9.お前には俺がいる
敵は敵でしかないのではなく、可能であれば、己の力とすべく取り込む。
殺し尽くせば、自分だって無傷ではいられない上に何も得られないが、峨鍈は100万の叛乱軍を鎮めることで100万の民を手に入れた。
その発想力、その柔軟な思考に、蒼潤は憧れた。
それを、その時の想いをどうにか彼に伝えたくて、蒼潤は必死に頭を巡らせて言葉を選ぶ。
「――それでも、お前は100倍の戦力差を恐れなかった」
それなのに、と蒼潤は続けた。
「そんなに瓊倶が怖いか? 瓊家は名門だと言うが、その点で競うのならば、蒼家には適わない。お前は蒼家の郡王を伴侶にしているのだぞ」
自軍の100倍の叛乱軍か、或いは、6倍の瓊俱軍か、どちらかを選び戦わなければならないとしたら、果たしてどちらを選ぶだろうか。
峨鍈は100倍の叛乱軍の方が勝てると考え、選ぶに違いない。
蒼潤は、瓊倶に対する潜在的な敗北感を峨鍈の中に見つける。
そもそも峨鍈が蒼家の娘を妻にしようと考えたのも、瓊倶の血に対抗しようとしたからだ。
生まれや親から受け継いだ財とは関係なく、その者個人の能力で、生き方を切り開けるような国を作りたいと語っていたのは、彼自身だというのに――。
今まで峨鍈が口にしてきた理想に偽りはない。青王朝が血を尊び、血こそ力だと人々に思わせてきたことを覆し、血など関係ない国をつくるのだと語ったその気持ちに偽りはないのだ。
だが、瓊倶への劣等感が、度々、彼の正常な思考を妨げる。血を強く強く意識させてしまう。
「関係ないって言えよ。血だの、生まれなんか関係ないって。己の道は己自身の力で切り開いていくものなんだろう? 実力を重視した国をつくりたいって言っていたじゃないか。それなら、瓊倶に言ってやれよ。お前が誇っている血など自分との戦には通じないんだって」
それでも、と言って蒼潤は峨鍈の耳元に唇を寄せる。
「お前が血でも瓊倶に勝ちたいと言うのなら、お前には俺がいる」
――そうだ。俺がいる。
お前には俺がいるのだと、蒼潤は顔を上げて峨鍈の肩に両手を添える。彼の顔を見やれば、彼が穏やかな眼差しを蒼潤に向けて来た。
心なしか、顔色が良くなったように見える。
もう少し励ましてやりたいと思って、蒼潤は明るく声を響かせた。
「きっと、あいつの軍だって、烏合の衆だ。名門の血とやらに群がっている虫けらばかりだ。そいつらを蹴散らすために、俺に流れる血を利用すればいい。あいつらは、俺に流れる血をこの世でもっとも尊いと思っている。お前はそれを好きに使っていいんだ。お前のものなのだから」
深江郡王が峨鍈の陣営にいる。おそらく、それを理由に瓊倶から峨鍈に下って来る者もいるだろう。
この天下には、郡王には弓を引けないと考える者が少なからずいるからだ。
峨鍈の手が蒼潤の背に添えられる。求められていることを察すると、蒼潤は彼に体を預けた。
彼が自分を欲してくれることが蒼潤は嬉しかった。だって、蒼潤だって彼が欲しい。
ゆっくりと体が床に倒されていく。蒼潤は黒々とした瞳を見上げさせて、吐息を漏らすように言った。
「だけど、俺はお前には血以外のものでも瓊倶に勝って欲しい。勝てるはずだと思っているから――」
ああ、と彼が蒼潤に応えて蒼潤の口を塞ぐ。
からからに乾いた大地に水がしみ込んでいくように、蒼潤の中に彼が入ってくる。
蒼潤は己が持っているすべてを彼に捧げて、代わりに彼から温もりと心地良さと、安心と安全と、夢と希望と、それから、揺るぎない想いを貰う。
大好きだって思う。
捧げれば捧げるほど、大きなものを返されて、それが蒼潤の胸で溢れて、好きだという想いに変わる。
「好き」
熱に浮かされたように囁く。
すると、峨鍈がびくっと体を震わせて、痛いくらいに強く蒼潤を抱き締めてきた。
(好き。好きだから。だから……)
蒼潤も峨鍈の背に両腕を回して、ひしっと強くしがみつく。
そして、それが、さも天の定めた事実であるかのように言い放った。
「俺が選んだお前が負けるはずがない」
▽▲
力尽きたように眠る蒼潤を、蒼潤の乳母と侍女に任せて、峨鍈は久方ぶりに城壁の上に登った。
すぐに峨鍈の姿を見付けて柢恵が駆け寄ってくる。
「良かった。スッキリとした顔をしておいでです」
事実、峨鍈は蒼潤のおかげで心も体も澱みが流れたかのように晴れやかだった。
「状況は?」
「新たな土塁を築き始めています。あの櫓が厄介なので、いくつか投石機を用いて壊しましたが、あの通り、投石機の射程範囲外に建てられてしまい、難儀しております」
柢恵は可動式の投石機の他に、城壁にはひと回り大きな投石機を造っていた。
これは遠くまで石を飛ばせたが、それを可能にするだけの重量がある。故に、移動させることができない。
僅かに首を振ることができたので、左右に狙いを変えることはできたが、その射程範囲さえ把握してしまえば、敵にとって恐るに足りない物となってしまった。
「下の投石機を滑車で城壁の上に運び上げろ」
「承知致しました。さっそく取り掛かります」
言うほど容易くはないだろうが、柢恵ならばどうにかするだろう。
拱手して慌ただしく去る柢恵を見送ると、入れ替わるように夏葦がやって来る。
「おお。やっとお出ましか」
「もう一度、瓊倶の輜重隊を襲おうと思う」
「経路が分かったのか?」
「分からん。無駄足覚悟だ。どう思う?」
「何度か試しているうちに、どこかで当たりがくるだろう。俺はやるべきだと思う。何もしないというのは性に合わんからな」
夏葦らしい回答に峨鍈は頷く。
戦の勝敗を左右するいくつかの条件の中に、兵糧の充実がある。兵の数が多いほど、そして、兵站線を長くするほど、これは難易度が上がった。
瓊倶軍の兵站線は延びているし、兵数は30万を超す。僅かな兵站の失敗が命取りとなるだろう。
ならば、やはり峨鍈にとっての活路はここにあるに違いなかった。
再び執務室に戻ると、潘立を呼び、輜重隊の襲撃地点を話し合う。そして、それを夏葦と鍾信、熊匀に実行させた。
成功よりも空振りの方が多かったが、峨鍈は幾度か瓊倶軍の輜重隊を襲撃し、兵糧を奪い、奪えない時には焼いた。
そうして10日ほどが経った頃、瓊倶のもとにいた汪高が峨鍈に投降してきた。これこそが、孔芍が予期した勝機だと峨鍈は直感する。
汪高は、瓊倶軍の兵糧が不足していることを告げ、近々、瓊倶軍が大規模な兵糧の移送を行うという情報を峨鍈軍にもたらした。
「灰斗だそうです」
柢恵が峨鍈の前に広げられた地図に指を滑らせ、灰斗を指差す。
灰斗は、利斗より南だが、猩瑯の北東に位置した。
汪高の話によると、瓊倶は灰斗に兵站基地をつくり、そこに兵糧を集めているらしい。
そして、数日後に灰斗から自営への移送を大軍を用いて厳重に行い、この戦いに決着をつけるつもりなのだ。
ならば、その前に灰斗の兵站基地を攻撃するのが良いだろうというのが柢恵の主張である。
「しかし、罠かもしれません」
潘立の言葉に卞豹が頷く。そもそも汪高の投降が偽りかもしれない。
灰斗に兵站基地があるという情報を峨鍈の耳に入れて、そこを攻めさせ、猩瑯城の守兵を減らし、一気に猩瑯城を落とす策なのだろうと潘立は言った。
それに対して柢恵は顔を上げ、まっすぐ峨鍈の方を見つめて言う。
「確かに罠かもしれません。ですが、罠か否かは問題ではないのです。これは待ち望んでいた転機です。この時のために敵の輜重隊を襲い続けてきたのです。逃してはなりません」
柢恵は、孔芍が峨鍈に送ってきた文の内容を知っているかのような口ぶりだった。
――機を見逃さず動けば勝てる。
まさに今だと、峨鍈が直感したように柢恵も直感したのだ。
「罠だとしても、おそらくすべての情報が偽りではないはずです。我々の地道な襲撃で、瓊俱軍の兵糧は不足しているはずです。ならば、清河を渡り終えたところに兵站基地をつくり、兵糧を集めているという情報も真実だと思います」
「ただし、それが灰斗か否かは分からないと?」
「はい」
峨鍈の言葉に柢恵が頷いたので、峨鍈は拳で己の膝を打った。
「儂自ら騎兵1万で灰斗を攻める」
「危険です」
「だからこそだ。ここで勝敗が決まると言うのならば、儂は儂自身の手で賽を振りたい」
「では、夏将軍方にもそれぞれ1万ずつ率いて出陣して頂きます。灰斗を守るのは3万との情報ですが、近くに潜んでいる可能性を考えて、お二方には灰斗の近くまで出て頂き、必要があれば殿の掩護を」
夏銚と夏葦が柢恵の言葉に頷く。
鍾信と柢恵は峨鍈の下につき、熊匀と卞豹もそれぞれ数千の兵を率いて出陣することが決まり、峨鍈は眉を顰めて柢恵に視線を向けた。
「それで城を守る者は?」
「天連が良いかと」
「何? 天連だと?」
「殿が天連を連れ回したいと仰せなら、他の者を考えますが。――潘殿に天連の補佐をお任せします」
柢恵が潘立に視線を流したので、峨鍈もつられるように潘立を見やった。
潘立は覚悟を決めたような顔をしている。
「猩瑯城は必ず守り抜きます。もちろん、郡王殿下のことも」
「だが、どれほどの兵が城に残るのだ?」
「深江軍と1万5千弱ですね。その数で少なくとも5万の兵が城に残っていると思わせなければなりません」
柢恵が淡々と答える。
「我々は日没後に城を抜け出します。夜のうちは知られることはないかもしれませんが、朝になれば守兵の数が減っていることが明らかになってしまいます。そうなれば、瓊俱軍は攻め立ててくることでしょう」
「……」
峨鍈が不安げな表情を浮かべると、その顔に向かって柢恵は続けた。




