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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
3.葵暦191年の夏から初冬 併州斉郡 初陣 
15/56

1.臥室の女

 

 じん州の叛乱軍がへい州にせまっている。

 叛乱軍によって壬州刺史が討たれてから、その座は空白のままで、壬州は完全に叛乱軍の手に落ちていた。

 壬州の田畑を荒し、作物を喰い尽くした叛乱軍は、耐えがたい飢えを抱えて矛先を併州に向けたのである。


 そんな中、併州刺史から併州斉郡太守の峨鍈がえいのもとに援軍要請が届いた。――峨鍈の読み通りの流れである。

 瓊倶けいぐが、自分の知るままの男であることに、峨鍈はせせら笑った。


(さて、ここからだ)


 壬州叛乱軍のその数は、百万だと聞く。

 対して、自分の兵力はようやく1万5千を超えたところである。普通に戦っては勝てる見込みがない。

 誰もが思いもしないような奇策でもなければ、自分の命さえ危うくなってしまうだろう。


(もっと兵力があれば)


 北で勢力を二分している瓊倶や糜丹びたん、南の穆遜ぼくそん、皇室の流れを汲む蒼閤そうごうなどに比べたら、峨鍈は出遅れている感があった。

 ここから一気に巻き返すためには、どうしたら良いだろうか。蒼家の血を手に入れたとはいえ、まだまだ物足りなさが峨鍈を焦らせていた。


「……んあっ…」


 不意に自分の体の下で女が漏らした喘ぎ声が耳に届いて、物思いにふけていた峨鍈は我に返る。

 ――と同時に、へやの外で気配を感じて峨鍈は、ぱっと女から体を離した。

 気配は室の入口で立ち尽くしている。怪訝に思って臥室から出ると、私室の入口で顔を赤らめている蒼潤そうじゅんと目が合った。


「なぜ、ここにいる?」


 ぎょっとして峨鍈は蒼潤の幼い顔をまじまじと見やる。それは、半月ぶりに見た顔であり、今ここで見られるはずのない顔だった。


 峨鍈が太守に任じられてから、蒼潤は居室を太守の正室に相応しい場所に移している。そこは宮城の最も奥まったところにあり、そこに通じる門にはかんぬきを差し、衛兵も立たせていた。

 もちろん、それらは郡主である蒼潤を護るためのものであったが、同時に、城から抜け出すことを得意とする蒼潤を閉じ込めるものでもあった。


(あれ程度では、こいつを閉じ込めて置くことはできないということか)


 峨鍈としては、蒼潤を幽閉しているつもりはなく、勝手に動き回られたくない気持ちが強い。

 互斡国で暮らしていた時のように好き勝手に外を出歩かれて、万が一のことがあったらいけないと考えてのことだった。

 だが、その気持ちが強すぎたために随分と奥まった場所に閉じ込めてしまい、太守としての忙しさもあって出向くのが面倒になり、ついつい蒼潤のことを放置し過ぎてしまったのは、峨鍈の落ち度であった。

 

 痺れを切らして勝手に抜け出して来た蒼潤を見下ろし、峨鍈は己の不手際を苦々しく思う。だが、その一方で、久しぶりに会った蒼潤の姿に浮き立つものを感じた。

 蒼潤はじつに元気そうだ。そう思って、峨鍈は蒼潤の格好を眺めた。


 深衣ではなく、褶《丈の短い上衣》を纏い、ズボンを穿き、髪を頭の高い位置でひとつに括っている。

 少年の装いである。だが、丸みを帯びた顔立ちをしているため、峨鍈の目には少女が男装しているようにしか見えなかった。


 対して、峨鍈ははだぎを肩から引っ掛けただけの姿である。

 その乱れた格好に加えて、室に漂う雰囲気を察すれば、峨鍈が今の今まで何をしていたのか大抵の者なら分かるだろう。

 事実、蒼潤は頬を赤らめている。侍女たちの教育の賜物たまものに違いないのだが、この時ばかりは後ろめたさが峨鍈の胸をよぎった。


(だが、こいつは男だ。――しかも、子供ガキだ)


 梨蓉りように見付かってしまった時と同じような気まずさを感じた自分自身を滑稽に思って、瞬時に後ろめたさを振り払う。

 動揺を押し殺した瞳を蒼潤に向ければ、蒼潤は不快そうに顔を顰め、つっけんどんに答えた。


「お前に話がある」

「話? ――なら、中に入れ」

「無理だ。お前のへや、女臭い」


 汚らわしいとばかりに顔の前を片手で扇ぐ蒼潤に峨鍈は、やはりまだ子供ガキだと思って、くくっと笑った。

 視線をわざとらしく臥室の方へと流し、奥にいる女の姿を蒼潤に見せた。

 女は臥牀の上に仰向けに横たわり、白い裸体を晒している。それを目にした蒼潤が、さっと顔を青ざめさせたのが分かった。

 何か途轍もなく恐ろしいものを見てしまった、といった表情だ。そんな顔をされると、峨鍈は蒼潤を揶揄からかいたくなってしまう。


「お前はまだ経験がないだろう。指南役を探してやろうか?」

「必要ない」


 ぎょっとして蒼潤が峨鍈の顔を見上げてくる。その反応が面白くて更に言葉を重ねた。


「好みを言え」

「だから、いらねぇって! ――それより、俺の話を」

「分かった。あちらで聞こう」


 明らかに苛立っている蒼潤を軽く笑って峨鍈は蒼潤の肩を抱くと、臥室の反対側の私室の奥を帘幕たれまくで区切った書室しょさいへと蒼潤を促す。

 蒼潤は顔を顰め、すぐさま自分の肩から峨鍈の手を払い除けた。そして、ぐっと両手で峨鍈の体を押しやると、不機嫌そうに言った。


「寄るな。臭い。――くそっ!」


 悪態をついたと思いきや、蒼潤は峨鍈のはだぎを引っ張ると、ひと思いに剥ぎ取った。そして、それを汚物を扱うような手つきで室の隅の方へと投げ捨てる。


「何をする?」


 突然の蒼潤の行動に峨鍈は呆気にとられながら言った。すると、蒼潤は眉を吊り上げ、声を荒げる。


「だから、臭い! お前、体を拭け! そして、俺に近付くなっ!」


 信じらんねぇ、と言って蒼潤はくるりと背を向けた。

 その小さな背を見つめているうちに、峨鍈は可笑しさが込み上げて来て、くくっと声を漏らす。

 自覚がないままに、まるで女が嫉妬でもしているかのような様子を見せる蒼潤がいじらしいと思った。


 ふと、峨鍈は臥室に振り返る。すると、女が臥牀の上で体を起こし、にっこりと笑みを返してきた。

 その顔を見て、この女はこんな顔をしていただろうかと、峨鍈は怪訝に思う。


 女は、斉郡で古くから権勢を握る豪族のひとりが、どこで聞き付けたのか、峨鍈に賄賂は通じないと知って献上してきた女だった。

 若くて、そこそこ見目の良い女だと思い、この数日の間に何回か抱いたが、新雪のように清らかな蒼潤を目にしてしまうと、とたんに女がつまらないもののように思えた。


 峨鍈が視線を蒼潤に戻すと、蒼潤は峨鍈よりも先に帘幕をくぐって書室に足を踏み入れるところだった。そして、うわっ、と声を上げる。

 何事かと思って、蒼潤の肩越しに書室を覗き込んで峨鍈は、ああ、と声を漏らした。

 書室の中は、竹簡や墨のついた筆で、足の踏み場もないくらいに散らかっていた。あまり人には見られたくない惨状である。


仲草ちゅうそうを呼ぼう。片付けさせる。俺が下手に触ると分からなくなってしまうのだ」


 自分では片付けもできないと白状しているようなものなので、峨鍈は気まずく思いながら言った。

 すぐに側仕えの者を呼ぶと、孔芍こうじゃくを呼びに行かせる。


 孔芍には、しばらくてい県で留守を任せていたが、峨鍈が斉郡太守の任に着いた際に斉郡城に呼び寄せていた

 民政に関することは、彼無しでは立ち行かないところが多いからだ。


 孔芍を待つ間に峨鍈は下男に命じて、臥室の女を追い出し、湯を運んで来させた。

 湯に浸した白布で体をぬぐいながら、あの女を抱くことはもうないだろうと思う。そして、新しい衣を纏った。

 しばらくして、端正な顔をした細身の青年が回廊を急ぎ足でやって来る。肌が白く、中性的な雰囲気を纏ったその青年こそが孔芍であった。


「何か?」


 峨鍈の私室に入る前に孔芍は回廊で膝をついて拱手きょうしゅし、己が呼ばれた訳を尋ねる。峨鍈は彼に立つように告げると、顎をしゃくって室の中に入るよう促した。


「書室を使いたい。片付けてくれ」

「殿が散らかしたのですよ」

「頼む」


 仕方ないですね、と薄く微笑み、孔芍は衝立を避けて室に入り、書室の入口に立つと、近くに落ちている竹簡から手を伸ばした。

 手慣れたもので、みるみるうちに書室が片付いてくる。

 歩ける程になると、峨鍈は孔芍の脇を通り抜けて書室の奥へと移動し、敷物の上に腰を下ろした。蒼潤を手招く。

 すると、蒼潤も書室の中に入って来て、峨鍈と向き合う形で座った。


「それで?」


 話を促すと、蒼潤は唇を開きかけ、そして、すぐに固く結んだ。孔芍の方にちらりと視線を向ける。

 いったいどんな話をするつもりなのか、蒼潤は話の内容を孔芍に聞かせても良いものか戸惑う様子を見せて、峨鍈を見上げて来た。

 孔芍を下げるべきか。蒼潤が言い出しにくそうにしているのなら、そうすべきなのだろうと思い、口を開きかけた時、峨鍈よりも先に、孔芍が床から拾った竹簡を棚の中に片付け終え、涼しげな声を発する。


「ところで、殿。その方はどなたでしょうか? わたしの見覚えのない方ですね」


 ああ、と峨鍈は反射的に答えた。


「こいつは天連てんれんだ」

「姓は?」

「姓は……」


 はたと峨鍈は言葉を途切れさせた。そして、口を閉ざす。

 孔芍も峨鍈に振り向いて、拾った筆を手の中で纏め、じっと黙って峨鍈の言葉を待っていた。


「……」

「……」


 しばしの沈黙が書室の中の三人に、ずしりとし掛かってきた。蒼潤が黙り込んだ二人に代わる代わる視線を送り、居心地悪そうに体を縮めている。

 先に口を開いたのは、孔芍だった。


「殿、正直に仰ってください。わたしに隠し事をしても為になりませんよ」


 孔芍が、ぴしゃりと言い放つと、峨鍈は、適わない、とばかりに両手を上げ、蒼潤に向かって顎をしゃくる。

 名乗ってやれと言うと、蒼潤は膝を床に着けたまま孔芍に向き直った。













【メモ】

くつ

 宮殿たてものの中は基本的に土足禁止。

 履を脱いで、かいだんで回廊に上がり、へやに入る。

 蒼潤のように回廊を突っ走る主がいると、下男が履を持って追い駆けなければならない。大変。


 皇城の正殿は、土足OK。同様に、王城や郡城や県城の正殿も土足OK。

 室内では床に直接尻をつけて座る。正座が基本。そのため、室の中では履を脱ぐ。

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