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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
2.葵暦191年の春 渕州冱斡国 出会い
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1.互斡郡王からの文


 ふと、瞼を開いた。

 眼に突き刺さってくる日射しを感じて、僅かに上体を起こした。

 頭が重い。どうやら寝過ごしたようである。

 峨鍈がえいが目覚めたと察すると、女がひとり臥室しんしつに入ってきた。主の身支度を整えようとする侍女に向かって峨鍈は片手を振った。


「後でいい。石塢せきうを呼べ」


 侍女は短く返事をして臥室を出て行った。峨鍈は再び体を横たえて掛布を頭まで引っ張り上げる。

 しばらくしていかつい顔が現れた。

 夏銚かちょうあざな石塢せきう。5つ年上の従兄いとこである。

 がっしりとした体躯の大男で、峨鍈の私室にドシドシと足音を立てて入って来ると、昼を過ぎても尚、牀榻ベッドの中にいる峨鍈を見やり、眉間に皺を寄せた。


伯旋はくせん。人を呼ぶ時は、せめて身支度を終えてからにするものだぞ」


 伯旋とは、峨鍈のあざなである。

 この従兄と自分は主従関係にあり、峨鍈が主であるのだが、彼には自分を字で呼び続けることを許していた。祖父も父も亡い今、自分を戒めてくれる者が一人くらいあっても良いように思ったからだ。

 峨鍈は自分を諭そうとする従兄に、恨めしげな眼を向けた。


「石塢、不快な夢を見た」

「夢だと?」

「実に忌々しい夢であった」

「それで?」


 夏銚は牀榻の峨鍈の足元の方に腰を下ろして、呆れたように峨鍈に見やる。 悪夢如きで自分は呼び付けられたのかと言いたげな表情だ。

 峨鍈は笑った。


「幼い頃、お前はいつも俺を助けに駆け付けてきてくれたが、一度だけ来てくれなかったことがある。その一度で、俺はとんでもない思いをしたのだぞ。未だに夢に見てしまう程だ」

「そいつはすまないことをした。その話をお前から聞かされる度に、過去に戻って助けてやりたいとは思うが、さすがのおれもどうすることもできん。ならば、せめて、お前の夢に飛び込んで助けに行ってやりたいとも思うが、夢の中のこと。どうにもならん」


 諦めてくれ、と夏銚も笑った。

 その顔を見て峨鍈は目を細め、話題を変えた。


「昨日、冱斡ごかん郡王から文が届いた」

「例のあの返事か?」

「そうだ」

「それで?」


 膝を打ち、夏銚は峨鍈の方へと身を乗り出した。峨鍈も上体を起こして牀榻から足を下ろすと、夏銚と並ぶように座る。


 葵暦191年、早春。

 琲州霖国の峨鍈の元に、渕州冱斡国から一通の文が届いた。

 互斡郡王――蒼昏そうこんからの文である。 峨鍈はこれに歓喜した。

 蒼昏には娘が3人いる。峨鍈は3人のうちいずれかを娶りたいと蒼昏に申し出ていて、その返事がようやく届いたのだ。

 平時であれば、宦官の孫である峨鍈が互斡郡王の娘を娶りたいなど、口に出すことも憚れるほどに大それたことだ。

 だが、今、蒼家をあるじに据えた青王朝は大きく揺す振られ、打ち倒れる寸前であった。 


 皇城が赤々と燃えたのは、葵暦189年のことだ。大将軍の恙釜ようふが宦官と対立し、騙し討ちに遭って殺害された。

 これに対し、恙釜の仇討ちと称して兵を率いて皇城に押し入ったのは、瓊倶けいぐだ。

 この時、瓊倶は恙釜の副将を勤めていたため、上将の死は皇城に乗り込む良い口実となったのだ。


 ――宦官を討て。宦官を誅滅し、青王朝を建て直すのだ!


 彼の命により、皇城は炎に包まれた。

 皇帝を傀儡としていた宦官を誅し、この混乱から救い出せば、次は己が実権を握れるだろうと瓊倶は考えていた。

 彼だけではない。おそらく瓊倶に便乗して挙兵したすべての将がそうと考え、皇城に足を踏み入れていた。

 しかし、皇帝の姿がない。後宮を捜し回ったが、皇帝は見付からず、結局、彼らは皇帝を救い出すことができなかった。


 幸運は呈夙ていしゅくという男が掴み取った。

 皇帝はすでに皇城を出て、帝都である葵陽きようの外にいたからだ。

 皇帝をともなって逃げようとしていた宦官長の馬車と、葵陽に向かう途中であった呈夙の軍が行き会った。それは、まさに呈夙にとっては幸運としか言い様がない偶然であったに違いない。

 呈夙は宦官から皇帝を奪い、葵陽に進軍した。

 こうして、乱世が――、呈夙の暴政が始まったのである。


 呈夙が粛清を始めたので、峨鍈は葵陽から出て、祖父が邸を構えている琲州霖国に逃げ込んだ。

 帝都において己に逆らう者がいなくなった呈夙はますます横暴となり、いずれ呈夙は玉座を簒奪するだろうと誰もが予期し、危惧していた。

 その前に呈夙を討たねばならない。だが、ひとりでそれを為すには誰もが力が足りなかった。そこで、反呈夙連盟を結束し、皆で共に呈夙に立ち向かおうということになった。


 その時、連盟を作ろうと呼びかけたのは他の誰でもない、峨鍈だ。

 だが、宦官の孫である自分のもとでは誰もが納得しないだろうと盟主は他の者に頼んだ。頼むしかなかった。


(――結局は、血だ)


 盟主には、4代に渡って三公を輩出した名門瓊家の瓊倶がなった。

 名門というだけで人は納得し、兵が集う。

 この時、瓊倶は5万の兵を擁していたが、峨鍈の兵は5千しかいなかった。

 血がこれほどまで力を持つのかと峨鍈は苦々しく思う。 どんなに正しいことを叫ぼうと、峨鍈の言葉は天には届かない。


 ――高貴な血。

 そんなもの、と思って生きてきた。だが、結局、この天下では血が何よりも強いのだ。


(この天下か……)


 豪傑ごうけつ晤貘ごばくに敗退したのは、昨年の葵暦190年のことである。

 再び琲州霖国に戻った峨鍈は、青王朝の天下を生き抜くために高貴な血を求めたのだった。


「よくもまあ、返事が届いたものだ」


 夏銚は心底、感服したように言って、峨鍈から例の文を受け取った。それを両手で広げて文面に目を通して、僅かに眉を跳ねさせる。


「おいおい。お前自ら娘を取りに来いと書いてあるぞ」

「来れるもんなら来てみろということだろう」


 峨鍈は牀榻から立ち上がると、侍女を呼んで袍を羽織り、髪を結い直させた。侍女を下げるついでに、孔芍を呼びに行かせる。

 孔芍。あざな仲草ちゅうそう。峨鍈が琲州霖国に戻ってきてから迎えた軍師である。


 すぐに美しい男が峨鍈の私室にやって来たので、3人で書室しょさいに移動した。

 峨鍈が文机の奥に座ると、2人はその正面に座る。孔芍が夏銚から例の文を受け取り、文面に目を通すと、孔芍は美しく整った顔を峨鍈に向けた。


「試されていますね」


 きっぱりと言い切って、さらに続ける。


「冱斡国は渕州の内にあり、渕州は今や瓊倶の支配下にあります。――娘を娶りたければ、直々に貰いに来いとは、殿とのが瓊倶をどのように思っているのかはかっているのでしょう」

「瓊倶の兵は10万に達したと聞く。呈夙から逃れた多くの将が彼に下ったようだ。伯旋はくせん、お前もそいつらと同じなのか、それとも瓊倶の下にはつかずに己の道を行くのか、冱斡郡王は見定めるつもりなのだろう」


 孔芍と夏銚の言葉に、うむ、と峨鍈は頷いた。

 もちろん峨鍈には瓊倶の下につくつもりはない。そして、おそらく蒼昏は誰かの部将になる程度の男に娘を嫁がせたりはしないだろう。

 瓊倶の部下となり、平然と渕州にやってくるような男ならば不要。

 そうかと言え、瓊倶を恐れ、渕州に足を踏み入れられないような男ならば問題外といったところか。


「今はまだ、はっきりと瓊倶と敵対しているわけではありませんが、殿に下る気がない限り、敵地に踏み込むようなものです。危険極まりないですが、ここは出向かないわけにはいかないでしょう」


 孔芍の滑らかな言葉が途切れると、峨鍈は薄く笑みを浮かべた。手を軽く振る。


「お前たちを呼んだのは、意見を聞こうと思ったからではない。互斡国に赴くことを伝えようと思ったのだ」

「そうか。もとより行くつもりだったのだな」

「留守は仲草に任せる」

「承りました。殿の留守はお任せください」


 孔芍が畏まったように拱手して、ひとつの話題が終わると、必然的に斉郡のことに話題が移った。

 斉郡は併州の内にある。併州は北で渕州と、南で琲州に接している。斉郡では今、叛乱が起きていた。

 瓊倶は渕州と共に併州という土地も狙っているため、叛乱の鎮圧を斉郡の太守に命じたのだが、その者が無能なのか、少しも治まる気配はない。

 そうとなれば、この先、瓊倶がどう動くか見物だ。


「あの男が相変わらずであるのなら、近々使者が来るだろうな」

「来るだろうとも」


 夏銚が頷いたのを見て、峨鍈は嗤った。


「敵か、味方か。配下になるのか、否か、そろそろはっきりとしろと言ってくるだろうな」

「お前は常に言っていたのだがな。なかなか伝わらなくて苦労をする」

「まったくだ」


 峨鍈は苦笑を漏らした。

 瓊倶の下に付く日など、来るわけがなかった。 従うのか否かと問われれば、即答してやろう。否だ!

 なぜ、もっと早くに問わなかったのだと罵ってやりたい。

 幼い頃から答えは決まっていたのだ。 例え、命を落とすようなことになっても、お前の下には付かない、と。


「俺はいつか、あの男の上をいく。その為の血を手に入れる。あの男の血に対抗できるだけの血を。そして、いつか、どちらも切り捨ててやる。あの男の血も、あの男に匹敵するような血も、すべて根絶やしにしてやる。高貴な血? そんなもの……。血は血だ。万人が皆、赤い。高貴でも、腐ってもいない。――そうだろう?」


 峨鍈が、相手を射殺そうとでもしているかのような鋭い眼光で問えば、そうだな、と従兄が微笑む。

 厳つい顔だ。だが、その顔が笑むと、毒気を抜かれたようになって、ホッとする。

 その安心感を得たくて、幼い頃、よく彼を昼夜問わず呼び付けたものだ。そして、それは今も大して変わっていない。

 文机に頬杖をついて夏銚を見やり、峨鍈は、ふっと眼を細めて言った。

   

「石塢、おそらく後で来てもらうことになるだろう。いつでも出陣できるようにしておいてくれ」










【注意書き】

 この物語は、2005年8月に一度完結をしております。

 2025年3月から修正&加筆を開始するにあたって、登場人物の名前を変更しました。

 そのため、修正前に頂いた感想やレビューとは異なる点が出てきてしまいましたこと、書き込んでくださった方にお詫びします。

 峨瑛⇒峨鍈 薪塢⇒夏銚 楚雀⇒孔芍 峨旋⇒峨驕 など変更いたしました。

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