11.龍は青く鮮やかに染まる
父上は、と蒼潤は峨鍈を見つめながら言う。
「密かに俺と寧山郡王の娘との婚姻の話を進めていたらしい」
「ほう」
「寧山郡王の娘なんて会ったこともないし、考えてもみなかった」
「だが、お前が龍であるのなら郡主を娶るのは当然のことだな」
蒼潤は、まさか峨鍈の口から『龍』という言葉が出てくるとは思ってもいず、瞳を大きくした。
すると、峨鍈はなぜ蒼潤が驚いたのか分からないとばかりに言う。
「蒼家の者は青龍の子孫だと聞いたが?」
「それを知る者は、蒼家の者と後宮のごく一部の者だけだ。お前がなぜ知っている?」
「俺の祖父は宦官だ」
あっ、と蒼潤は小さく声を漏らして、思い出したと頷いた。
「先帝の近くで仕えていたらしいな。そうか、知っているのか。べつに隠しているわけではないが、なぜかあまり知られていないんだ」
「それはそうだろう。青王朝の皇族が、実は、亡国の王族の血筋に乗っ取られているなどと、大ぴらに言えるわけがない。皇族に隠しているつもりがなくても、側近たちによって隠されていたのだと思うぞ」
そうなのか、と蒼潤は小さく呟いて顔を伏せる。
峨鍈が蒼家や龍について承知してくれているというならば、蒼潤にとって都合が良かった。一々説明をしなければならない手間が省けるし、青く染まる髪を見られても驚かれないで済む。
それに、青龍の子孫である自分を、きっと峨鍈は特別に思って、敬うように扱ってくれるはずだ。
現時点で、おそらく蒼潤が最も年若い龍である。
寧山郡王、越山郡王、そして、互斡郡王に今後、男児が生まれない限り、或いは、蒼潤が妻を娶り、息子を儲けない限り、蒼潤が最後の龍となるだろう。
恙太后にことごとく殺され、もはや4人しか龍は残っていないのだ。
次代の龍を生むために、いずれ蒼潤は郡王となり、郡主を娶ることになるだろう。いつの日か、その時がやって来るのだということを、峨鍈が察してくれることを願った。
「天連」
不意に呼ばれて、ぱっと顔を上げる。視線が合ったものの峨鍈はすぐに言葉を発さず、蒼潤は、ん? と小首を傾げた。
すると、ようやく峨鍈が柔らかく表情を崩しながら言う。
「龍は髪が青く変わると聞いたが、それは真か?」
「ああ、本当だ。見たいのか?」
「見たいな」
峨鍈が即答したので、よほど見たいのだと察して蒼潤はニヤリと唇を横に大きく引いた。
――なんて運がいい!
相手が先に手の内を晒してきたのだ。その望みを叶えてやる代わりに、蒼潤も自分の望みを言えばいいのだから。
蒼潤は峨鍈の方に、ぐっと身を乗り出し、挑むような視線を向けて言った。
「交換条件だな。里に行きたい。翠恋に会いに行きたいんだ。翠恋の仔馬の様子も知りたい」
当然、峨鍈は眉を寄せる。
予想通りの反応だから、蒼潤としては問題はない。ここからは交渉だ。上手に話を持って行けば、蒼潤の願いは叶うはずだ。
「明日の支度はできているのか? 荷造りは? 明日この地を発つぞ」
「それは小華たちがやっている。俺のやることはない。室にいると邪魔者扱いされるんだ」
「致し方がないやつだな」
「許可してくれるのか? お前が許可したと言えば、父上にも姉上にも止められないから助かる。――まあ、許可してくれなきゃ、抜け出すまでだな」
「それは困るな」
峨鍈は考え込むように親指の腹で己の顎をなぞった。そして、蒼潤の予想を越えた言葉を放ってくる。
「分かった。俺も一緒に行こう」
「えー」
「お前ひとりで行かせて、万が一、何かあったら困る」
「燕と一緒だから、大丈夫だ」
燕とは、蒼潤の従者の少年だ。
2つ年上で、蒼彰の乳母の息子である。蒼潤が生まれる前から宮城で過ごし、蒼潤が生まれた後は蒼潤と一緒に育ってきた。蒼潤にとって友のような存在だ。
姓は甄といって、互斡の地で古くから暮らしている豪族の息子でもあった。
これで甄燕の供が必要になったぞ、と蒼潤は面倒に思う。
更に面倒なことに、甄燕が一緒だと言っても峨鍈はまったく引かなかった。
「俺も行く」
ちぇっと蒼潤が拗ねたように峨鍈から顔を逸らした。
だか、考えてみれば、峨鍈が一緒だということを除けば、蒼潤の思い通りになっているではないか。外に出られるのだから良しとしよう。そう、すぐに蒼潤は気を取り直した。
「とりあえず、出かけても良いってことだよな。すぐに着替えてくる!」
善は急げと蒼潤は立ち上がった。
だが、そんな慌ただしい蒼潤の腕を峨鍈が素早く掴む。
「頬をちゃんと冷やせ。明日までに腫れがひかないと困るだろう。それに――」
そこで不自然に峨鍈は言葉を切って、室の入口に立てられた衝立に視線を向けた。
誰だ、と峨鍈が問えば、遠慮がちな声が返事をする。
「こちらに阿葵様――じゃなくて、天連様はいらっしゃいますか?」
甄燕の声だとすぐに気付いて蒼潤は衝立の向こう側に向かって言葉を返した。
「燕? どうかしたのか?」
すると、そっと足を忍ばせるように甄燕が室に入って来た。両腕で抱えるようにして水桶を持っている。
甄燕は、怪訝顔を向けてくる蒼潤の前にその水桶を置くと、中を満たしている水に麻布を浸して両手で掲げた。
「これで頬を冷やしてください」
「お前、ちょうど良い時に来てくれたな」
水桶を満たしている水を見て、蒼潤は心底そう思った。
きっと呂姥に頼まれてやって来たのだろうが、さすが甄燕である。蒼潤の欲しい物を、欲しいと思った時に差し出してくれる。
蒼潤は麻布には見向きもせずに水桶の前にしゃがみ込むと、その縁を両手でむんずと掴んだ。
そして、水桶を自分の頭の上に掲げ、そして、ざばぁーっと水を頭から被った。
「おいっ!」
峨鍈が驚きの声を上げ、甄燕は白目を剝いている。
蒼潤は、ゴトンと水桶を床に置くと、にこやかに峨鍈に振り向いた。
「伯旋、見ろ。色が変わるぞ」
ぽたぽたと毛先から雫が落ちて、蒼潤の足元に広がった水たまりに混ざる。
蒼潤の濡れた黒髪は、峨鍈の目の前で、みるみるうちに鮮やかに青く染まっていった。
――青く、鮮やかに煌めく。それはまるで瑠璃の輝きだ。
「美しい」
峨鍈が蒼潤の傍らに膝をついて、魅了されたような表情を浮かべて、惹かれるままに手を伸ばしてくる。
そして、蒼潤の髪をひと房、手に取った。
「これほどまでとは思わなかった。信じられん……。いったいどうなっているんだ」
心なしか、声が震えているように聞こえた。
そこまで関心を得られるとは思ってもみなかったので、蒼潤は峨鍈の反応に僅かながら怖さを感じて、早いところ彼の目から青い髪を隠したくなった。
「気に入ったのか。それはよかった。じゃあ着替えて来る!」
見せたからもう良いよな、と蒼潤は、すくっと立ち上がる。すぐさま室を出て行こうとすると、峨鍈も蒼潤を追うように素早く立ち上がり、蒼潤の肩を掴んだ。
掴まれた肩を強く引かれ、気付けば、蒼潤は峨鍈に抱き締められていた。
「え?」
峨鍈が自分の衣が濡れるのも構わず、蒼潤の青い髪に顔を埋めてくる。
何が峨鍈にそうさせるのか蒼潤にはまったく理解できず、彼の腕の中から逃れようとしばらく藻掻いたが、蒼潤が藻掻けば藻掻くだけ峨鍈が腕の力を強めるので、やがて諦めて蒼潤は峨鍈の腕の中に大人しく収まった。
「お前、濡れるぞ」
「構わない」
「苦しいから放せ」
「一刻も早くお前を手に入れたい」
熱に浮かされたように言われて蒼潤は返事に困った。
峨鍈が片腕で蒼潤の腰を抱いたまま、もう一方の手を甄燕に差し出し、先ほどの麻布を受け取ると、それで蒼潤の腫れた頬をそっと覆う。
腫れて熱を持った頬に触れた麻布は、ひんやりと心地よくて、蒼潤は瞼を閉ざした。
すると、何を勘違いしたのか、峨鍈が蒼潤の唇に自分の唇を押し当ててくる。
「違っ!」
やめろと言って、蒼潤は顔を思いっ切り逸らした。互いの唇が離れると、蒼潤は峨鍈をキッと睨み付けて言う。
「早く出掛けたい! 着替えて来るから放せよ」
「まだだ。もうしばらく頬を冷やした方がいい」
「自分でやるから、とにかく放せ」
「放したとたん、お前は逃げて、きっと頬を冷やさないだろう」
読まれていると思って、蒼潤はぐっと喉を鳴らした。
仕方がなく蒼潤は峨鍈が良いと言ってくるまで、その腕の中にいることにした。
△▼
旅立ちに相応しい晴れ渡った空だった。
蒼潤が峨鍈の隣で紅の婚礼衣装に身を包んでいる。頭から紅の面紗を被っているため、蒼潤の表情は分からなかったが、小さな体が大きな不安と期待を抱えている様子は見て取れた。
二人は共に蒼潤の両親に挨拶をする。その時に峨鍈は初めて蒼潤の母親である桔佳郡主と対面した。
なるほど。噂通りの美しさだ。とても子を3人も産んでいるとは思えないような、あどけなさを纏った小柄な女性だ。
その年齢を感じさせない容姿は仙女のようだ。
桔佳郡主は蒼潤に向かって細く消えそうな声で、お元気で、とそのひと言だけ言って視線を伏せた。
後から聞いた話によると、桔佳郡主は、いつ失ってしまうか分からない息子を遠ざけ、必要以上に会おうとしなかったのだという。
赤子の頃から世話は乳母に任せきりで、抱き締めたこともなく、褒めたことも叱ったこともない。
そうやって、万が一、息子が亡くなってしまった時の悲しみから自衛しているのだろう。
蒼潤の方も実の母だというのに、桔佳郡主に甘えることもなく、母上もお元気で、とだけ言って彼女に背を向けた。
【メモ】
この時点では、蒼潤は自分は峨鍈より立場が上だと考えている。
なので、峨鍈に『潤』と名で呼ばれると、ムッとなる。そして、『お前』呼び。
名はその人の本質を表し、名を呼ぶことでその人を縛ることができると考えられているため、他人や目下の者に名を呼ばれることを嫌う。