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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
3.葵暦191年の夏から初冬 併州斉郡 初陣 
20/56

6.ひとりひとりが役割を持って

 

 峨鍈の手つきに不安を覚えたのか、蒼潤の侍女のひとりが側に寄って来て、爪を立てないように、と控えめに言った。


「こんな感じか?」

「あまりこすらずに指の腹で優しく押すようにお願いします。――ええ、そうです。お上手です」


 侍女からのお墨付きを貰えて満足すると、再び手桶を握って、湯を蒼潤の額の生え際からゆっくりと掛ける。

 とぎ汁を流し終えると、峨鍈は腰を上げて辺りを見渡した。


湯殿よくしつが必要だな」


 峨鍈のやり方が荒っぽいのか、床が水びだしである。

 蒼潤が桶から出てきて、侍女に体と髪を拭いて貰いながら片眉を歪めて言った。


「湯殿? 贅沢だな」

「互斡城にはなかったのか?」

「ない」

「では、造ろう」


 ようやく蒼潤への贈り物が決まったと笑みを浮かべて言うと、峨鍈は濡れた袍を脱いで蒼潤の侍女に預け、はだぎだけを纏った姿で牀に腰かける。

 蒼潤が特鼻褌したばきをつけ、褝を肩に引っ掛けて峨鍈の隣に座ると、徐姥の娘が痣の薬と傷薬を手に蒼潤の傍らに立った。


「俺がやろう」


 徐姥の娘は蒼潤と同じくらいの年齢だろうか。蒼潤はその娘のことを『小華しょうか』と呼んでいるようだった。

 峨鍈が小華に手を差し出すと、小華は峨鍈のことが怖いのか、びくついた様子で峨鍈の手に薬の入った器をふたつ乗せる。


「殿にお任せしている間に、お食事をご用意してもよろしいでしょうか?」

「ああ、頼もう」


 徐姥が頭を下げてから、小華を伴って食事を取りに室を出て行った。

 峨鍈は蒼潤の腹に視線を向ける。予想通り、昨日の痣がまだ色濃く残っていた。

 肘や膝はどうだろうかと、腕を取って確認すれば、昨日の傷の上にさらに新しく傷をこさえている。


「これは?」


 左肩にできた痣は目新しいものだ。

 尋ねると、蒼潤は気まずそうな顔をして、打毬杖で打たれたことを白状した。


「いったい誰にやられたのだ!」

「それを聞いてどうする?」

「龍の体に傷を負わせたのだ。罰するに決まっている」

「正気か? 試合中のことだ。故意ではないし、これくらい何ともない」


 蒼潤に言われて、かっと高ぶった気持ちが瞬時に鎮まる。

 しかし、もやもやと淀んだ想いが胸の底で燻り始め、やはり蒼潤を奥に閉じ込めておくべきではないかという想いが沸いた。

 白い肌に傷や痣が、まるで汚れのように蓄積していくことに不快感を覚え、峨鍈はぐっと唇を引き結ぶ。

 そうして器から塗り薬を指で掬って、蒼潤の体に塗り込んでいった。痣には痣の薬を、傷口には傷薬を。


「――それで」


 薬を塗り終えて、蒼潤の褝の前を合わせながら峨鍈は尋ねる。


「勝てたのか?」


 打毬のことだと蒼潤は瞬時に察して顔を上げた。その顔がいかにも悔しげに歪んだので、答えを聞くまでもないなと峨鍈は苦笑する。

 蒼潤ほど想いがそのまま顔に出る者は他にいないだろう。


「あれは、ひとりひとりが役割を持って動かなければならないのだ」

「役割?」

「いっせいにたまを追い駆けて、味方が皆、同じ場所にいては勝てぬということだ」


 峨鍈は室に控えている蒼潤の侍女に筆と墨を持って来させると、次に中庭の小石をいくつか拾って来させた。

 小石の半数に筆で墨を塗り、牀の上に散らばせる。


「石が人だ。墨を塗った石がお前たちで、塗っていない石が敵だ」

「うん」


 それから石のひとつに丸を描いて、それを峨鍈は毬だと言って牀の上に置く。


「毬がここにあれば、当然、人はここに集まる」


 言いながら、墨を塗った石をすべて毬のあるところに集めた。


「それでお前たちが毬を奪えたのなら良いが、もし敵が毬を奪い、遠くの味方に渡したらどうなる? たとえば、こちらの味方に投げ寄越したとする」


 墨を塗っていない白い石はすべてが毬のところに集まっているわけではないので、毬の場所にいる白い石のところから、別の場所に置かれた白い石のところまで毬の石が移動した。

 峨鍈の指先が白い石と共に毬の石を、白い石の門があると仮定した場所まで移動させる。

 分かったか、と問えば、あー、と蒼潤が唸るような声を漏らした。


「皆で同じように毬を追っていたら、仲間がいる意味がない。お前ひとりで戦っているのと同じであるし、下手したら仲間の動きが妨げにもなり得る。故に、それぞれが別の場所で、自分の役割を果たす必要があるのだ」

「つまり、どうすればいいんだ?」

「例えば、こいつはこの場所を守る。こいつはここだ。ここに敵が来たら毬を奪うか、取らせないようにする」


 言いながら峨鍈は墨を塗った石を次々に動かしていく。

 蒼潤は石の動きを真剣な眼差しで見つめ、幾度も頷いた。


「固まって動いていたら駄目だってことだな」

「それと、子則しそくがどこにいるのか常に注意して見ていろ。あいつは無暗に突っ込んでいかないはずだ。皆から離れたところから周りの状況をよく観ている。そういう奴だ」

「ふーん。分かった。明日はやり方を変えてみる」


 蒼潤が鼻を鳴らして返事をした時、徐姥と小華が膳を持って戻って来た。

 牀の上に小石が広がっているのを見て、僅かに驚いたように視線を揺らしたが、峨鍈が石を退けると、何事もなかったかのような静かな表情で牀の上に膳を置いた。

 蒼潤の侍女に注がれた酒で喉をうるおしてから食事を始める。二杯目からは手酌で呑み、ちらりと蒼潤に視線を向けた。


「お前、酒は吞まないのか?」

「匂いだけで酔う」

「まさか」


 信じがたいと峨鍈は試しに酒を注いだ盃を蒼潤の顔の前に掲げる。

 蒼潤は嫌そうに顔を背けたが、その表情に酔っているような様子は見られなかった。

 やはり酒の匂いだけで酔うなどあり得ないだろうと峨鍈は盃の酒をいっきに呷る。しかし、蒼潤は食事を続けながら、ぽつんと零すように言った。


「お前が以前、酒を呑んだ口で俺の口を塞いだ時に酔った」

「なんて?」

「だから、お前が初夜の日に……」


 ふあっと蒼潤が欠伸あくびをする。

 言い直そうとした言葉は途切れたが、皆まで言われずとも峨鍈には伝わった。もう一度、大きな欠伸をして、重そうに瞼を半分閉じている蒼潤に視線を向けた。


「あれだけでは酔わないだろう」


 確かに、あの夜、峨鍈が口づけたら蒼潤はすぐに意識を失ってしまったが、それは 疲労や緊張が過ぎたせいだろう。

 酒のせいで意識が遠のいたようには見えなかった。

 峨鍈は再び盃を酒で満たして飲み干すと、よし、と声を放った。


「もう一度、試してみよう」

「嫌だ」

「なぜだ?」

「もう眠い」


 蒼潤は気だるそうに言って、あつものの入った椀を膳に戻して言う。


「……たぶん、お前が吞んでいる酒のせいだ」

「違うだろう。調練で疲れたのだろう」


 うー、と蒼潤が低く唸って、目を何度も何度も瞬く。

 そして、不意にその体が後ろに傾いたので峨鍈は咄嗟に腕を伸ばし、蒼潤を抱きとめた。

 無理だと呟いて蒼潤は瞼を完全に閉ざす。くたりと力が抜けた体を支え、徐姥に膳を下げさせると、峨鍈は蒼潤の軽い体を抱き上げた。


「まったく、お前は力尽きたように眠るな」


 侍女たちを下がらせると、月明かりを頼りに臥室に移動して臥牀に蒼潤の体をそっと横たえさせた。



 △▼



 蒼潤が夏昂かこうとして夏銚の調練に参加するようになって二カ月ほど経ったが、未だ夏範に勝てたという報告は受けていない。

 峨鍈が少しばかり助言したくらいで勝てるようなら、夏範もそれほどでもないということになるので、当たり前と言えば当たり前のことだった。


 その間に、峨鍈が蒼潤に贈ると宣言した湯殿もようやく完成した。

 蒼潤の私室からごくわずかな場所に造り、浴槽にたっぷりと張られた湯をさっそく二人で楽しむことにする。

 ――とは言え、蒼潤にとっては予定外のことだったようで、峨鍈が共に湯に浸かろうとすれば、すぐさま声を荒げた。


「なんでお前まで入ってくるんだ!」

「そのために、この広さにしたのだ。一緒に入って何が悪い。――ほら、髪を洗ってやる、頭をこちらに寄越せ」

「必要ない! 呂姥に洗って貰う!」

「お前の頭は本当に小さいな。力を込めたら手で潰せそうだな」

「やーめーろー! ホントやめろ‼」


 蒼潤の頭を両手で、がしりと鷲掴みにすると、はははっと峨鍈は笑い声を立てた。










【メモ】

 お酒について

事酒じしゅ…どぶろくみたい。アルコール度数1%以下

昔酒せきしゅ…事酒を発酵させたもの

清酒せいしゅ…昔酒をさらに発酵させたものの上澄み

※アルコール度数 事酒<昔酒<清酒

※日持ちせず、早めに飲まないと酸っぱくなってしまう。

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