13.初夜を経て、斉郡城へ
「お身体だけではなく、お心も大変幼く、郡主としてお育てしているためか、そちらの方面に疎くていらっしゃるのです」
「疎いどころか、関心を抱かれていないご様子です。どうにか知識だけはお伝えしたのですが、ご理解されているかどうか」
「形だけの婚姻とはいえ、できることはすると仰せになられたとか。そうとお聞きして、できる限りのことは致しましたが、なにぶん、あのような方なので、どうかご容赦ください」
再び頭を下げられて峨鍈は絶句する。
蒼潤は子供だとは思っていたが、乳母たちの話によると、峨鍈の予想を上回る幼さのようだ。
果たして、蒼潤の歳の頃、自分はどうだっただろうかと思い起こしてみる。関心がなかったどころか、女体に対して興味津々だったように思う。
峨鍈が初めて女を知ったのは13歳の時だ。その年、最初の妾を囲った。
対して、蒼潤は14歳で、経験がないどころか、精通さえしていないのだという。これは、もはや自分とは別種の生き物だと心得た方が良いだろう。
「承知した。無体は働くまい」
峨鍈の言葉を聞いて彼女たちは安堵した表情を浮かべると、馬車の中に声を掛け、馬車の入口を覆った幕をスルスルと巻き上げていった。
すると、薄暗い馬車の中に紅の婚礼衣装に身を纏った蒼潤が牀に腰かけている姿が見える。
峨鍈は長袍の裾を片手でたくし上げるようにして馬車の中に乗り込むと、紅の面紗越しに自分を大きな瞳で見上げて来る蒼潤を一瞥してから馬車の奥に腰を下ろした。
続いて、蒼潤の乳母が馬車に乗り込んで来た。彼女は侍女から膳を受け取ると、ひとつを峨鍈の前に置く。
乳母に促されて蒼潤が峨鍈と向き合うように座ると、その前にもうひとつの膳が置かれた。
乳母が馬車から降りて、入れ代わるように侍女が乗ってくる。彼女は抱えて来た布団を牀の上で広げて綺麗に整えると、すぐに馬車から降りた。
ざらりと入口の幕が下げられる。薄暗く狭い空間に蒼潤と二人きりになると、峨鍈は膳に添えられた酒瓶を傾けて盃に酒を注いだ。
その盃を口元に運ぼうとして、じっと大人しく座っている蒼潤に気付き、盃を膳の上に、ことりと置いた。
峨鍈は目の前の膳を横に移動させると、次に蒼潤の膳も横に移動させる。
二つの膳を退けてできた場所に峨鍈は膝を進めて、蒼潤の方に向かって手を伸ばした。
ぎしっと床板が鳴る。蒼潤が頭から被っている面紗の裾を、そっと持ち上げ、化粧を施された顔が現われるまで 捲り上げると、そのまま面紗を蒼潤の背中の方へ、するりと落とした。
「ずいぶんと大人しいな」
「暴れてもいいのか?」
「まずは食べろ」
言って、峨鍈は蒼潤から離れると、先ほど移動させた膳を二つとも元の位置に戻した。そして、盃を手にすると、いっきにそれを呷る。
蒼潤が膳に手をつけ始めたのを見て、峨鍈は再び盃を酒で満たしてから口を開いた。
「明日、斉郡に入る。斉郡城に寄るため、鄭県に着くのはいつになるか分からん」
鄭県は琲州霖国の内にある。
蒼潤には鄭県にある邸に向かうのだと話してあった。
「斉郡城? 斉郡で何かあるのか?」
「少しな」
蒼潤に聞かせる必要のない話だと思い、峨鍈は口を閉ざす。
ふーん、と蒼潤は鼻を鳴らして食事の手を止めた。
「食べ終えたのか? ――ほとんど食べていないな」
「食欲がない」
「体調が悪いのか?」
「そういうわけじゃない……」
緊張しているのか、体を縮めるようにして固くしている。
この悪童も恐れるものがあるのだと知って、何やら面白いと思った。どうやら侍女たちの努力もまるっきり無駄というわけではなかったようだ。
恐れるのは多少なりとも知識がある証だった。
――とは言え、蒼潤がその知識を活用する時は今ではない。
峨鍈は立ち上がり、するりと紅の長袍を脱ぎ捨てる。褝一枚になって、掛布を捲ると、牀に上がった。
「寝るぞ。明日も早い」
「共寝するのか」
「初夜だからな。――ほら、早く来い」
峨鍈は横たわると、蒼潤の方に体を向け、両腕を広げる。
その意図を察すると、蒼潤はますます表情を強張らせて頭を左右に振った。
牀は峨鍈に譲って、自分は床板に転がって眠ろうと考えているらしく、二つの膳を壁際に寄せて場所を作っている。
峨鍈がむくりと上体を起こした。
「世話の焼けるやつだ」
言うや否や、彼は蒼潤に向かって腕を伸ばした。
蒼潤は肩を掴まれ、強く引かれると、峨鍈の腕の中にすっぽりと納まった。
「嫌だ! 放せよ!」
「騒ぐな。外で耳を澄ませているお前の侍女たちが驚いて、押し入ってくるぞ」
「――っ!?」
峨鍈は蒼潤の頭から簪を抜き取ると床に放り、あっという間に蒼潤の体から紅の深衣を剥ぎ取ってしまう。
衵服だけを残して、他の衣はすべて床に落とすと、峨鍈は蒼潤の体を抱き直した。そして、そのまま背中から牀の上に倒れ込む。
「子供の体温だな」
蒼潤を自分の胸の上にうつ伏せに乗せて抱き締めた。
「温かい」
今の季節は陽が落ちると、昼間の暖かさが嘘のように肌寒くなる。抱き締めた小さな体が思いのほか心地良く、峨鍈は吐息を漏らした。
すると、腕の中で蒼潤が嫌そうに体を捩って藻掻いた。どうにかして峨鍈の腕から抜け出そうと考えているのだろう。そんな風にされては、悪戯心が芽生えてしまう。
峨鍈は蒼潤の顎に指を掛けて自分の方に顔を向けさせた。
「嫌だ」
「慣れれば嫌ではなくなる」
「絶対に慣れない。嫌だ……っ」
拒絶してくる言葉を呑み込むように蒼潤の小さな口を口で塞ぐ。
苦しいと胸板を叩かれ、息継ぎができるように少しだけ口を離してやり、掛布を引っ張って蒼潤の体を覆った。
もう一度、口づけて、深く探るようにしていると、やがて蒼潤の抵抗がやみ、くたりと細い体から力が抜けていく。
峨鍈は蒼潤の顔を自分の肩に埋めさせると、その頭をくしゃりと撫でてから抱き締め直し、温もりを味わうように瞼を閉ざした。
心地良さに満たされて、今夜はよく眠れそうだと思った。
▽▲
あと半日ほど進めば斉郡城だという場所で、琲州からやって来た峨鍈の兵と合流した。
率いてきたのは峨鍈の従兄であり、右腕でもある夏銚という将軍である。
その男は、蒼潤が馬車の中から遠目に見ても、他の者よりも頭ひとつぶん抜き出た大男で、彼のように体躯に恵まれた男を見ると、自分の体と比べてしまい、妬ましい気持ちが蒼潤の胸に溢れてきた。
蒼潤は簪を挿して深衣に身を纏い、今朝からずっと馬車の車輪がカラカラと回る音に耳を澄ませている。
その音がついに止んだのは、夕暮れ時のことだった。
斉郡城に着いたのだと知り、馬車の窓を覆った幕を少しだけ捲り、その隙間から外の景色を覗き込んだ。
(なんだ?)
違和感を覚えて蒼潤は顔を顰める。武装した兵士の数がやたら多く、何やら物々しい雰囲気だった。
斉郡太守が城壁の外まで出て来て峨鍈を迎えているのを見て、蒼潤は徐姥に面紗を被せられてから、呂姥の手を借りて馬車から降りた。
峨鍈の方に歩み寄ると、すぐに彼が気付いて蒼潤に振り向く。峨鍈と言葉を交わしていた斉郡太守の田稍も蒼潤に気付いて相好を崩した。
「峨殿の細君であられますか」
随分と幼い細君だと、蒼潤を見下ろしたその表情が物語っている。
蒼潤が睨むように田稍を見上げれば、すぐに面紗越しに目が合って、田稍は驚いたようにその目を見開いた。
はっとした峨鍈に蒼潤はすぐ腕を引かれて、彼の背の後ろに隠される。田稍も興味深そうな表情を浮かべ、蒼潤の姿を目で追いながら言った。
「峨殿は郡主様を娶られたとか。峨殿が戦場に赴かれている間、大切な郡主様はこの斉郡城でお預かりいたしましょう」
ご案内します、と田稍は言って、峨鍈と蒼潤を城壁の中へと促す。峨鍈に肩を抱かれながら蒼潤は城門をくぐった。
田稍は二人を郡城の賓客用の殿舎に案内し、ちらりと蒼潤に視線を投げ寄越してから去って行った。
蒼潤に割り当てられた室では、さっそく徐姥たちが荷物を解き始めている。彼女たちの邪魔にならないように蒼潤は峨鍈のもとに行くと、牀に腰かけ寛いでいる峨鍈の正面に立った。
「どういうことだ?」
「何がだ?」
「ここでいったい何が起きている? 先ほど、田太守がお前は戦場に行くと言っていた」
ああ、と峨鍈は頷いて蒼潤の腕を引く。促されるままに蒼潤は峨鍈の隣に座ると、そこでようやく斉郡で叛乱が起きていることを聞かさせた。
「俺も行きたい!」
「駄目だ。お前はここで人質だ」
「はぁ? 人質?」
「先ほど聞いただろ。俺が戦場にいる間、お前は人質としてここに留まる。そういうことで話がついている」
「預かるって、そういうことかよ」
田稍の言葉を思い出して蒼潤は、ちっ、と舌打ちをする。
ああ、と峨鍈は思い出したように言って、蒼潤の額を小突いた。
「いいか。普通の女は顔を俯かせて、男を正面から睨んだりしないものだ。お前ときたら、まともに目を合わせたな。男は女と目が合えば、勘違いする生き物なのだぞ」
「なんだそれ。意味が分からない。――っていうか、俺も男だ! いつも小華とは目を合わせて話をしているが、それで何を勘違いするって言うんだ?」
小華とは芳華のことで、蒼潤の侍女だ。
峨鍈は呆れたように息を吐いて、蒼潤の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「まあいい。田太守も戦場に行くから、滅多なことにはならないだろう。――明日、出陣する。すぐに戻って来るから、その間、大人しくしていろ。分かっているとは思うが、ここは互斡国とは違う」
「分かってる」
どうだか、と笑って言った峨鍈は、翌日、田稍と共に出陣した。
そのひと月後、斉郡の叛乱を鎮定したという報せが蒼潤のもとに届く。
ひと月も放っておかれて不満いっぱいの蒼潤に対して、峨鍈は、たったひと月で叛乱を鎮めたことで高い評価を得る。
人々は囁く。
――郡主を妻に迎えた峨鍈が力を付けているらしい、と。
更に、この戦で田稍は討たれてしまい、空になった斉郡太守の席を瓊倶の推薦で峨鍈が引き継ぐこととなった。
葵暦191年。峨鍈の兵は、1万5千を超えようとしていた。
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