2.お前に死なれたら元も子もない
「わたしは、蒼昏の子、蒼潤」
「わたしは孔芍と申します。字は仲草と……」
蒼潤に視線を合わせようと、孔芍も床に膝を着く。そして、片手で拳を握り、もう一方の手で拳を覆うように拱手をして名乗り、すべてを言い終えないうちに、その端正な顔を一瞬の間をおいて、さぁーっ、と青ざめさせた。
「蒼……っ、互斡郡王の子!? では、深江郡主、――蒼夫人‼」
孔芍は腰を浮かせて、何度か口を開け閉めする。
信じられない。――いや、そんなはずはない、と彼は峨鍈と蒼潤に代わる代わる視線を送った。
しかし、峨鍈も蒼潤も黙ったまま何も言わないので、彼は自分の考えが正しいのだと受け止めたようだ。
腰を落とすと、こほんっと咳払いをひとつして、努めて穏やかな口調で確認を取った。
「蒼夫人で間違いありませんよね? 蒼家の方をもうひとりお連れしたとは聞いておりませんので。ど、どうして、ここに蒼夫人が? いえ、それよりも、主君の細君を拝顔してしまったわたしは処断されるのでしょうか? そして、殿は女人に男装させる趣味がおありだったのでしょうか? 存じ上げませんでした……」
「落ち着け、仲草。そんな趣味もなければ、お前を処断するつもりもない」
「では! なぜ、このような場所に蒼夫人が男装していらっしゃるのですか!?」
慌てふためいた顔を見やり、峨鍈はその矛先を自分から逸らせようと視線を蒼潤に向けた。
「それは天連に聞こう。天連、なぜだ?」
蒼潤は一瞬怯んだような表情を浮かべたが、ごくりと喉を鳴らし、静かに口を開いた。
「頼みたいことがあって……。次の戦場には一緒に連れて行って欲しい」
「駄目だ」
随分と、もったいぶった様子で言ってくれたが、どんな風に言われようと峨鍈の答えは決まっている。
即座に切り捨てれば、納得できないのだろう、蒼潤が噛みつくように声を上げた。
「なんで!?」
両手を床に着き、前のめりになって峨鍈を睨み付けてくる。
蒼潤の生意気な態度は峨鍈にとって新鮮で面白く思えたが、それにしても蒼潤が自分の立場や価値をあまりにも理解していなくて、呆れてため息が漏れてしまう。
努めて、不機嫌そうな表情をつくり、じろりと蒼潤を睨み返した。
「今、お前に死なれたら元も子もない」
「俺は死なない! 剣も使える。弓も。馬にだって、誰よりも速く走らせることができる!」
蒼潤が声を荒げてきたので、峨鍈は片手を振って、分かっている、と応えた。
蒼潤が年齢の割に武術に優れていることを承知の上で反対しているのだと。
「お前はまだ14歳だ。初陣には早すぎる」
「いいんだよ、早くて! 俺は早く戦場に立ちたいんだ!」
「繰り返すが、お前が死んだら元も子もない」
「そう言って、俺を厳重に守り固めた籠の中で閉じ込めておくつもりだろう。俺はここ一ヶ月半、北宮の外には一歩も出ていない。馬にだって乗っていないんだ。剣を振るうことも、弓を引くこともなく、毎日毎日、室に籠もって過ごしてきた。もう限界なんだ!」
わかった、わかった、と峨鍈は苦笑を浮かべる。
その通りなのだろう。互斡国でも姉の蒼彰に大人しくしているようにときつく言われていても、3日目には抜け出していた蒼潤だ。
斉郡城に到着してから今日まで、一ヶ月半もあった。そんな長い時間を室に籠って過ごしていたのだから、驚異的に頑張ったのだろう。もはや限界に違いない。
峨鍈は心から、偉い、偉い、と蒼潤の我慢を褒めてやるつもりで蒼潤の頭をくしゃりと撫でた。
「遠乗りに連れて行ってやる」
それくらいのご褒美ならくれてやってもいい。自分にとっても気晴らしになるだろうし、時間も取れる。――そうと思った時だ。
蒼潤が、だんっと床を拳で叩き、立ち上がり、上から睨むように峨鍈を見下ろしてきた。
「邸の奥に閉じ込められ、己の意志では指一本さえも動かせずに、激しく動いていく世の中をただ見ていることしかできないなんて。そんなの傀儡と同じだ! ――峨伯旋! お前は俺に教えてくれるって言った。それなのに、先の戦にだって、お前は一人で行ってしまうし、きっと次だって俺を置いていくつもりなんだろ! 俺を傀儡にしようとするお前なんて、呈夙や瓊倶と同じだ!」
「なんだと……っ‼」
さっと気色ばんで、峨鍈は蒼潤をじろりと睨む。
他のどんなことを言われても、おそらく笑みを浮かべながら聞き流しただろう。だが、よりにもよって瓊倶の名前を出して自分を非難するとは!
瓊倶と一括りにされた。それは、峨鍈の唯一の逆鱗に触れるようなものだった。
しかし、蒼潤は峨鍈の瞳の奥に宿った怒気に気が付かないまま、峨鍈の怒りを煽るように口汚く罵り続ける。
「お前は噓つきだ! 俺にいろんなことをたくさん教えると言っていたのに、邸の奥に閉じ込めやがって。斉郡に来てから、お前と顔を合わせたのは何回あったかな。ははっ、二回だ。出陣する前日と帰城した日に、いってらっしゃい、おかえりなさい、って言ってやったんだよ。それだけだな! ――こんな軟禁生活が待っていると分かっていたら、お前のところになんか嫁がなかった!」
蒼潤は息を乱して肩を上下させた。言いたいことを言い終えたという様子である。
峨鍈は無言で、すくっと立ち上がった。目線が逆転して、今度は峨鍈が蒼潤を見下ろす格好になる。
とたん、蒼潤の顔に脅えが見え始めた。黒々とした瞳を揺らしながら峨鍈を見上げてくる。
「もしも、お前が戦場で命を落としたら、俺はどうなる?」
低く、地の底から響いてきたかのような声で、妙にゆっくりと峨鍈が蒼潤に問いかけた。
「今、俺のもとに人が集まってきているのは、お前を――深江郡主を娶ったからだ」
峨鍈は言葉を放つにつれて、自分の表情から感情を消していく。気持ちを落ち着かせることに努めながら膝を折ると、再び床に腰を下ろした。
そして、両手を伸ばし、蒼潤の両手首をがしりと掴む。蒼潤は怯えたように肩をびくんと跳ねさせた。
蒼潤に恐れを抱かせるのは峨鍈の本意ではないため、峨鍈は懇願するように蹲って、掴んだ蒼潤の手首に己の額を押し付ける。
「もうしばらく待っていてくれないか。お前のために力をつけているところなのだ」
「それなら、一緒に力をつけたい。俺は俺の手で玉座を掴みたいから、一緒に戦って、俺も強くなりたいんだ。――それに、たとえ俺が戦場で命を落としたとしても、お前に迷惑はかけない」
俯いた峨鍈に向かって、何も分かっていない蒼潤が戯言を並べてくる。
「深江郡主が峨伯旋の妻になったという事実は、すでに世の知るところだ。そして、今後も深江郡主は峨伯旋の妻であり続けるだろう。――だから、もしもの時は、一人の名もない少年が死んだことにしたらいい。だって、深江郡主が戦場にいるはずがないだろ?」
「それは、つまり――」
不意に、それまで黙っていた孔芍が口を開いた。
「仮に、あなたが亡くなったとしても、その死を隠して、蒼夫人は生き続けていることにしろということでしょうか」
「ああ、うん。そうだ。それなら、伯旋には不利益が生じないはずだ」
「確かにそうですね。それどころか、蒼夫人が連れて来られた冱斡国の兵を動かせるようになりますね。彼らは深江郡主の兵ですから殿の命には従わず、正直、扱いに困っております。今のままでは無為に彼らを養うだけ。言ってみれば、穀潰しです」
聞こえてくる言葉は酷いが、おそらく孔芍が微笑んでいるであろうことは、雰囲気で分かった。
「今度の敵は百万。殿、今は一人でも多くの兵が必要な時だと思いますが、如何でしょうか?」
問われたが、峨鍈は蒼潤の両手首を掴み、そこに己の額を押し付けた格好のまま黙り込んでいる。
分かっていない、と峨鍈は思った。
孔芍は知らないのだから、それは仕方がないのだが、蒼潤はもっと己自身の価値を自覚すべきだ。
(お前は龍なのだぞ)
郡主を娶ったという事実だけが欲しいのなら、蒼潤でなくても構わなかったのだ。
蒼潤が死んで、蒼夫人という名だけが峨鍈のもとで生き続けたとしても、そんなもの、峨鍈にとっては、つまらないものでしかないのだ。
「潤」
僅かに掠れた低い声で蒼潤の名を呼ぶと、すぐに蒼潤は不快そうに片眉を歪ませた。
峨鍈は顔をゆっくりと上げて、静かな眼差しで蒼潤を見つめる。
心の内がひどく凪いでいた。だが、それは次の嵐の前兆に過ぎず、蒼潤に手を払われると、一瞬で荒れ狂った。
後ろに体を引いた蒼潤に手を伸ばし、その襟首を掴み、峨鍈は立ち上がる。その細い首が締まるように、ぐっと蒼潤の体を持ち上げた。
「くっ……‼」
咽を締め付けられ、苦しさに声を漏らす。
目線が合うまで、その小さな体を高く持ち上げれば、蒼潤は、ぎゅっと閉ざした瞼をこじ開けて峨鍈を睨んできた。
生意気な瞳だ。
無知な故の怖いもの知らずで、なんでも自分の思い通りになると信じている。
だが、世間はそう甘くないのだと、その瞳に思い知らせたい。
(――駄目だ)
峨鍈はきつく食いしばった歯の奥で、舌打ちをした。そして、ドスンと鈍い音を響かせて、小さな体を床に放り投げる。
傷付けてやりたいと思うが、それ以上に大切に守り育てたいという想いがあった。だから、こんな風に乱暴に扱うつもりなどなかったはずなのに。
ようやく手に入れることのできた蒼家の血で、貴重な龍だ。
崇めるように、敬いながら、幼い龍をこの手で慈しむつもりでいたのに、目の前の子供があまりにも自分の価値を知らずに自ら危険に飛び込もうとするので、腹立たしい。
(大人しく護られていればいいものを!)
いっそ忌々しく思って、言うべきではないと分かっていながらも言わずにはいられず言葉を吐き出した。
「そんなに死にたくば、死んでしまえ! 戦場で朽ちれば良かろう!」
【メモ】
部屋の入口には衝立が立てられている。
戸や扉は、ないことはないが、開け閉めが面倒臭いので、昼間は開け放たれていることが多い。
帘幕…部屋を仕切るカーテン。天井から床まで垂らされている。
カーテンのタッセルのような物を使って、帘幕が束ねられている時もある。
床帳…臥牀の三方面は彫刻の施された木製の壁に囲まれていて、天蓋があり、その天蓋から臥牀の入口に垂らされているカーテン。
臥牀の入口の床帳は、夜はしっかりと閉めるが、昼間はカーテンのタッセルのような物を使って束ねられている。