3.俺とは反応が違い過ぎる
荒々しく床を踏み鳴らし、書室を飛び出すと、衝立の外に向かって峨鍈は声を荒げた。遠くで控えていた者が何事かと血相を変えて駆けくる。
その姿を見て、更に大声を張り上げた。
「石塢! 石塢を呼べ。すぐにだ!」
命令を受けた側仕えの男は、こちらにたどり着く前に体を翻して郡城に向かって駆けていく。
その後ろ姿を眺めながら峨鍈は気持ちを落ち着かせようと、大きく深呼吸を繰り返した。
倒れた蒼潤に手を差し延べたのは孔芍だ。彼は書室を出て行った峨鍈にも聞こえるような、よく響く澄んだ声で尋ねてくる。
「今までの話から推測いたしますと、蒼夫人――貴方は男子なのですか?」
誤っていたら申し訳ございません、と先に頭を下げておきながら、すでに確信しているかのような口調だった。
蒼潤は頷いたようだ。そうですか、と呟くように言う孔芍の声が聞こえて峨鍈は振り返る。
俺は、と峨鍈は書室に戻りながら言った。
「龍を手に入れたのだ」
――ただ、蒼家の血を手に入れたわけではない。
県主でも郡主でもなく、玉座にさえ座る権利を有した龍を妻にした。
蒼潤の髪が水に濡れて青く染まったのを見た時に峨鍈は思ったのだ。この少年の代わりは他にない、と。
唯一無二の存在だ。だから、けして失ってはならないのだ。
峨鍈は、床に尻もちをついた格好のまま茫然としている蒼潤に振り向いて、目線を合わせるように蒼潤の前で膝を折ってしゃがむ。
また乱暴をされると思ったのだろう。蒼潤は、びくっと体を震わせた。
峨鍈は苦々しく思って、体を縮めた蒼潤に静かな眼差しを向け、落ち着いた口調で言う。
「お前は知らないのだ。俺がどんな想いで蒼家の血を欲したのか。どんな想いで、お前を欲しいと思ったのか」
そんなこと、と呟いて蒼潤は、ぷいっと峨鍈から顔を背けて言った。
「……知るかよ」
峨鍈は苛立ちを、ぐっと堪えて蒼潤の顎に指を掛けると、顔を自分の方に向けさせる。
(――天連、お前は知るべきだ)
睨むように蒼潤の顔に視線を注いだが、蒼潤は頑なに峨鍈と目を合わせようとせず、やがて峨鍈は蒼潤から手を放して立ち上がった。
そして、書室の奥に移動して敷物の上に、どすんっと苛立ったように座った。
夏銚がその姿を現すまでの間、峨鍈は文机に頬杖をつきながら書物の文字を目で追っていた。
蒼潤は大人しく峨鍈の正面に座っており、孔芍は室の片付けを再開させている。
書室の中は孔芍が立てる物音のみが響いていて、その静けさが峨鍈の苛立ちを募らせていた。
ちらりと蒼潤に視線を向ければ、蒼潤は固く唇を引き結んで俯いている。ずっと同じ姿勢で、じっとしていて、何を考えているのか分からなかった。
とにかく頑固だ。
こちらが宥めても縋っても、そして、脅しても、意思を曲げようとしない。
(どうしてくれようか)
少しばかり痛い目を見れば大人しくなるだろうか。
死んでしまえとは言ったが、本当に蒼潤を死なせるわけにはいかなかった。
(もう少し扱いやすい子供なら良かったのだが……)
そう思う一方で、蒼潤が大人しい性格ならば、自分たちはあの厩で出会うことはなかっただろうと思う。
勝手気ままで、ちっとも言うことを聞かない蒼潤だから、自分は蒼潤を手に入れることができたのだ。
こうなったら、蒼潤という暴れ馬の手綱を曳く術を自分が会得していくしかないのだろう。
やがて、ドシドシと重たそうな足音が聞こえて来た。入室の許可を求める夏銚の声が響く。
まったく内容が頭に入って来なかった書物を文机の端に寄せて峨鍈が従兄を呼ぶと、すぐに見上げるほどの大男が書室に入って来る。
夏銚はぎょろりとした大きな目で書室の中を見渡して、ぐうっと喉を鳴らした。書室の重苦しい雰囲気を察したのだろう。
努めて明るい声で、なんだなんだ、と呆れたように夏銚は言った。
「不幸を招きそうな顔をしているぞ、伯旋」
「この顔は生まれつきだ」
「まさか。お前の顔はもっとマシな表情もできるはずだぞ」
それで? と床に腰を降ろしながら夏銚が用件を尋ねてきたので、峨鍈は蒼潤を指差した。
「こいつは、お前の息子だ」
「はぁ?」
「夏昂という」
「ちょっと待て」
意味が分からないと夏銚が腰を浮かせる。
すかさず、蒼潤が察して夏銚に向かって拱手をした。
「父上、精いっぱいお仕え致しますので、よろしくお導きの程お願い申し上げます」
鈴の音のような高い声が書室に響き、夏銚がぎょっとして蒼潤に振り向く。
それから説明を求めて孔芍に視線を向け、孔芍が何も言わないと分かると、再び峨鍈に視線を戻した。
「本当の名前は、なんという?」
「聞かない方がいい。聞けば、頭痛がするぞ」
「俺に拒否権は?」
「ない」
「この子供をどうしろと?」
「お前の配下におけ」
「戦場に連れて行くのか? こんな子供を! いくつだ? 親はどうした?」
親と聞いて、峨鍈は不意に可笑しさが込み上げてきた。なんと言っても、夏銚の狼狽ぶりが面白い。
親はお前だ、と片手を振って、はははっと笑い声を立てた。
「本人曰く、剣も弓も馬も得意だそうだ。ひとまず、調練に参加させてやれ。――それから、深江郡主の兵を夏昴の下におく」
「何っ!?」
もしや、と夏銚はぎょろぎょろとした目をさらに大きく見開いて峨鍈を、そして、蒼潤を見やる。
「この子は深江郡主と縁があるのか?」
縁どころか本人だ、という言葉を峨鍈は呑み込んだ。
夏銚は実直すぎる性格をしているため、今の段階では、夏銚にすべてを明かすつもりはなかった。
夏昂が蒼潤だと知れば、たちまち態度に現れ、夏昂の正体が周囲の者たちに知れ渡ってしまうことだろう。
裏表がなく、嘘もろくにつけない夏銚は、余計なことを考えることはせず、峨鍈の命じたことをその通りに実行すればそれでいいのだ。
そのように眼差しだけで告げれば、夏銚の方もそれ以上の言葉を重ねることを諦めた様子を見せる。
昴、と蒼潤を呼んで、夏銚は両手で膝を押すようにして立ち上がった。
「これからすぐに調練に出られるか?」
夏銚が承諾したと見て、峨鍈は胸を撫でおろす。
だが、その次の瞬間、峨鍈の目の前で蒼潤が体を跳ねさせ夏銚を見上げ、ぱあっと顔を輝かせた。
「今日から加わってもいいのか!?」
嬉々として夏銚に問い返した蒼潤を見て、峨鍈は呆気にとられる。
(は?)
峨鍈は片眉を跳ねさせ、蒼潤が、嬉しい、嬉しい、と仔犬が纏わりつくように夏銚の方に身を乗り出す様子に険しい視線を向けた。
夏銚も峨鍈同様に面食らったような表情を浮かべていたが、すぐに笑顔になって蒼潤の頭をわしゃわしゃと撫で回す。
すると、蒼潤が更に嬉しそうに無邪気に笑ったので、夏銚はその手で蒼潤の頬を摘まんで大きく笑った。
「そんなに嬉しいか。いいぞ、今日から調練に参加しろ」
「すぐに支度をする!」
言って蒼潤は、バッと床を叩くように両手をついて立ち上がると、夏銚の横を通り、書室を飛び出していった。
バタバタと駆けて行く足音が遠ざかっていき、やがて静まり返る。夏銚が峨鍈に振り向いた時には、峨鍈は再び苛立った表情に戻っていた。
「おいっ、なんて顔だ」
「俺とは反応が違い過ぎる」
「なんの話だ?」
峨鍈が蒼潤に触れようとすると、蒼潤はいつも峨鍈の手を振り払うのだ。
あんな風に無邪気な笑顔を向けられたことなどあっただろうか。
(石塢め、俺のものに勝手に触れおって……)
夏銚が蒼潤の頬を摘まんだのを目撃して恨めしい気持ちが胸の中で渦巻き、峨鍈は眉間に皺を寄せる。
不意に書室の隅の方で、ふふふっと孔芍が忍び笑いを漏らした。
その声に我に返り、峨鍈は脇息を引き寄せて体を寄り掛からせると、夏銚に向かって指を突き付けた。
「いいか、死なすなよ。絶対にだ」
△▼
蒼潤は具足を身に着け、互斡国から連れて来た兵たちの前に立つと、両手を腰に当てて高らかに言った。
「わたしは夏昂だ。以後、お前たちはわたしの指揮下に入る」
兵たちは、ぽかんと口を開いて蒼潤を見つめた。
彼らのうちのほとんどは、もともと農民や町人で、蒼潤の遊び相手だったり、或いは、その父親だったりする。
もとより軍属だった者は、幼い蒼潤に弓や剣の扱い方を教えていた者たちで、彼らの中に蒼潤の顔を知らない者はいなかった。
そんな彼らを前に、彼らの敬愛する郡主が偽名を用いて堂々と現われたのだから、唖然とするより他はない。
彼らの困惑した眼差しはいっせいに蒼潤の隣に立った甄燕に向けられた。
甄燕は蒼潤の姉の蒼彰の乳母の息子で、蒼潤の側近である。嫁いでから外に出て来られない蒼潤に代わり、互斡国から蒼潤について来た兵たちをまとめているのは甄燕だった。
蒼潤よりも2つ年上の甄燕は、幼さの残る顔に何とも言えない表情を浮かべて整列した兵士たちを見渡すと、こほん、と咳払いをひとつしてから言い放った。
「我ら深江軍は、深江郡主様の夫君の命で、夏公子の指揮のもと、郡主様の名を汚さぬ働きをすることとなった。今後は戦場に出ることもあるだろう。そのように心して調練に励め。――以上だ」
甄燕の改まった話が終わったとたんに、蒼潤がいつもの調子に戻って元気いっぱいに両腕を高く上げて言う。
「じゃあ、さっそく父上の兵たちと一緒に調練するよ!」
「「ちちうえっ!?」」
未だ状況が掴めない兵士たちが更にどよめく。
彼らの認識では、蒼潤が『父』と呼ぶ相手は、蒼昏に決まっている。しかし、蒼昏が斉郡にいるはずがなく、また、文官気質の蒼昏が調練を行うはずがないのだ。
【メモ】
呈夙
葵暦189年、蒼絃を帝位に着かせ、大傅となる。
帝都の葵陽をめちゃくちゃに荒らした他、粗悪貨幣を大量に発行して、経済を破綻させた。
瓊倶
字は供甫。四代に渡って三公を輩出した名門瓊家の御曹司。
峨鍈の最大のライバルであるが、幼少期では峨鍈が一方的に彼を嫌っており、瓊倶は峨鍈のことを弟分だと思っていた。残念な片思い。
梨蓉は初め瓊倶の妾にされるところだった。峨鍈が略奪したのだが、そのことを瓊倶はとくに気にしていない。弟にくれてやったと思っている。