11.赴郡城の戦い
(籠城か)
それしか手はないだろうが、はたして自分が帰城するまで、あの城がもってくれるだろうか。
昨晩から籠城の準備を始めたとしても、明日には敵兵に取り囲まれる。
何も知らないうちに囲まれてしまうよりはマシだろうが、十分な準備を整える時間はないはずだ。
「二日で城に戻る」
せめて二千は凌いでくれよ、と祈るように言えば、夏銚と夏葦がすぐに天幕を飛び出して行った。
峨鍈も天幕から外に出て声を張り上げる。
「石塢、芝水、騎兵のみ率いて先行しろ! 仲草、歩兵を率いて後から追い付いて来い」
承知、と拱手した孔芍の下に何人か部将をつける。
夏銚と夏葦が騎兵を率いて進軍を始めたのを見て、峨鍈も自分の馬に騎乗した。
斉郡城から二日半の距離にいたが、峨鍈は馬の駆け足で進軍させ、急ぎ斉郡城へと引き返す。
半日進んだところで、蒼潤が峨鍈に送った早馬と出会った。
不世の言葉通りに、蒼潤も貞糺の動きを把握しているのだと知って、僅かながら安堵感が胸にわく。
一夜明けて更に進むと、斉郡城の方角から逃げて来る民たちと出会い、その中に蒼潤の乳母の姿があると報告を受けて、すぐに呼び付けた。
てっきり蒼潤も乳母たちと一緒に斉郡城から脱出したものだと思った峨鍈は、そうではないと分かり驚愕する。
「どういうことだ!」
乳母――蒼潤から徐姥と呼ばれる女を呼び付けると、蒼潤の他の侍女たちも共に峨鍈の前で跪いた。
「天連様は赴郡城に攻め込まれました」
「なんて?」
「詳しくは存じ上げませんが、籠城は難しいと判断されたようです」
「石塢ーっ‼」
主のことが心配でならないという表情をしながらも凛として答える徐姥から視線を逸らさないまま、峨鍈は従兄の字を大声で呼んだ。
慌てて夏銚が夏葦と共に駆けつけて来る。
「なんだなんだ、どうした!?」
大声を上げ過ぎて乱れた呼吸を整えながら峨鍈は夏兄弟に振り向いて言った。
「あの悪童どもが赴郡城に攻め込んだそうだ!」
「落ち着け、伯旋。目が血走っているぞ」
「やるなぁ。5千の敵兵相手に千と五百で籠城は無理だと判断して、攻撃に転じたというわけだな」
ひゅうと夏葦が口笛を鳴らして感心したように言ったが、峨鍈はとてもそんな気持ちにはなれなかった。
ぎろりと夏葦を睨み付けると、まったく意に介していない様子で夏葦が、ところで、と言って蒼潤の乳母と侍女の顔を順に見やる。
「お前の郡主様はご無事だったのか? 侍女と一緒に逃げて来られたのだろ?」
どれが深江郡主なのかと視線を巡らせて、蒼潤の乳母の娘である小華に夏葦は目を止めた。年齢から判断したのだろうが、峨鍈はそんな従弟に腹を立てた。
(その郡主が赴郡城に攻め込んでいるという話だ!)
小華が本当に深江郡主であったのなら、峨鍈はこんなにも焦燥感に駆られてはいない。
しかし、ここで深江郡主がいないと騒ぐわけにはいかず、ぐっと喉を鳴らすと、夏兄弟に怒鳴るように命じた。
「すぐに赴郡城に向かう!」
「おい、斉郡城はどうなる? 柢恵と夏昂が兵を率いて斉郡城を脱したのなら、今頃、貞糺の手に落ちてしまっているのだろう?」
「そちらの奪還は、後方の仲草に任せる」
峨鍈が騎乗したのを見て、慌てたように夏銚が声を上げる。
「逃げて来た民は?」
「それも仲草だ」
言い捨て、峨鍈が馬の脇腹を蹴って駆け出したので、夏兄弟も素早く騎乗して、兵を率いて峨鍈を追った。
そこからは休みなく馬を駆けさせて斉郡城までの距離を進む。
蒼潤と柢恵は斉郡城の城壁を燃やしたとの報せを受けていた。既に炎も煙も見当たらなかったが、峨鍈が四千の騎兵で斉郡城に近付くと、蜂の巣を突いたように城の中から貞糺軍が現われた。
峨鍈軍が斉郡城を奪い返そうと攻めて来たと思ったのだろう。
立ち向かってくるつもりなのかと思ったが、それにしては貞糺軍の動きに統制が取れていない。
斉郡城をとても守り切れないと判断し、赴郡城に逃げようとしているのだと気付いて、峨鍈軍は逃げ遅れた貞糺軍の歩兵を蹴散らしつつ、先頭を逃げていく貞糺を追うように赴郡城に急いだ。
峨鍈としては昼夜を問わず駆け続けるつもりでいたが、日が落ちたところで夏銚に諫められて進軍を止める。
斥候を放って探らせたところ、貞糺も十里先で野営することにしたようだ。
赴郡城までまだ一日以上の距離があった。翌日も貞糺軍を追い駆けるかたちで進軍し、貞糺軍との距離を七里まで縮めてその日を終える。
そして、次の日。
ついに赴郡城がその姿を現した。開けた平な大地にポツンと建つその姿を目指して、貞糺軍が土煙を巻き上げながら一直線に駆けて行く。
3千――いや、そんな数はいない。歩兵は見捨てて、騎兵さえ急がせ過ぎたために脱落させてしまい、千と5百くらいしかいなかった。
峨鍈軍は貞糺軍の兵たちによって乗り潰された馬たちを何頭も見ている。それに、もうダメだと思って脱走した兵も少なくなかっただろう。
風が北から吹き抜けてきて、大気が震えた。
その時、赴郡城の外郭門が、ガガガガッと大きく音を響かせて開いた。
門の中から弓矢を手にした兵たちが飛び出して来て外郭に沿って一列に並ぶ。外郭の上にも弓兵隊が並んでいて、弦を絞って貞糺軍を狙っていた。
「あれは――」
貞糺軍を追って馬を走らせていた峨鍈の隣で、夏銚が外郭門を背に立っている小さな人影を見つめながら声を張り上げて言った。
「昂か!」
「あの莫迦っ‼」
峨鍈も負けじと大声で吐き捨てるように言う。
大人しく城の中に籠っていればいいものを、弓兵隊を引き連れて外郭門から、のこのこと出て来たのは、蒼潤だったのだ。
「放て!」
蒼潤の合図で一斉に無数の矢が放たれると、貞糺軍は大きく乱れた。帰るべき城からの攻撃は貞糺の兵たちに衝撃を与え、次々に放たれる矢に対してほとんど無抵抗に射られていく。
――と同時に、赴郡城の城壁に『深江』の二字が描かれた深江軍の旗が掲げられる。
それを目にして貞糺軍の動きが更に乱れ、彼らは混乱の中、手綱を強く引いて馬の足を止め、或いは、馬首を返そうとした。
馬たちが抗うように嘶きを上げ、棹立ちになって背に乗せた兵を振り落とす。
「峨鍈が追いついてきます!」
「逃げましょう、殿!」
貞糺の側近の声が響き、峨鍈の目が貞糺を捉えた。
大柄な男達に守られた小太りの男がいる。つきすぎた肉のせいで、目が細く見えるその顔からは、すっかり血の気が引いていた。
(俺がお前なら、逃げずに赴郡城の中に飛び込むがな)
貞糺が馬の脇腹を蹴って逃げ出したので、開かれた外郭門を見やって峨鍈は心の中で嗤った。
赴郡城を占拠した蒼潤と柢恵には僅かな手勢しかいない。貞糺が蒼潤が率いている弓兵隊を蹴散らして赴郡城の中に逃げ込んだのなら、奪還できたに違いない。
おそらく赴郡城には残して来た貞糺の配下や家族がいるはずだ。蒼潤と柢恵を捉えて人質とすれば、たとえ峨鍈軍が赴郡城を取り囲んだとしても、人質の命と引き換えに軍を引かせることもできただろう。
峨鍈軍が貞糺軍に追い付いて、あっという間に戦場は敵味方が入り乱れた。逃げる貞糺を追って峨鍈は敵兵を切り倒していく。
「逃がすな! 追え!」
峨鍈の声に夏葦が目の前の敵兵を切り捨てて馬を走らせていった。貞糺を追おうとすると、次々と敵兵がその前に現れる。
意外なことに貞糺は、命を懸けて彼を守ろうとする配下に恵まれていた。彼らの命のおかげで貞糺は逃げ切り、赴郡に隣接した椎郡に向かったようだ。
椎郡の太守は功郁という男で、貞糺とは親戚関係にあった。
「すまない。逃がした」
夏葦が峨鍈のもとに戻って来て、悔しげに表情を歪めながら言った。
峨鍈は片手を振って夏葦を下がらせる。
不世の忠告を聞いていたにも関わらず小物だと思って侮っていた咎が己自身にあるため、夏葦を責める気にはなれなかった。
そして、もはや貞糺のことはどうでもいい。
峨鍈は馬から降りて、いくつか報告を受けながらも視線を巡らせて蒼潤の姿を捜した。
「殿」
柢恵が外郭門の中から出てきて、慌てたように駆け寄って来る。蒼潤も柢恵のように、己が捜したり呼ばずとも駆けてくればいいものをと苦々しく思った。
「勝手を致しましたこと、お詫び申し上げます」
「構わない。お前は最善を尽くしただけだ。むしろ、赴郡を手に入れたことを褒めてやる」
「夏昂殿の武勇のおかげです」
見渡したところ、峨鍈軍の被害はほとんどない。
傷を負い、地に伏せているのは貞糺に置き去りにされた兵ばかりで、死者の数も貞糺軍の方が圧倒的に多かった。
とは言え、貞糺の逃げる判断が早かったため、通常の戦場に比べたら負傷者は少ない方だ。
孔芍が寄越してきた報せによると、斉郡城は無事に奪還でき、斉郡城やその周辺に置き去りにされていた貞糺の兵を大勢捕虜として捉えたという。
彼らの多くは自分たちを置いて逃げた貞糺に見切りをつけ帰順を望んでいるとのことなので、峨鍈は奇しくも今回の戦で、城をひとつと調練済みで即戦力となり得る兵を手に入れることができた。
ふと視線を感じて峨鍈は振り返り、はっとする。
自分のことを黒目がちな瞳で見つめている蒼潤の姿を見付けて、峨鍈は蒼潤を怒鳴り散らしたい想いに駆られた。
だが、一度開きかけた唇を堅く結んで、無言のままに蒼潤の方へと大股で歩み寄った。
【メモ】
爸爸…父。パパ。お父さん。
親密な場合は「爸」と一言で表現することもある。
哥哥…兄。兄さん。お兄ちゃん。
大哥…一番年上の兄。
血の繋がりがない年上の男性に対しても親しみを込めて呼ぶ場合もある。




