9.抱き着く相手が間違っている
蒼潤は吹っ切れたようになって夏銚の腰に両腕でぎゅっとしがみ付いた。
「置いてっちゃ嫌だーっ!」
「ぐはっ‼」
まるで吐血したかのような呻き声を上げて夏銚が歩みをピタリと止めた。
――と、その時。
「そこで何をしている」
地底から響いてきたかのような低い声が響いて、蒼潤も夏銚もビクリと体を震わせた。
声の方に視線を向ければ、峨鍈が自身の執務室から出てきて、蒼潤と夏銚に冷ややかな眼差しを向けている。
「昂」
今、蒼潤は夏昂に扮しているので、峨鍈はそのように蒼潤のことを呼んで顎をしゃくった。
蒼潤は渋々夏銚から離れると、庭から回廊に上がって峨鍈の側に寄る。
「お前はまだ駄々をこねているのか。昨夜さんざん話しただろうが」
臥室でのことを言っていると気付いて蒼潤は、ぷいっと顔を背けた。
話したと彼は言うが、あれは物理的に口を塞がれたのだ。けして蒼潤が納得して口を閉ざしたわけではない。
「第一、お前は抱き着く相手が間違っている」
「だって、お前に言っても無駄なんだろ」
「石塢に言っても無駄だ。それに、お前。俺には抱き着いていないぞ」
「抱き着けばいいのか?」
「そうだな。考えてやらんでもないな」
ほら来い、と両腕を広げられたので、すぐさま蒼潤はその腕の中に飛び込んだ。峨鍈の胸板に額を押し付けるように抱きつく。
こんなことで戦場で連れて行ってくれるのであれば、安いものだ。そう思って彼の背中に回した両腕に力を込めて、ぎゅーうとすれば、峨鍈も蒼潤の背中に両腕を回してきて抱え込まれるようにぎゅうっとされた。
ん、と峨鍈が満足そうな顔をして頷く。
「考えたぞ。――結果、お前は留守番だ」
「はああああああ!? ふざけんな! 放せ、このやろうっ‼」
騙されたと蒼潤は憤慨した。峨鍈の背中を叩いて暴れ、身を捩って彼の腕の中から脱出する。
不意に視線を感じて振り向けば、大きく扉が開かれた室の中に何者かがいることに気が付いた。そのうちのひとりは孔芍だとすぐに分かる。
孔芍の隣に座っている少年の姿を見て、蒼潤は眉間に皺を寄せた。
(なんで、あいつがここに?)
しかも、馬鹿みたいなことをやっているところをガッツリと見られてしまった。
夏銚も孔芍も、蒼潤と峨鍈のやり取りに呆れたような表情を浮かべているし、きっと彼も何事かと思ったことだろう。
気まずくてその場を立ち去りたい心地で立ち尽くしていると、峨鍈が蒼潤の肩を軽く叩いて言った。
「室の中に入れ。ちょうど、お前を呼びに行かせるところだった」
促されて蒼潤が室の中に足を踏み入れると、夏銚も峨鍈の視線を受けて入口近くに腰を下ろした。
蒼潤は孔芍や少年と向き合うように座らされて、不服そうに少年を睨み付ける。
冴えない少年である。――それは顔の造形の話ではなく、少年が纏う印象の話である。
切れ長の目を眠そうに細めて、何を考えているのかまったく読めない表情を浮かべている。
蒼潤よりは身長はあるが、おそらく同年代のうちでは低い方で、体の線が細く、ひょろりとしていた。
(こいつが、柢恵か)
蒼潤は無言のまま、じっと柢恵を睨み続ける。
一方、柢恵の方も我関せずの態度で押し黙っていた。
「お互いに挨拶くらいしたらどうだ?」
峨鍈が呆れ果てたように言うと、すぐに柢恵が床に正座したまま両手を袖の中で合わせて、柢恵です、と抑揚のない声で名乗った。
そのいかにも義務感に溢れた態度に蒼潤は苛立って、蒼潤も荒っぽく拱手すると、夏昂と名乗った。
そして、それっきり、むすっと押し黙る。
「お前たちは――」
やれやれと峨鍈に首を左右に振られたが、仕方がないではないか。年頃が同じだという理由ひとつで、誰しも仲良くなれるわけではない。年齢よりも気が合うか否かの方が大切なのだ。
その点を言えば、蒼潤が外を駆け回って育ったのに対し、柢恵は朝から晩まで室に籠って書物を読んで育ったので、とにかく共通点がない。
気なんて合わないのではないかと思われた。
「もういい」
峨鍈が片手を振って、蒼潤に退出の許可を出す。
視線を向ければ、孔芍も額に手を当てていて、自分の隣で貝のように口も心も閉ざしている少年をどつきたいとその表情で訴えていた。
蒼潤は立ち上がると、ちらりと夏銚に視線を送る。
もう少し夏銚を相手に粘ってみたい気がしていたが、おそらくそのような時間はもうないだろう。諦めて蒼潤は私室に戻った。
そして、翌日。峨鍈も夏銚も蒼潤を斉郡城に残して併州杜山郡に向かって出発してしまう。
軍勢の数は、1万を超える。それほどの数の兵が不在となると、城内はひどく静まり返っているように思えた。
事実、斉郡城に残された兵力は、蒼潤が冱斡国から連れてきた五百と、衛兵として残された千のみだった。
――事は、峨鍈が出立した二日後の夜更けに起きた。
蒼潤は気配を感じて瞼を開く。
虫の報せか、今夜に限って眠りが浅く、僅かな風音でも目が覚めてしまう。この時も風かと思って、寝直そうとしたが、そうではないのだと気付いて牀榻の上で体を起こした。
床帳を捲ると、ひとりの老婆が臥室の隅の暗闇で、公子、公子、と蒼潤のことを呼んでいた。
一瞬、幽鬼かと思って、ぎょっとするが、その老婆の正体をすぐに察して蒼潤はその呼び声に応える。
「何かあったのか?」
老婆の正体は、蒼潤が使っている間諜である。元々は蒼彰の手の者であったが、互斡国を発つ際に蒼彰が蒼潤に譲ってくれた者だ。
蒼潤も蒼彰もその者のことを『清雨』と呼んでいるが、これは本当の名前ではないのだという。
本当の名前は知らない。
年齢も知らなければ、毎度まるで異なった姿で現れるため、性別すら分からなかった。
声音されも変えられるらしく、幾度も別人なのではないかと疑ったものだ。ただ、清雨は蒼潤を『公子』と呼ぶため、清雨だと分かる。
そのように蒼潤を呼ぶ者は、非常に限られているからだ。
蒼潤が手招くと、清雨が足音をいっさい立てずに牀榻の近くまで歩み寄ってくる。そして、声を潜めながらも焦りを滲ませて告げた。
「赴郡です」
「貞糺か」
清雨は以前から赴郡太守の貞糺を危惧しており、その動向に目を光らせていた。
逐一報告してくる中、昨日、貞糺が壬州叛乱軍の鎮圧のため北東の杜山郡に向けて2千の兵を送ったとの情報も蒼潤は清雨から得ている。
そして今、その2千の貞糺軍が杜山郡ではなく、北方に――つまりは斉郡に向かって進軍していると清雨は報告してきた。
「伯旋は今どの辺りだ?」
「典呂です」
典呂県は、まだ斉郡の内だが、あと半日ほど進めば豊陽郡に入る。杜山郡は更にその東だ。
「貞糺軍は?」
「ここから、二日、あるいは、一日半の距離です。さらに、貞糺が自ら3千の兵を率いて赴郡城から出陣しております」
「つまり、1日半後に2千の兵が攻めてきて、さらに3千の兵が攻めて来ると?」
「おそらく3千の兵の到着は3日後です」
「すぐに動こう」
蒼潤が大声を上げて芳華や姥たちを呼んだので、清雨は闇に溶けるように姿を消した。
すぐに人をやって柢恵を郡城に呼び付けると、芳華たちの手を借りて大急ぎで身支度を整え、蒼潤もそちらに向かう。
蒼潤が柢恵を呼びつけた殿舎の前まで来ると、すでに室の中で柢恵が待っていて、松明を持たせた下男を側に控えさせていた。
数日ぶりに会った柢恵は、峨鍈に引き合わされた時に比べて目にしっかりとした光を宿している。こんな夜中に郡城に呼び付けたというのに、あの時の方が眠たげな顔をしていたなと思うくらいだ。
蒼潤は敷居を跨いで室の中に入るなり、柢恵に向かって言う。
「先程、はくせ……っ、――殿に早馬を送った」
危うく峨鍈を字で呼びそうになって慌てて言い直す。
幸い、柢恵に気付いた様子がない。彼は拳を顎に当て、視線を伏せながら言った。
「その早馬が殿に追い付くまで1日、或いは、1日半か。それからすぐに殿が軍を引き返したとして、4日はかかるだろう」
「貞糺の2千の兵は、あと1日半もあれば、ここに辿り着く。それに加えて3日後には3千の兵が攻めて来る」
峨鍈は間に合わない。彼のもとに報せが届いた時にはすでに斉郡城は貞糺軍に攻め込まれている。
「籠城か……」
「この城は籠城に適していない。兵力がもっとあればどうにかなったかもしれないが」
「4日すら持たないのか?」
蒼潤は眉を歪めて柢恵の顔を窺い見る。
「微妙なところだ。2千だけならまだしも、さらに3千の敵兵が加わるとなると、千と5百の兵では……。特に千の衛兵には新兵や老兵が多い」
よもや留守を狙って攻めて来る者がいようとは、峨鍈は思ってもみなかったのだろう。ろくな兵士を残してくれなかったらしい。
「それに殿が4日のうちに戻って来られるかも分からない。もし戻って来られなかった場合、5千の敵兵に囲まれた状況で城を護り続けなければならない。おそらく、その時にはこの城は長くは持たない」
柢恵の言葉を聞き、その通りだろうと思って蒼潤は低く唸って親指の爪を噛んだ。
(伯旋が間に合うことを信じて待つしかないのか。他に何かできることは――)
柢恵は腕を組んで、指先で己の肘を突く。数回。とんとんとん、と一定の動きで。
蒼潤は柢恵の思考を邪魔しないように口を閉ざして待った。