1.仰いだ空の高さ
「よう」
そう言って軽く手を上げたのは、柢恵だった。
とっくに午前評議が始まっている時刻である。蒼潤は評議に参列する許しを得ていないが、柢恵は評議において孔芍の横に控えていなければならないはずだった。
「なんでお前こんなところにいるんだ?」
こんなところとは、郡城の参集殿の裏である。
参集殿は評議や軍議が行われる広間の近くで、官吏たちの控え室がある殿舎である。
この辺りの地面は砂利を敷かれ、大きな白い岩が点在する。その岩のひとつに背を預けるようにして柢恵は座り込んでいた。
柢恵とは先の戦――対貞糺戦以来、お互いにその力を認め合い、親しくなっていた。
蒼潤が見たところ、柢恵という少年は学問ばかりの頭でっかちかと思えば、そうではなく、馬にも乗れて、弓も扱え、なかなか好戦的な思考の持ち主である。
守るよりも攻める。
やられるのを待つよりも、先にやる。
万が一、攻撃を受けてしまったら、必ず倍以上にして返す。――そんな考え方をする柢恵を知った今では、蒼潤は彼を大いに気に入り、甄燕を加えて共に周囲の大人が度肝を抜かすような悪戯をする仲となっていた。
とくに柢恵は孔芍に対して一泡吹かせたいという想いが強く、とんでもなく苦い飲み物を水だと偽って孔芍に飲ませたことがある。
その罰として中庭に正座させられていた柢恵を、さぞかし反省しているだろうと蒼潤が様子を見に行くと、彼はケラケラと笑って、この罰を含めて悪戯は成功なのだと言った。
罰を受けている間は仕事をしなくて済むからだ。
他にも孔芍を落とし穴に落としたいと言い出して、孔芍の執務室から階で庭に降りたところに大きな穴を掘ったこともある。
蒼潤と甄燕も穴掘りを手伝わされて、三人でかなり大きな穴を掘れたが、落ちたのは孔芍ではなく、潘立だった。
潘立は峨鍈よりも14歳ほど年長で、併州刺史に仕えていた軍師だ。
しかし、併州刺史は壬州から攻めて込んで来た叛乱軍に討たれてしまい、代わりに併州牧としてやってきた峨鍈と潘立は出会う。2人は出会ってすぐに意気投合し、峨鍈の招きで潘立は峨鍈の陣営に加わったのだ。
この時、すでに藩立は50歳を超えていて、峨鍈の配下の中では年長者の部類だったが、その性格は温和とは言い難いものだった。顔立ちもかなり厳つい。
絶叫しながら落とし穴に落ちた藩立は、すぐに何者の仕業であるか察し、柢恵の名を叫び、柢恵の血の気を引かせる。
三人は、孔芍ならば頭まで埋まるような深さの穴を頑張って掘ったのだが、藩立の身の丈は孔芍よりも頭一つ分ほど高く、彼が穴に落ちた姿は地面から怒れる生首が生えているかのようだった。
藩立は怒鳴り散らしながら自力で穴から這い出ると、血走った眼でギロリギロリと周囲を見渡し、柢恵の姿を捜す。
起立した熊のような体躯と、立派な頬髯と顎髭を生やした彼は、軍師というよりも猛将のように見えた。
あまりの恐ろしさに三人は逃げることも忘れ、身を隠した物陰でガタガタと震えていると、瞬く間に藩立に捉えられ、三人とも中庭の木の幹に縄で縛り付けられる。
その様子に孔芍は呆れたような冷ややかな視線を向けつつ、すぐに峨鍈に報せてくれたのだが、峨鍈は夏銚と共に駆けつけて来て藩立から事情を聞くと、やはり呆れた顔をし、二人とも一刻以上そのまま黙認して助けてくれなかった。
柢恵と関わると万事がそのような感じなので、蒼潤は新鮮で、可笑しくて堪らない。
今日はどんな悪戯をするつもりなのだろうかと柢恵に歩み寄ると、柢恵は蒼潤の腕を掴んで岩陰に引き込んだ。
「突っ立っていたら、見つかっちゃうだろ」
「隠れているのか? 評議は? 参列しなくていいのか?」
「目覚めたら、評議が始まる合図の銅鑼が聞こえた」
「つまり、寝坊したんだな」
朝が弱い柢恵を笑って、蒼潤は柢恵の隣に腰を下ろした。 身を隠した大きな岩に背中を預ければ、ひんやりとした冷たさが背中の熱を奪っていく。
この冷たさは柢恵の体に良くないのではと蒼潤は柢恵の顔に視線を向けた。
柢恵は好戦的な性格に反して体力がなく、すぐに体調を崩す。
熱が出た、咳が止まらない、頭が痛い、体が怠い、と言っている時の方が多くて、多少の不調は彼にとっての通常状態であるようだった。
とは言え、床に臥せるほど体調を崩してはならないと蒼潤は柢恵を心配したのだが、彼はそんな蒼潤の視線に気付かない振りをして空を見上げていた。
つられて蒼潤も青々とした空を見上げる。
こうして地べたに座り込んでいると、空が途轍もなく高く、自分という存在がちっぽけに感じた。
葵暦191年の末、峨鍈は斉郡城と赴郡城それぞれに二千の守兵を残し、再度、併州杜山郡へと軍を進めた。
二千ずつの守兵を残しても一万の兵を率いて杜山郡に向かうことができたのは、貞糺軍の一戦を経て、多くの投降兵を受け入れたためである。
椎郡に逃げた貞糺が椎郡太守の功郁と共に再び攻めて来る可能性があるのに、守兵二千で足りるのかというと、貞糺の家族を人質にして、それを防いでいる。
ただし、貞糺が絶対に家族を見捨てないという確証はなかった。
そんな状況で進軍し、杜山郡で対峙するのは、100万の叛乱軍である。
冬を迎え、既に飢え始めていた叛乱軍は杜山郡城を取り囲み、戦況は膠着したまま葵暦192年を迎えた。
春を迎えたとはいえ、厳しい冬の間に雪に覆われた大地がすぐに暖まるわけではない。飢えきった叛乱軍は雪を喰らい、枯れ木の皮を剥いで喰らい、目に映るものすべてを口に入れていたが、やがて叛乱軍が陣営を敷いた辺りから、連日、黒い煙が上がるようになった。
それは死体を燃やす煙であり、その強烈な臭いが風に乗って郡城にまで届いた。
多くの餓死者が出始めている。そうと知った峨鍈は自ら城を出て叛乱軍の長との交渉に向かい、彼らに告げた。
――今この時の飢えを満たすための食料を分けてやる。そして、この先、数十年の飢えを満たすための土地も分け与えよう。その土地はお前の飢えを満たすだけではなく、お前の子や孫の飢えも満たすだろう。降伏せよ。
こうして峨鍈は壬州叛乱軍を鎮定し、彼らに耕すべき土地を与えることで自分の民としたのである。
斉郡から穀物を、戦で荒れ果てた杜山郡や豊陽郡に輸送し、次の収穫時期を迎えるまでの食料を保証し、杜山郡と豊陽郡の土地を叛乱軍に耕させた。
耕せば耕した分だけ、耕した者の土地として認め、その土地に家族と共に定住させつつ、戦時の際は峨鍈軍の一員として戦うという約定も交わされた。
葵暦192年は、杜山郡と豊陽郡の立て直しに費やされ、斉郡城に戻って来た頃には葵暦193年が差し迫っていた。
その頃には蒼潤と柢恵が燃やした城壁は修繕されている。
目を離すことができないと、杜山郡にも豊陽郡にも連れて行って貰えたのは幸いで、もしまた留守居を命じられていたら、そのまま一年間も蒼潤は峨鍈に放ったらかしにされるところだった。
だからと言って、蒼潤が成し得たことは何もない。ただ、峨鍈の傍らで、彼のすることを眺めていただけだ。
一方、峨鍈は更に兵力を得て、着実に名を上げた。
彼のもとに人が集まりつつある。藩立も、まさにそのひとりであった。
(――小さい)
蒼潤は無意識に握り締めていた拳をそっと開いて、仰いだ空に向かって手を伸ばす。
(俺は、なんて、ちっぽけなのだろう)
蒼潤は峨鍈に嫁いで2年が経ち、数えで16歳になっていた。
深江郡主の軍として、深江軍の存在はそこそこ知られるようになっていたが、そこで剣を振るう蒼潤の名を知る者はいない。
夏昂ですら夏銚の息子という域を出ず、その名を知る者は更にいなかった。
(こんな有様で、俺はいったいいつ玉座を手に入れられるんだろうか)
このままで良いのだろうかという蒼潤の焦りを仰いだ空が嗤う。
ゆっくりと白い雲が空を流れていく様子を蒼潤は柢恵と並んで眺め続けた。
どれくらいそうしていただろうか。
ふと、二人の視野が陰り、次の瞬間、ぬっ、と太い腕が伸びて、空が割れたのかと思うような太い声が響いた。
「こら、悪童ども! こんなところにいたのかっ‼ 探したぞ、莫迦者っ!」
左右の大きな手がそれぞれ蒼潤と柢恵の襟の後ろを摘み上げる。
蒼潤と柢恵は空を蹴って、思わず大声を上げた。
「「うわああああああああぁーっ‼」」
「大きな声を上げるな。喧しい」
背後を振り返れば、夏銚がうるさそうに眉根を寄せている。
彼は蒼潤と柢恵の体をまるで子犬みたいに持ち上げ、意図的にぶらんぶらんと左右に揺すった。
「爸爸!」
「夏様、やめてください……」
もはや条件反射のように蒼潤は夏銚の顔を見て笑顔を浮かべたが、柢恵は困惑したように顔を顰める。
「苦しいです。離してください」
「柢恵、今日も評議を欠席したな」
「朝、起きられないんです。勘弁してください」
「気合で起きろ、気合で」
夏銚は2人の襟首を掴んだまま、ぐるりと自ら回転する。
振り回されて蒼潤は、あはははっと笑い声を上げたが、柢恵は気分を悪くしたようで、顔を青ざめさせた。
ぐるん、ぐるん、と更に二周して、2人を地面に下すと夏銚はまず柢恵を見下ろして言った。
「仲草がお前を探していたぞ。十分に覚悟してから仲草の室に行くんだな。やるべきことがたんまりと溜まっているらしい」
酔っ払いのようによたよたしながら柢恵は、うえっと答えた。
どうやら評議は終わったようで、ついに顔を出さなかった柢恵に怒り心頭の孔芍が彼を捜しているらしい。
それから、と言って夏銚の視線が、瞳をらんらんとさせている蒼潤の方に向いた。
【メモ】
渕州
併州 壬州
琲州
渕州
斉郡 豊陽郡 杜山郡 壬州
椎郡 赴郡
琲州
※併州=斉郡・豊陽郡・杜山郡・椎郡・赴郡