよ」
振り返ると、端正な顔がじっとこちらを見ていた。――孔芍だ。
「柢恵を見かけませんでしたか?」
「あいつなら、今さっき、お前の執務室に行かせたぞ」
「……そうですか」
それなら良いんです、と孔芍は静かな声を響かせる。その響きに疲労感がたっぷりと含まれているような気がして夏銚と共に蒼潤は、どうしたのかと彼に問えば、孔芍はため息を漏らした。
「あの子の睡眠時間がそのまま、わたしの職務時間になるのですよ。殿にあの子を推挙したのはわたしですから、不平不満を言えた立場ではないのですが」
言って去りかけた孔芍は、そうそう、と蒼潤と夏銚に振り返った。
「殿の夫人方がお越しになります。夏殿が調練がてら出迎えてくださると有り難いです」
その言葉に蒼潤は、そう言えばと思い出す。
今朝、徐姥たちから何やら言われたのだ。
――今日は、おとなしくしていてくださいね。なんと言っても、敵が攻め込んでくるんですから。
女の衣ではなく男の衣に着替えようとした蒼潤は、敵とは何かと首を傾げた。
すると、玖姥と呂姥が蒼潤の方にずずっと身を寄せて言ったのだ。
「殿のご側室たちが今日この斉郡城に到着なされるのです」
「ご側室たちの中でも要注意な方と言えば、董夫人です」
「董梨蓉と言えば、殿のご寵愛の深い方ですもの。その方がいらしたら、天連様、今まで通りにはいきませんわ」
「当然、殿の足は遠のいてしまわれますでしょうし」
蒼潤は、パチパチと瞬きを繰り返し、それからパッと笑顔を浮かべて言った。
「それは、せいせいするな!」
蒼潤があからさまに喜んでみせたので、呂姥はため息を付き、玖姥は頬を膨らませた。
それでこの話を終えたのだが、そうかと蒼潤は思った。姥たちの言っていた通りに峨鍈の他の妻たちが今日やってくるのだ。
そのことで自分の境遇に何か変化があるのだろうか。――いや、あるわけがない。蒼潤は蒼潤である。
蒼潤は夏銚に抱きついていた両腕を下ろして、彼を見上げた。
峨鍈の側室たちの護衛は十分にいるが、彼女たち一行は琲州から併州赴郡に入る。
そこから北上して斉郡城にやって来るのだが、斉郡の隣接した椎郡には峨鍈の領地を狙う功郁と貞糺がいるため、護衛の数は多ければ多いほど良いだろう。
それ故、きっと夏銚は孔芍からの依頼を断らないはずだ。そして、蒼潤が予想した通りに、夏銚は短く応えた。
「承知した」
その返事を聞き、孔芍は頷いて柢恵の姿を求めて去って行った。
△▼
峨鍈に寄る地がなかった頃、彼の家族は琲州霖国鄭県にいる父親の庇護下にいた。
蒼家の血を求めた峨鍈が家族を置いて渕州互斡国に向かったのは葵暦191年の春のことで、それから併州斉郡に移り、杜山郡に向かい、再び斉郡に戻って来たのが葵暦193年なので、なんと峨鍈は2年間も妻子を放っておいたことになる。
それをようやく斉郡に呼び寄せたわけであった。
斉郡城の手前20里のところで夏銚の出迎えを受けた一行は、外郭門まで夏銚軍の護衛のもと進み、その後、外郭門を抜けて大通りをまっすぐ進む。
そして、城壁の内側に入り、宮城へと向かい、宮城の大門の前で側室たちは峨鍈の迎えを受けた。
馬車から、すらりと背の高い女が降りてくるのが見えて、峨鍈の顔が綻ぶ。
彼女は藤紫色の深衣を纏い、その袖を長く流しながら峨鍈に向かって頭を下げた。
「お久しぶりでございます、殿」
「ようやく来たな、梨蓉」
「殿がようやくお呼びくださったのです。お元気でいらっしゃいましたか?」
梨蓉と共に降りて来た子供が2人、梨蓉の後ろに隠れるようにして峨鍈のことを見上げている。
峨鍈はその子供たちに気付くと、ニヤリと笑みを浮かべた。
「琳と驕か。大きくなったな」
「殿、軒もいます。抱き締めてやってください」
梨蓉が指し示した先に視線を向ければ、梨蓉と子供たちが降りて来た馬車から乳母が幼子の手を取ってゆっくりと降りて来るのが見えた。
その幼子は峨鍈が不在の間に生まれた子で、2年前に峨鍈が梨蓉と別れた時、彼女のお腹は西瓜を詰めたように大きく膨らんでいた。
初めて会う息子を抱き上げてやろうと、峨鍈が軒に向かって手を伸ばすと、軒は大きな瞳に涙を溢れさせて乳母の後ろに隠れてしまう。
「あらあら」
梨蓉は目を細めて微笑み、行き場を失った峨鍈の手を取る。
「致し方ありませんわ。直に慣れます」
にっこりとしながら、梨蓉は暗に『2年間も私たちを放っておいた結果がそれですのよ』と言っているのだと察して峨鍈は苦笑いを浮かべた。
続いて、次の馬車から栄嫈霞が娘の柚と朋と共に降りて来る。
更に次の馬車からは怏明雲が息子の桓と共に、そして、羅雪怜と楊楓莉は同じ馬車から降りて来た。
4人の側室たちは揃って頭を下げると、梨蓉の後ろに並んだので、峨鍈は彼女たちひとりひとりに声を掛けた。
それから、名前も顔も朧げな妾たちが馬車から降りて来る。女たちが纏う深衣は色とりどりで、宮城が一気に華やいだように見えた。
「悪いが、北宮は深江郡主に使わせている。お前たちは東宮か西宮を使ってくれ。室の割り当てに関しては、梨蓉に任せる」
「承りました。しかし、殿。これは……?」
梨蓉が困惑した顔で北宮に続く門を指し示した。
門扉に閂が差してあるのだが、それがまるで門の内側にいる者を閉じ込めているかのように見えた。
ああ、と峨鍈は額を片手で押さえる。
「あまり意味はないのだ」
あまり、どころか、まったく意味がない。なぜなら、閉じ込めておきたいと思っている者は容易に塀を越えて抜け出してしまうからだ。
それでも気休め程度に思い、閂を差したままにいていたのを梨蓉に見付かってしまい、峨鍈は気まずく感じる。
すぐに下男に命じて閂を外させた。
「郡主について言っておかねばならないことがあるが、それは後にしよう。長旅で疲れているだろう。まずは休んでくれ」
「そうさせて頂きますわ」
「夜に様子を見に行く」
「ええ。お待ちしております」
梨蓉が頭を下げるのを見て頷き、他の側室たちにも視線を向けた後、峨鍈は自分の私室に向かった。
【メモ】
峨鍈の妻たち 峨鍈39歳の時。
第一夫人(正室)…蒼夫人。蒼潤。天連。深江郡主。16歳
第二夫人…董夫人。董蓮。梨蓉。37歳【子】昂(2歳で夭折。生きていれば16歳)、琳11歳、驕8歳、軒3歳
第三夫人…栄夫人。嫈霞。35歳【子】柚(15歳。笄礼済みなので他の子供たちとは遊ばない)、朋10歳
第四夫人…怏夫人。明雲。27歳 【子】桓5歳
第五夫人…羅夫人。雪怜。24歳【子】後に寧
第六夫人…楊夫人。楊羽。楓莉。23歳
※年齢は数え。満年齢は1~2歳下。




