10.柢恵の策
今夜の柢恵はきちんと蒼潤と向き合い、言葉に言葉を返そうとしてくれている。二人で会話が成り立っていることに驚き、蒼潤は、もしや、と思って柢恵の顔を見つめた。
(こいつも留守居を命じられて不本意だったのか)
嫌だ嫌だと騒がなかっただけで、柢恵も蒼潤と同じように悔しかったのだと察すると、俄然、蒼潤は柢恵に親近感がわいた。
そして、おそらく柢恵は不謹慎ながらも、今の危機的な状況を楽しんでいる。そこさえも蒼潤と同じだ。
大変なことが起きたと思いつつも、蒼潤は今の状況をわくわくしていた。
つと、柢恵が蒼潤を見やった。
はっとしたように瞳を大きく開き、それから、ふっと細められ、どこか冷ややかな光を放つ。
「何か思い付いたのか?」
「ここに蒼夫人がいらっしゃらなければ――」
「蒼夫人?」
「お護りしなければならない方がいては、無用な策だ」
「いったいどんな?」
「言う意味がない。無用だから」
蒼潤はイラっとして拳を握る。柢恵に対する親近感はわいたが、まだまだ彼がいけ好かないやつだという印象に変わりはない。
蒼潤は、柢恵の胸ぐらに掴みかかりたくなる衝動をぐっとこらえて、奥歯を嚙みしめた。
「己の胸だけにしまっている策は、無策も同じ。それはもっと無意味なことだ。無用か否かをお前だけで判断するな」
「――分かった」
柢恵の顔が松明の灯りに照らされて、蒼潤には彼のニヤリと笑った顔が見えた。
それは初めから蒼潤が言うだろう言葉を予想していたかのような表情だった。蒼潤は舌打ちをする。
本来、主君の妻を危険に晒すであろう策など、口にしただけでも不敬だ。その罪から逃れようと、柢恵はわざと策を出し惜しみしたのだ。
蒼潤に請われて策を披露したのだという建前が必要で、策を実際に採用するか否かも、すべて蒼潤に一任する心積もりなのだろう。
「それで?」
蒼潤は、ムッとした表情を浮かべながら柢恵を促した。
「城を燃やして捨てる」
「は? 燃やして捨てる!?」
「そう。城を捨てて攻めるんだ」
「捨てて攻める?」
蒼潤は柢恵の言葉をそのまま繰り返し、ぽかんと口を開く。
いったいどういうことなのか分からないと彼を見やれば、柢恵は、にっと唇の端を上げて言った。
「まず夏昂殿には深江軍を率いて城から出て頂く。そう、まるで恐れをなして逃げ出したかのように」
「逃げる?」
「敵はこちらが城を捨てて逃げたと思い、油断し、斉郡城にやってくる。外郭門はすんなり通そう。さらに油断した敵兵が城壁門を通る時に、俺が殿からお預かりしている千の衛兵を城壁の上に潜ませておいて、敵兵の頭上に油を注ぎ、火矢を放つ。当然、敵兵は大混乱だ。そこに逃げたと思わせた貴方が後ろを突く。そうすれば、2千の敵はどうにかなるだろう」
「次の3千はどうする?」
「先の2千の敵を壊滅させたら、すぐに城を出て赴郡城に向かう。その際、外郭門は燃やしておく。俺が事前に得ていた情報によると、貞糺の兵力は6千は越えていないはずだ。2千は斉郡城で壊滅。そして、3千も斉郡城に進軍中。となると、赴郡城を守る兵はほとんどいないはずだ」
「つまり?」
蒼潤は柢恵の言わんとすることが分かり、ニヤリと笑みを浮かべる。
柢恵も瞳を細め、唇の端を横に大きく引いて言った。
「赴郡城を掠め取る絶好の機会だ」
蒼潤が柢恵を見やると、彼の目が鋭く輝いた気がした。松明の炎がバチバチと音を立てている。
「斉郡城を捨てることになるが、一時的なことだ。殿が兵を率いて戻って来てくれれば――」
「すぐに奪還できるな!」
外郭門も城壁門も燃え落ちているはずだからだ。
「だから、俺たちは護り難いものを守るより攻める!」
柢恵はそう言って、再びニヤリとする。
それを見て蒼潤は握った拳で己の手ひらを打った。
「守るより攻める。気に入った! それで行こう!」
「だから、駄目なんだ」
「だめ? なんでだ!」
「今の策は、蒼夫人がいらっしゃらなければ使える策だと言っただろう? 夫人がいらっしゃるのに城を捨てられるものか。第一、俺は、蒼夫人を護ることを最優先しろと殿に言われてる」
へぇ、と蒼潤は瞳を瞬かせた。そんなことを峨鍈は柢恵に命じていたのかと、些か複雑な想いがした。
それから、あー、と蒼潤は気まずそうに低く声を発する。
「開戦する前に夫人を城から逃がしてしまえばいいのでは? その策だと城内の民も危険に晒すことになる。民に紛れさせて逃がせばいい」
「知らないのか? 蒼夫人は郡主様だぞ。民に紛れるなんてなさるはずがない。宮城の奥から出て来られることも嫌がられるはずだ」
「お前こそ知らないのか? 深江郡主は変わり者なんだ。民の姿に変装して立派に逃げてくれるさ」
「まさか! 郡主様だぞ。民の格好なんてなさるはずがない。民に顔を見られることだって嫌がるはずだ」
聞くところによると、柢恵は琲州鮮郡杳鈷県の商家の息子だ。
多少ゆとりのある家庭で育ったが、皇族とは無縁に生きてきた。ならば、郡主とは柢恵にとって雲の上の存在なのだろう。
蒼潤がいくら大丈夫だ、気にするな、その策でいこう、と言っても柢恵は首を横に振るばかりで、蒼潤はだんだん面倒臭くなってきた。
「なら、別の手があるのか?」
「これから考える」
「これから!? ――時間がない!」
蒼潤は首を振った。
「お前がさっき話してくれた策が最善だと思う。それで行こう。夫人に関しては俺が何とかする。責任も取る。殿から怒られるような事態になったら、全部俺が怒られてやる。だから、柢恵。任せろ!」
案の定、蒼潤は柢恵の目論見通りの言葉を口にして柢恵を苦笑させる。しかも、あまりにも蒼潤が単純すぎるので、柢恵の方が心配に思ったほどだっただろう。
ともあれ、作戦を実行に移すために二人は動き始める。
柢恵はすぐに城内の民に避難を呼びかけ、非難が困難な者にはけして家から出るなと命令を出した。
蒼潤は芳華と姥たちを説得し、民に紛れさせて典呂の方角に逃がす。もちろん、蒼夫人も彼女たちと共に逃げたことにした。
それから、蒼潤は柢恵と打ち合わせた通りに、甄燕と共に深江軍を率いて斉郡城を出発した。
△▼
「貞糺です」
不世から報告を受けて峨鍈は耳を疑った。
不世は峨鍈が使う間者組織の長で、戦時の敵情はもちろん、他にも各地からあらゆる情報を集めて、峨鍈に報告してくれる。
赴郡太守の動向が気になるという報告は、斉郡を出発する以前から不世によって繰り返されていたが、峨鍈は意に介していなかった。
赴郡は済郡の南だ。
そして、赴郡太守は、貞糺という小太りで卑屈な男である。
貞糺のもとにも峨鍈同様に併州刺史や杜山郡と豊陽郡の太守たちから援軍要請が届いていたが、貞糺はそれらをのらりくらりとかわし、まったく動く様子を見せない。
おそらく自分の足元に火が付かない限り動かないタチなのだろうと、峨鍈には貞糺のような小人を構うつもりがなかった。
しかし、事は峨鍈が斉郡城を出立したわずか数日後に起きた。
貞糺が壬州叛乱軍の鎮圧のためと銘打って、赴郡から見て北東に位置する杜山郡に向かって2千の兵を送ったとの情報が峨鍈のもとに届く。
今の今までまったく動く気配がなかったというのに、なぜ今になって急に動いたのか怪しんだところ、その2千の貞糺軍が杜山郡ではなく、斉郡に向かって進軍しているとの情報を不世が運んできたのだ。
「さらに、貞糺が自ら3千の兵を率いて赴郡城から出陣しております」
「では、5千の兵で斉郡城を攻めて来るというのか」
拙いぞ、と言って峨鍈はすぐに進軍を止めると、自分のもとに夏銚と夏葦、そして、孔芍を呼び付けた。
峨鍈軍は昨夜、典呂県に入ったところで野営をした。
典呂県はまだ斉郡の内だが、あと半日ほど進めば豊陽郡に入る。杜山郡は更にその東だ。
なので、今日の昼過ぎには豊陽郡だと思って進んでいた兵たちは何事かと動揺を見せる中、峨鍈は天幕をひとつだけ張らせてその中に置かれた机の上に地図を広げた。
「貞糺だと?」
天幕に入るなり、ぎょろぎょろとした大きな眼を光らせて夏銚が声を荒げた。
「斉郡城には千五百しか残してこなかったではないか」
息子の昂が心配なのだろう。だが、それは峨鍈とて同じ想いだ。蒼潤のことが心配だ。
(――いや、石塢と同じなわけがない)
自分の方がより焦っていると峨鍈は思い直す。
ようやく手に入れた龍を失っては、峨鍈のすべてが崩れ落ちてしまう。
「貞糺軍が赴郡城から出陣したとされる日から計算して、おそらく明日にでも2千の兵が斉郡城を取り囲むでしょう」
孔芍が地図の上に細く長い指を滑らせながら言った。
「その次の3千の兵の到着は3日後か、或いは、2日後です」
「先の2千は、どう考えても間に合わん」
「深江郡主は……」
不意に不世が口を開いたので、その場にいた皆がギョッとして彼に振り返った。
峨鍈の側に他の者がいる時に彼が口を開くのは、滅多にあることではない。峨鍈は不世に視線を送り、発言を許し、先の言葉を促した。
「郡主は自身の間者をお持ちです」
「何?」
「ただし、我々のような組織ではなく、その者が単独で動いている様子でした」
「それで?」
「その者が貞糺を探っているようでしたので、情報を与えてやりました。おそらく昨晩のうちに郡主の耳に入っているかと思われます」
「では、昂と柢恵が斉郡城で動いているはずだ」
動いていると自分で口にしてみたが、峨鍈には不安感しかなかった。
二人ともまだ子供で、いったい彼らに何ができると言うのか。
【メモ】
一里とは、現在の中国では500m、日本では約4km、
後漢の一里は、約415m
なので、この小説では、一里は約4⒖mくらいだと思ってください。