12.お前が先に言うな
「何をしている?」
努めて感情を抑え、可能な限り落ち着いた声音を出す。
だが、内心は不安と恐怖と焦り、安堵と切なさが、苦しいばかりに胸の内で暴れ回っていた。
「馬から降りてこっちに来い。――怪我はないか?」
「……ない」
すぐに両腕を伸ばして蒼潤の体を馬から下ろす。
ない、と蒼潤は答えたが、それをそのまま聞き入れることができず、峨鍈は蒼潤の肩を掴んで、その体に傷がないか確かめようとした。
「よく見せてみろ」
「ないって!」
「見せてみろ」
蒼潤が嫌がって体を捩る。
そんな風に抵抗されれば、力ずくでも己の思い通りにしたくなってしまう。峨鍈は蒼潤の襟元に手を伸ばし、蒼潤の衣を剥ぎ取ろうとした。
すると、蒼潤はぎょっとした表情を浮かべ、体を大きく捩って逃げた。
「待て。ここで脱がせる気か!」
こんな場所で、と訴えられて峨鍈は我に返った。
外郭門の外である。しかも、つい先刻まで戦場になっていた場所である。辺りにはまだ亡骸が転がっていて、あちらこちらから負傷者の呻き声が聞こえてくる。
「後で気が済むまで見せてやるから、とにかく今は嫌だ!」
峨鍈は、ふっと蒼潤から手を放した。
「後で会いに行く。好きな房室を選んで休んでいろ」
「でも、俺も後片付けを」
「お前はいい」
「でも……」
言い淀みながら蒼潤が視線を巡らせる。周囲では兵たちが皆で力を合わせ怪我人や亡骸を運ぶなどして戦の後始末をしている。
それは夏昂にとっての上将であり、父である夏銚とて例外ではないのだから、一兵士であり、夏銚の息子である夏昂が免れるわけがない。
しかし、そうだとしても、そのようなことを蒼潤にさせるつもりなど、峨鍈にはなかった。
峨鍈はなかなか思うようにならない蒼潤に対してため息を漏らした。
「俺がいいと言っている。さっさと奥に行って休んでいろ」
言って、蒼潤を追い払うかのように片手を振る。――とその時、夏銚の声が響いて、こちらに大股で歩み寄ってくる気配がした。
「昂! 怪我はないか?」
ほとんど峨鍈と同じようなことを言い、やはり同じように蒼潤の体を見回して怪我の有無を確認する。
だが、峨鍈と異なるのは、夏銚は膝を地面について蒼潤と目線を合わせ、心から心配しているという顔をして、その大きな手で蒼潤の頭や頬を撫でている。
峨鍈は苛立った。蒼潤が甘えたような声で、爸……と夏銚を呼ぶものだから、ますますイライラとして舌打ちをする。
「ああ、無事で良かった。心配したんだぞ。まさか赴郡城に攻め込むとは思わなかった。典呂に向かって逃げてくればいいものを」
夏銚が峨鍈の目の前で蒼潤を抱き締め、その頭をわしゃわしゃと撫でている。
よかった、よかった、と蒼潤の背中を優しく叩いている夏銚の姿を見て、限界だと思った。
峨鍈は蒼潤と夏銚の間に立つと、べりっと剥がすように蒼潤を夏銚の腕の中から引き離して、自分の腕の中に抱え込んだ。
「俺がこいつに言おうと思っていたことを、お前が先に言うな」
「お前が押し付けてきた儂の息子だぞ」
「こんなにも懐くとは思わなかった」
「妬くな、妬くな」
ははははっ、と大きく笑って夏銚は持ち場に戻って行く。その背を睨むように見送ると、峨鍈は蒼潤の側に付き従っていた甄燕に振り向いた。
「燕、以後、奥への出入りを許可するから、こいつを奥に連れて行け」
「御意」
甄燕が拱手すると、峨鍈は蒼潤の体を甄燕の方に押しやる。早く行け、と手を払って、蒼潤を甄燕と共に外郭門の中に追い立てた。
自分の馬の手綱を曳きながら外郭門をくぐって行った蒼潤のその姿が見えなくなると、峨鍈はドッと全身から力が抜けていく想いがした。
蒼潤の体は、ドキッとするほど血だらけだった。
よせばいいのに、蒼潤は敵味方が入り乱れた戦場では弓兵隊が役に立たないと悟ると、すぐさま騎乗して剣を手に戦場を駆け回ったのだ。
五体満足で元気にいる様子から、蒼潤の衣を汚している血は、ほとんどが返り血なのだろう。
そうと分かっていても、その血だらけの姿を自分の目に晒して欲しくなかった。
配下に指示を出している夏銚の横まで来ると、峨鍈は、むっと眉間に皺を寄せる。
すると、夏銚が振り向きもせずに峨鍈に対して言葉を発した。
「予想以上だな」
蒼潤と柢恵のことを言っているのだ、とすぐに分かる。
峨鍈は頷かずに視線を巡らせれば、柢恵が傷の手当てを受けているのが目に入る。斉郡城に火を放った時に火傷をしたらしい。
戦の最中では気付かなかった痛みが、今になって疼き、ようやく火傷に気付いたのだという。
「俺は良い息子を得た」
「柢恵の策が良かったのだ」
「それもあるが、昴の武勇がなければ、策は成り立たん」
その通りだと峨鍈も思った。
まず斉郡城で攻め込んできた敵を殲滅しなければ次の手が打てない。
斉郡城には千五百しか兵を残さなかった。そのうち千は新兵や老兵ばかりで、実質、深江軍の五百だけが頼りだったはずだ。だが、それで二千を破ったのだ。
そして、その後、蒼潤はたった五百騎で赴郡城を落とした。
(思った以上にやる)
そう蒼潤の力を認めながらも、峨鍈はそんな力など蒼潤に求めていなかった。
日暮れまで後始末に追われ、峨鍈が蒼潤のもとを訪れた時には、既に蒼潤は牀榻に体を横たえていた。
蒼潤は貞糺の正室が使用していた北正殿をそのまま自分の居所と定めたようだ。
貞糺は妻子を置いて逃げたので、正室は側室や子らと一緒に西宮に移している。彼女たちの今後についてはこれから決めなくてはならないことのひとつだが、とりあえず壬州の叛乱軍を鎮圧するまでは、椎郡に逃げた貞糺に対する人質として生かしておくことにした。
乳母も侍女たちも下がらせてしまい、蒼潤の臥室は真っ暗だった。
その暗闇の中、蒼潤が僅かに体を起こして峨鍈の方に振り向いたのが分かった。
「なんだ、来たのか」
「後で行くと言っただろう」
峨鍈は牀榻の天蓋から垂れ下がっている床帳の中に入って、臥牀に腰を下ろした。
「見せてみろ」
こんな暗闇の中で見えるわけがなかったが、蒼潤の体の傷を確認せずにはいられなかった。
蒼潤は気だるそうに起き上がり、峨鍈と向き合うと、躊躇無く褝の前を開き、肩から滑り落とした。
衣擦れの音が妙に大きく夜に響く。
「いくつか掠り傷を負ったが、大きな怪我はしていない。手当ては済んでいる」
「そうか。――髪を洗ったのか」
「ああ」
峨鍈は腕を伸ばして手の甲で蒼潤の柔らかな頬に触れる。それから湿り気を帯びて青く染まった髪をひと房その手に取った。
「俺が洗いたかったな」
「お前、好きだよな、俺の髪が」
はははっと蒼潤の笑い声が響く。
暗すぎて黒にしか見えないが、触れると湿っていると分かる蒼潤の髪は、おそらく青い。
その青を確かめられないことを残念に思いながら、峨鍈は蒼潤の首筋を撫でるように手を這わせた。
「触れてもいいか?」
蒼潤が調練に参加するようになってから夜を共にするようになり、夜の寒さを強く感じるようになってからは峨鍈は蒼潤を抱き抱えるように眠っていた。
そうしているうちに、戯れで触れたことがあった。当然、蒼潤は怒って暴れ、困惑して、最後には泣いたが、その反応が面白くて、それ以降にも何度か遊戯の延長のように触れた。
峨鍈がそれを始めるのはいつも突然で、今まで一度も蒼潤の意思を尋ねたことなどなかったが、なぜか今、蒼潤に許可を求めるようなことを口にして、そんな自分に峨鍈自身が困惑してしまう。
第一、蒼潤が『いい』と答えるわけがない。
案の定、蒼潤は峨鍈の手を退けて言った。
「嫌だ。疲れてる。もう寝たい」
背を向けて再び牀榻に横たわった蒼潤に、峨鍈はため息を漏らす。
(触りたい。口づけたい。触りたい)
せめてと思って、蒼潤の頭に手を伸ばしてゆっくりと撫でる。
なぜこんなにも触れたいのか。餓えているかのような想いに駆られながら、なぜなのかと自身に問い掛けた。
おそらくしっかりと確かめたいのだ。
その姿を目にして、その声を耳に聞いて、無事であることは分かったが、それだけでは十分ではなく、自分の両腕でその体を抱き締めて、肌に肌を触れさせて、本当にその小さな体に大切な命が宿っていることを確認したい。
「戦場に連れて行かなければ、安全だと思っていたのだがな。まさか連れて行かないことで、こんな想いをするとは……」
「お前が俺を置いていくからだ。お前が悪い」
蒼潤が背を向けたまま言った。
言葉が返ってきたことに喜びを覚えながら峨鍈は再び蒼潤の頭を撫でる。内心どう思っているのかは分からないが、手を振り払われないので、許されたのだろうと思い、蒼潤の髪を自分の指に絡ませる。
「お前も柢恵も、よくやったと褒めてやりたいとは思うのだが……。だが、やはり、お前を連れて行けば良かったと後悔している」
「なら、二度と置いていくな。留守番は御免だ。――まあ、今回はちょっと楽しかったけどな!」
言って、不意打ちのように蒼潤がくるっと体ごと峨鍈に振り向いた。そして、おそらく蒼潤は峨鍈に向かって笑顔を浮かべたのだ。
暗すぎてその笑顔を見ることはできなかったが、峨鍈は蒼潤が自分に振り向いたということだけで満たされた想いだった。
ぎしりと臥牀を軋ませて峨鍈が布団に潜り込むと、狭い、と文句を言って蒼潤が両腕を突っぱねてくる。
構わず、その体を強引に抱き寄せた。
「何もしない。こうして抱いているだけだ。だから、もう寝ろ」
そうは言ったが、これだけは許せと峨鍈は蒼潤の額に唇を押し当ててから瞼を閉ざした。
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