表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
3.葵暦191年の夏から初冬 併州斉郡 初陣 
21/54

7.臥牀の上で語らう


 蒼潤が調練に参加するようになってから峨鍈は毎晩蒼潤の私室を訪れている。髪を洗い、傷の手当てをして、共に食事を取り、同じ臥牀しんだいで眠る。

 ずっと放っておいたくせに今頃こんなに構ってくるなんて、お前は振り幅が大き過ぎる、と蒼潤が呆れたような、うんざりしているかのような表情で言ってきた。


「気にするな。今はお前に興味が向いているだけだ。直にいくさが始まれば、お前どころではなくなる」


  戦と聞いて蒼潤の表情が変わる。

 近頃では体力がついてきたようで夕餉の途中で眠ってしまうことが減り、夕餉を終えた後、二人で臥室しんしつに移動すると、臥牀の上に転がりながら眠くなるまで語らうことが多くなっていた。

 蒼潤がうつ伏せになっている体をほんの少し峨鍈の方に身を乗り出させながら言った。


「お前が併州刺史から援軍要請を受けてから半月が経っている。いったい、いつ出陣するんだ?」


 壬州の叛乱軍が併州杜山(とざん)郡に攻め入ったという報せを蒼潤も耳にしたようだ。併州刺史から出陣を催促する書状が届いていることも知っている様子である。

 それにも関わらず、峨鍈が一向に動く気配を見せないので、蒼潤は疑問を抱いて黒々とした大きな目を向けてくる。 


 その瞳をまともに正面から受け止めてしまい、吸い込まれそうだな、と峨鍈は思った。

 尋ねれば必ず答えが返ってくると純粋に信じている瞳だ。この二カ月で、その程度の信頼関係は築くことができたのだと手応えのようなものを感じた。

 峨鍈は自分の方に寄せられた蒼潤の顔に片手を伸ばし、その耳の縁をなぞるように指先を触れさせる。


「今は駄目だ」

「なぜ? 新兵の調練は済んでいるんだろ? 戦場に連れて行ける程度に仕上がったと爸爸ちちうえが言っていた」

「爸爸……」


 いつの頃からか、蒼潤は夏銚のことを『爸爸』と呼ぶようになっていた。

 蒼潤がふんした夏昂かこうを息子にしろと言ったのは峨鍈だったが、よもや蒼潤と夏銚がそれほど親しくなるとは予想もしていなかった。


 自分よりも夏銚との間の方が深い信頼関係を築いているようで峨鍈は面白くない。

 それに、夏銚も夏銚である。

 峨鍈が蒼潤の調練の様子を尋ねれば、夏銚は『可愛い』しか言わないのである。


 ――伯旋はくせん、なんなんだ、あの生き物は! あれは凄いぞ。あんな可愛い生き物をこれまで見たことがない!


 いったい調練で何があったのか、夏銚が峨鍈の私室に駆け込んできたことがあった。

 血を分けた息子たちに対しては一度も可愛いなどと思ったことがないと言った夏銚が、蒼潤に対しては目尻を下げて手取足取り弓でも剣でも教えているのだと聞いて、峨鍈は耳を疑った。

 

こうを珍獣のように言うな。いや、ある意味、珍獣か」


 蒼潤が龍であることを思い出して峨鍈がぶつぶつと言い返すと、夏銚は興奮したように更に言う。


「珍獣でも何でもいいが、可愛いが溢れている! 儂のことを『爸爸』と呼んで、腕にしがみ付いてくるのだ」

「は?」

「こうやってな、あいつの脇に手を入れて持ち上げると、ぐにゃっとして……。あれは猫の類なのではないか? 信じられないくらいに軽くて、体が柔らかいのだ。これで本当に男なのかと不安になって、一度、衣を脱がせてみたんだが、ちゃんと男で安心しだぞ」

「おい。衣を脱がせたとは、どういうことだ?」


 剣呑な声を響かせて峨鍈は文机の上で拳を握る。

 すると、夏銚は悪びれる様子もなく言葉を続けた。


「仕方がなかったのだ。兵たちの中で昂が女なのではないかと騒ぎになっていてな」

「まさか兵たちの前で脱がせたわけではないだろうな?」

「まさか。万が一のこともあるかと思って、儂とはんだけで確かめた。可愛いものがしっかりとついていて安堵したぞ」


 ぶんっ、と空を切る音を立てて峨鍈は夏銚に向かって文箱を投げ付けた。

 もちろん当たると思って投げたわけではないが、夏銚に易々と避けられてしまうと腹が立って仕方がない。


「危ないな」 

「いいか。あいつの肌は二度と見るな。さらすな」


 ややこしい話に、夏銚の兵たちは夏昂を郡主だと知らない。

 深江軍の兵たちは夏昂を郡主だと分かっているが、深江郡主が男だということを知らない。唯一すべてを知っているのは甄燕だけだ。

 甄燕がうまく立ち回ってくれることを願いながらも、ひとまず夏銚に釘を刺しておく。峨鍈は夏銚に向かって人差し指を突き付けた。


「雨が降って来たら、あいつを天幕の中に入れろ。水浴びはさせるな。水辺に近付けるな。ああ、あとなんだ? ――とにかく、濡らすな」

「なんだ、なんだ? あいつは濡れると、溶けて消えるような珍獣なのか?」

「……まあ、そんなところだな」


 そんなやり取りをしつつも、新兵の調練がほぼ完了したことを夏銚から伝えられていた。

 新兵たちは適所に配属されて、今は古参の兵たちに混ざって新たな調練に励んでいる。

 峨鍈は目の前にいる蒼潤に意識を戻して、今はまだ出陣する時ではない理由を口にした。


「収穫がある」

「ああ、そういう季節か」

「農民が土を耕し、水を撒き、来る日も来る日も時間と労力をかけて育ててきた作物は、必ず彼らに収穫させてやらねばならない」


 そして、収穫間近で田畑を荒すようないくさは絶対に避けなければならなかった。

 なるほど、と蒼潤が呟くように言った。上体を起こし、峨鍈のことを上から覗き込んでくる。


「なら、収穫を終えたら軍を進めるのか? すぐに冬になってしまうのでは? 雪が降ったら動けなくなるぞ」

「そこが狙いなのだ」

「んー?」


 小首を傾げて蒼潤は考えるような仕草をした。

 だが、その表情を見る限り、何も思い付かなかったのだろう。蒼潤は解いた髪を肩から零れ落としながら峨鍈の隣に仰向けに寝転んだ。

 まだ湿り気が残った青い髪が白い敷布の上に扇状に広がる。峨鍈はその青に目を奪われながら口を開き、蒼潤に説明した。


「壬州の叛乱軍は、もともと壬州の農民だ。農民が己の田畑を捨てて他州まで攻め込んで来ている。くわを土を耕す道具としてではなく、武器として扱っているのだ。それで壬州の大地はどうなる?」

「荒れる」

「そうだな。この秋、壬州では収穫するものがあるまい」

「それでは、壬州の民や叛乱軍はどうなるんだ? 飢えてしまう。――もしかして、飢えを狙っているのか?」

「寒さは飢えを増す。だから、冬の到来は都合が良い」


 己の言葉を己の耳に響かせて、峨鍈は息を漏らした。

 蒼潤の青い髪から目を逸らして仰向けに転がり、臥牀の天蓋を睨み付ける。


「天連。俺がこれから戦おうとしている者たちは、本当に敵か?」

「えっ」

「敵というのは、瓊倶けいぐ――奴のような者を指すのではないか?」


 意味が分からないと蒼潤は再び上体を起こして峨鍈の顔を覗き込んできた。


「瓊倶も叛乱軍も、お前の敵ではないのか?」

「お前は、叛乱を鎮定するとは、いったいどういう状態にすることを言う?」

「ええっと……」

「乱を起こしているのは農民だ。100万の農民を皆殺しにすればいいのか?」


 蒼潤は閉口した。

 答えが返ってこないと見て、峨鍈は続けて言う。

 

「民が無くては、国は成り立たん。100万もの農民を殺しては、やがてこの国は滅びに向かって加速していくだろう。ならば、いっそ――」

「敵でなくせばいいんだ!」


 ぱっと閃いたかのように蒼潤が言ったので、峨鍈は目を細めた。

 

「敵でないなら、味方になるかもしれない。そうなれば、お前は100万の民を手に入れるんだ。そして、その民は100万の軍勢でもある。彼らは武器を手に戦えるのだからな。――だけど、どうやって? どうすれば、壬州の叛乱軍がお前の味方になるんだ?」

「さて、どうすればいいのか」

「なんだよ。ちゃんと考えがあるくせに!」


 蒼潤はすべての答えを峨鍈が持っているのだと信じている。

 その信頼や期待を裏切りたいわけではないが、未だ漠然とした構想しか峨鍈の中にはなかった。


 満足する答えが峨鍈から得られず不貞腐れた様子を見せる蒼潤を、天連、と呼んで峨鍈は蒼潤の腕を引く。

 夏が終わり、季節はすっかり秋だ。日中どんなに暑くとも、夜になればとたんに肌寒くなる。

 掛布をもっと厚いものにした方が良いだろうと思いつつも、今のところはこれで十分だと峨鍈は蒼潤の体を抱き寄せた。


「もっと近くに寄れ」


 蒼潤を仰向けに横たわった自分の体の上にうつ伏せに乗せると、蒼潤はしばらくあらがってきたが、抱き込む腕に力を込めれば、諦めたように抵抗がやむ。

 そして、峨鍈の胸板に左耳を押し付けてきた。鼓動を聞かれている。そう意識しながら峨鍈は蒼潤の背中を撫でる。


「斉郡は今年、豊作だそうだ」


 そう呟いて、峨鍈は子供特有の高い体温にまどろんだ。











評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ