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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
3.葵暦191年の夏から初冬 併州斉郡 初陣 
19/60

5.許可を得てから入って来いよ


「何をしに来たんだ? それから、俺の許可なく勝手に室に入ってくるな」


 当然の反応だな、と思って峨鍈は苦笑を浮かべる。

 蒼潤を家族から引き離し、故郷から連れ出したのは自分だというのに、一ヶ月半も放っておいたのだから。

 昼間に蒼潤が爆発させた不満は当然のものだろうと峨鍈は思い直していたが、そんな峨鍈の心の内など知るよしもない蒼潤にしてみれば、今頃やってきて何の用だというものだ。


 しかし、峨鍈は、久方ぶりに顔を合わせて言葉を交わした蒼潤に激しく心を揺さぶられて、再びその顔を見て、その声を聞きたいと思ってやってきたのだ。


 峨鍈の視線に気付いた蒼潤の侍女が、蒼潤の肩にはだぎをそっと掛ける。すると、蒼潤はそれの袖に腕を通して羽織った。

 峨鍈は蒼潤の青い髪に指先を絡めながら尋ねる。


「楽しかったか?」


 調練のことだとすぐに察して蒼潤が、ぱあっと笑顔を見せて頷いた。


「うん。すごく楽しかった」

「しかし、怪我が多いな。これはどうした?」


 峨鍈は蒼潤の笑顔に満足しながらも、蒼潤の腹に青痣あおあざができているのを見付けて顔を顰める。


「これは大哥に打たれた。次は負けない」

「大哥? 子則しそくことか?」


 子則しそくとは夏範のあざななので、蒼潤は、こくん、と頷いた。

 峨鍈は目を見張って蒼潤の顔を見やる。


「お前、子則と手合わせをしたのか? 敵うわけがなかろう」

「なんでだ? 勝てると思ったから挑んだんだ」

「勝てると思ったのか……」


 呆れたと表情で告げ、峨鍈は蒼潤の侍女に向かって手を差し出して塗り薬を受け取った。

 それは片手に乗るほどの小さな器に入っており、峨鍈は器から薬を指先で掬うと、蒼潤の腹に薬を塗り込んだ。


「冷たい」

「動くな。じっとしていろ。――子則は幼い頃から石塢せきうに厳しく鍛えられている。木刀ではなく真剣だったら、お前の体は上下に分かれていたはずだ」


 しばらくは青く残りそうな痣だったため、峨鍈は多めに薬をつけて、蒼潤の腹を布で覆った。

 他に傷はないかと見やれば、肘や膝に擦り傷がある。こういった傷に効く塗り薬だと侍女から受け取って、そこにも峨鍈自ら薬を塗ってやる。

 痛い! しみる! と蒼潤は文句を言っていたが、それでも今日は随分とご機嫌のようで、口角を上げて峨鍈に振り向いた。


「兵たちの馬の扱いを向上させたいって言ったら、ちょこっとだけ打毬だきゅうを教わったんだ」

「ほう、打毬か」

 

 それは馬に乗って杖を振るい、毬を門に通すことを競う遊びである。

 

「お前、好きそうだな」

「うん、好きだ!」


 即座に答えて大きく頭を縦に振って頷いた蒼潤の笑顔に、峨鍈はしばし面食らった。

 薬の入った器を侍女に返すと、蒼潤に向き直って再び青い髪に指を絡ませる。

 髪を引っ張られる感覚がするのか、蒼潤は煩わしそうに峨鍈の手を自分の手で押さえようとしたが、峨鍈は構わず蒼潤の髪を弄ぶ。

 すごく楽しい! と言って、蒼潤は打毬の話を続けた。


「またやりたいって言ったら、明日もやろうって。今日は大哥の組に負けてしまったけれど、やり方は分かったし、明日は勝てると思う」

「勝てたら言え。何か褒美でもくれてやろう」

「そんなの要らない。それより、徐姥じょぼ。お腹が減ったよ」


 ふいっと蒼潤は峨鍈から視線を逸らして、自分の乳母に声を掛ける。

 徐姥と呼ばれた乳母は蒼潤に向かって静かに微笑んでから、峨鍈に視線を向けた。


殿とのもこちらでお召し上がりになられますか?」


 ああ、と峨鍈は声を漏らす。

 そのつもりで蒼潤の室を訪れたわけではなかったが、この時刻に妻の私室にいれば、それが普通の流れだろう。そう思って答える。


「そうだな」

「すぐにご用意致します」


 徐姥は軽く頭を下げると、彼女の娘を連れて夕餉を取りにへやを出て行った。

 蒼潤ははだぎの前を閉じて帯を結ぶ。湿り気を帯びた髪はまだ青く、白い褝の上に這うように広がっていた。


「髪をいてもいいか?」

「えっ、なんで?」

「お前の髪に触れたい」

「はあ……、べつに構わないけど……」


 蒼潤は怪訝そうな顔をして侍女から櫛を受け取ると、それをそのまま峨鍈に差し出してくる。

 峨鍈は蒼潤の小さな手から櫛を受け取ると、侍女が掲げた松明の炎を反射させて瑠璃色に輝く髪に櫛を通した。

 上から下に滑らかに櫛が通る。櫛で梳けば梳くほど、髪は輝きを増して、さらさらと心地良い音さえ聞こえてくるようだった。

 蒼潤は大人しく峨鍈にされるままになっている。ただ、それだけのことなのに峨鍈の心は穏やかになっていった。


「何か欲しい物はないのか?」


 先ほど褒美など要らないと言われたが、何か贈ってやりたい気持ちがくすぶっている。

 打毬が好きだと言った蒼潤は、じつに嬉しそうだったが、そのように喜ばせてやったのが自分ではなかったことを不本意に思った。

 だが、蒼潤は少しも考える様子を見せずに、ない、と短く答えた。


「この青い髪に似合うような簪を贈ろうか。それとも、耳飾りが良いか?」

「お前、俺がそんな物を欲しがっていると思っているのか?」


 じとりと見つめられて峨鍈は言葉に詰まる。

 今までの女たちならば、簪ひとつで機嫌を取れたものだが、蒼潤相手ではそうはいかないようだ。では、どうしたらと思うが、何も思い付かなかった。


 徐姥とその娘が膳を持って室に戻って来る。二人が腰掛けている牀の上に膳を置いて、蒼潤には白湯を、峨鍈には酒を盃に注いで差し出してきた。

 櫛を侍女に返して、代わりに盃を受け取る。喉をうるおしてから食事を始めると、蒼潤が再び調練での出来事を楽しそうに話し始めた。


「ひたすら剣を振り続ける訓練って、意味あるのかなぁって思っていたんだけど、やってみると、だんだん腕が重くなって剣を振れなくなってくるんだ。ちょっと休憩したいって言ったら、戦場に休憩はないって言われて、そっかーって思ったんだ。腕に筋肉がつけば、もっと長い時間、剣を振り続けて戦えるようになるんだから、あの訓練って、意味があったんだな!」


 どうでも良いような内容である。それに、蒼潤は峨鍈に向かって話し掛けているようで、その実は、峨鍈の反応などお構いなしに、自分自身のために話し続けているようなものだった。

 その様子がまるで母親に話しかけている幼子のようで、峨鍈は盃を口元に運びながら笑みを浮かべる。

 しかし、蒼潤の食事の進みが悪いことに気付き、峨鍈は眉を寄せた。口に料理を運ぶよりも言葉を放っている時間の方が長いようだ。


「しっかり食え」

「食べてる。あと、それから、燕が……」

「天連?」


 不意に蒼潤の口が重たくなる。怪訝に思って振り向けば、蒼潤は手の甲で目元を擦っていた。


「……眠い」

「おい、食事は?」

「もういい……。無理」


 蒼潤は頭を抱えるようにして、ごろんと牀の上に横たわってしまった。

 

「もう食わんのか?」

「んー」


 見やれば、蒼潤の膳には料理が半分以上も残ったままである。

 徐姥が峨鍈に向かって首を横に振った。


「こうなっては朝まで寝てしまわれます。私たちで臥室しんしつに運びますので、殿はお食事を続けてください」

「いや、俺が運ぼう」


 峨鍈は牀から立ち上がると、赤子のように寝入っている蒼潤の膝の下に片腕を差し入れ、さっと抱き上げた。

 徐姥が申し訳なさそうな表情を浮かべ、松明を掲げて臥室までついてこようとしたので、峨鍈は彼女に視線を向けて制する。


「今夜はこのままこちらで休む。膳を下げて、お前たちも下がっていい」


 徐姥や他の侍女たちが頭を垂れたのを見て、峨鍈は蒼潤を抱えて臥室しんしつに移動した。

 奥に臥牀が置かれているだけの、さして広くもない臥室だ。

 窓から射し込んでくる月明かりだけを頼りに臥牀に蒼潤の体を横たわらせると、自分も臥牀に上がった。

 久しぶりに外を駆け回って楽しみ、ひどく疲れてしまったのだろう。

 蒼潤の寝顔を見ろして、その頬を軽く撫でる。


(それにしても本当に子供ガキだな、こいつは――)


 無防備に眠る蒼潤を恨めしく思いながら、峨鍈は蒼潤の隣に横たわった。

 そして、翌晩は前日よりも早く蒼潤の私室を訪れる。

 すると、室の戸が閉ざされていて、峨鍈は何事かと思いながら戸を押し開いた。


「だからぁっ!」


 室の中の侍女たちが一斉に峨鍈に振り返り、蒼潤の高い声が響いた。


「許可を得てから入って来いよ!」


 調練を終えて室に戻った蒼潤が、湯浴みをしている最中だった。

 湯で満たした大きな桶の中に座り込んでいる蒼潤を見下ろして、峨鍈は、にまにまと笑みを浮かべる。


「ちょうど良い頃合いに来られたようだな」

「はぁ!? どこがだよ!」


 バシャンと大きく水面を波立たせて蒼潤が下から睨んできたが、峨鍈は構わず問いかけた。


「お前は毎日、髪を洗うのか?」

「徐姥が洗えって言った時に洗う」


 蒼潤の言葉が足りないと感じたのだろう。徐姥が付け加えるように答える。


「出歩かれました日には洗うようにしております」

「では、今日も洗うのだな。よし、俺が洗ってやろう」


 言って袖を捲り上げた峨鍈に蒼潤は、はぁ!? と声を上げた。信じられないものを見るかのような目付きだ。

 だが、峨鍈はそれにも構うことなく、大きな桶の前に腰を下ろすと、蒼潤の髪紐を解いた。

 水面の上に流れるように広がって、みるみるうちに青く染まっていく髪に峨鍈は魅入る。

 手桶で湯を掬い、蒼潤の髪に湯をかけていけば、かけたそばからさらに青が広がった。


「面白いなぁ」

「遊んでいるだろう」


 胡乱げに言われて峨鍈は苦笑を浮かべると、ヒエのとぎ汁を蒼潤の青い髪に塗り込んでいく。






【メモ】

打毬だきゅう

 ポロみたいな騎馬競技。

 紀元前6世紀のペルシャが起源で、西に伝わってポロに、東に伝わって中国で打毬となる。

 三国志時代には伝わっていなかったかも。でも、ボールのようなものは1世紀には既にあったらしいし、

 蹴鞠サッカーは、紀元前300年頃から軍事訓練として行われていたみたい。

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