8.傷ひとつ負ってはならない
「瓊俱には決断する能力がありません。また、予測を越えた事態に陥った時に対処する能力がなく、ただ、ただ、崖を転げ落ちるのみ。しかし、殿は即断ができる方。その後も臨機応変に対応することができ、けして道を見失うことがありません。だから、殿が勝つのです」
随分と、と言って蒼潤は唇の端に笑みを浮かべてニヤリとする。
「大げさに、あいつを褒めてくれたのだな」
「あらまあ、大げさだなんて。そんなことありませんよ、天連殿。――仲草殿はこうも申しておりました。瓊俱軍において必ず何かしらの事が起こるから、その機を見逃さず動けば勝てると」
人望を失いつつある瓊俱の周囲で何かが起こる。それを即断できる峨鍈が見逃さなければ、勝てる。
つまり、孔芍が言いたいのはそこだ。それまで、ひたすら耐えろ、と。
それを言いたいがために、きっと梨蓉が話してくれたこと以上に峨鍈を褒め称え、気分を良くさせるような言葉を書き連ねたに違いない。
だけど、孔芍が峨鍈に捧げた称賛の言葉を聞いて思うのは、魏壬のことだ。
真心と誠意で人々と接した結果、忠義心を抱いた者たちが峨鍈の周りに集まると言うのであれば、魏壬には峨鍈の真心と誠意が届かなかったということになる。
(あんなにも優遇してやってたのに)
蒼潤は魏壬が去ってしまったことを残念に思いながら、階に腰を下ろした。嫈霞に勧められて器から梨を摘まむ。
梨は丁寧に皮を剥かれ、食べやすく切り分けられていた。
寧が蒼潤の隣に寄って来て、蒼潤を真似て梨を選び、握り締める。
「梨、おいしいねー。天連さま、もっとたべて」
「うん。寧もいっぱい食べろ」
ふと視線に気付き、蒼潤は峨驕を見やる。
梨蓉たちがやって来る前に取った姿勢のまま不貞腐れた様子で佇んでいた。だが、峨驕は蒼潤の視線に気付き顔を上げ、蒼潤と視線が合うと、パッと顔を背けた。
蒼潤は呆れて、ため息をつく。
器から葡萄をひとつ摘まむと、それを峨驕に差し出した。
「ほら、お前も食べろ」
「天連様は………」
「ん?」
峨驕は蒼潤の方を見ずに、ぼそぼそと零すように言う。
「父上のもとに行ってしまわれるのですか?」
「ああ、うん。来て欲しいみたいだからな。結局、あいつが葵陽で俺に何を頼みたかったのか分からなかったなぁ」
「いつ戻られますか?」
それは峨鍈が瓊俱に勝ったらだと思ったが、果たしてそれがいつ頃になるのか見当がつかなかったので、蒼潤は肩を竦める。
「さぁ、分からない。――ほら、受け取れ」
もう一度、峨驕に向かって葡萄を差し出すと、峨驕はおずおずと手を広げたので、その手のひらの上に葡萄をころんと乗せてやった。
「どうか、くれぐれも気を付けて」
葡萄を見つめながら峨驕が言う。
蒼潤と視線を合わせようとしない峨驕を訝しく思いながら蒼潤は、ああ、と言って頷いた。
峨桓も峨軒も器に手を伸ばして選んだ果物を口に運んでいたが、どことなく峨驕の雰囲気に異様さを感じて彼を遠巻きにしている。
梨蓉たちも何も言わない。ただ、寧だけが蒼潤の気を惹こうと、果汁で汚れた手で蒼潤の袖を引いて話し掛けて来る。
蒼潤の注意が寧に向きかけたのを察したように、峨驕が蒼潤の字を口にした。
「天連様」
「どうした?」
「傷ひとつ負ってはなりません。もしも、貴方に何かあれば、きっと俺は貴方を傷付けた者を一生かけても許せないと思うのです」
「驕?」
低く暗く響いた峨驕の声音に驚いて彼の顔に目を見張れば、峨驕が視線を上げて蒼潤を見た。
峨鍈に似た鋭い眼差しに、蒼潤は思わずドキリとする。
射抜かれたようになって息を止めてしまう。すると、峨驕は蒼潤の顔を見つめたまま言葉を続けた。
「地の果てまで追って、追い詰めて、切り刻んでやりたくなる」
ゾッとして蒼潤は肝が冷えるのを感じた。
知らない。誰だ、こいつは、と蒼潤は目の前の少年を凝視する。
だが、彼は峨鍈の息子であり、蒼潤にとっても大切な家族であるはずだ。そんな峨驕に対して自分が恐れを感じるはずがない。
(気のせいだ。気のせい。驕はただ、俺のことを案じてくれているだけだ)
蒼潤は平常心を取り繕って笑みを浮かべ、峨驕の肩を軽く叩いた。
「大丈夫。擦り傷ひとつ負わずに帰ってくることを誓うよ」
だから、心配するなと言って蒼潤は立ち上がる。
猩瑯城に向かう支度をしなければならないと、まるで言い訳のようなことを口にして、その場を去った。
不安と恐れが、瓊俱とは異なるところから忍び寄ってきているような気がして、蒼潤は一刻も早く峨鍈の腕の中に飛び込んで、安心させて貰いたかった。
▽▲
徐姥と呂姥を伴ない、蒼潤は馬車で葵陽を発ち、猩瑯城に移動した。馬車の周りを深江軍が固める。
猩瑯城は、斉郡猩瑯県の県城である。
元々、県城としては大きな部類であったが、それを此度の戦に備えて堅牢な城に改築された。
猩瑯城の北側は瓊俱軍に包囲されているため、蒼潤は南から城内に入り、真っ直ぐ内城へと向かった。
馬車の中から街並みを眺めながら大通りを進む。
老人や病人、幼い子供や若い娘、その他でも望む者は戦が始まる前に城を出され、葵陽に避難させられていた。そのため、街なかは若い男ばかりが目につく。
時折、兵士たちが連れ立って駆けていく姿を見掛けたが、こうしている今も瓊俱軍に攻められているというわりに、街の様子は落ち着いていた。
内城の大門をくぐる。県庁が立ち並ぶ横を抜けて宮城に向かい、やがて馬車が宮城門の前で止まったので、蒼潤は長袍の裾を捌ながら馬車から降りた。
ふと、北の空を見上げると、空は不気味に暗かった。絶えず大量の矢が飛び交っているからだ。
「天連、待っていた。殿は執務室だ」
柢恵の出迎えを受けて蒼潤は門をくぐる。
深江軍のみんなは兵舎に向かい、徐姥と呂姥は先に北宮に向かった。甄燕だけを伴なって、蒼潤は柢恵の案内で前庭から階を上がって回廊を進んだ。
「伯旋が弱気になっていると聞いたけど?」
「弱気になっていると言うか、気が滅入っておられるんだ。夏将軍の言葉を借りると、不幸を呼び寄せそうな顔をしておられる」
「元々そういう顔だろう」
「お前が来ることになって、少しは明るくなられた。だけど、執務室から出て来られない」
「外に追い出せばいいのか?」
うん、と柢恵が頷き、峨鍈が籠っているという執務室の前で歩みを止める。
室の戸が閉められていたので、蒼潤は甄燕に振り返った。
室の戸は、通常、昼間ならば開け放たれていることが多い。戸を閉める代わりに出入り口に衝立を立てるのだ。
夜間や雪が降るほど寒い日は戸を閉める。他にも、沐浴中だったり、他の者には聞かれたくない話をする時にも戸を閉める。
人の出入りを制限したい、人に会いたくないという意思表示のために戸を閉めたりもする。
「わたしは外で控えております」
「俺は仕事に戻るよ。城壁の方を見に行かなければならない」
「分かった。まあ、任せておけ」
甄燕と柢恵に向かって、にっと唇の端を上げると、蒼潤は峨鍈の執務室の戸を引き開けた。
自分ひとり通れるほどの隙間をつくると、するりと室の中に入って後ろ手に戸を閉める。
室の奥に座している彼の姿を見つけて、蒼潤は口元に笑みが溢れてしまう。抑えきれない嬉しさを隠したくて、わざと足音を立てて彼に歩み寄った。
「来たぞ」
「来るなと言ったがな」
すぐに返事があって、彼が文机に広げた書簡から顔を上げる。
その顔がやつれているように見えたので、蒼潤の嬉しさは心配に切り替わる。文机の横を通って彼の傍らで膝をついた。
「弱気になっている者がいると聞いたが?」
「そんな者はおらん」
「へえ」
だったら、室の中に籠ってばかりいないで、外に出たらどうだと言い掛けたが、口を閉ざす。
彼が強がっていることを感じたからだ。
では、代わりになんて言ってやろうか。言葉を選んでいると、彼の手が伸びて来て、蒼潤の腕を掴んで、引く。
蒼潤は峨鍈の膝の上に彼と向かい合うように座らされ、抱き締められた。久しぶりの温もりと彼の力強さを感じて、蒼潤も峨鍈の首に両腕を回す。
心地良さにうっとりしながら蒼潤は無自覚のまま閉ざしていた瞼を開いて、昼間だというのに薄暗い室の中に視線を流した。
たちまち猩瑯城にやってきた目的を思い出す。彼に会えた嬉しさに、うっかりそれを忘れてしまっていた。
蒼潤は自身が安心するために猩瑯城に来たわけではないのだ。
峨鍈の肩口に額を押し付けながら蒼潤は言った。
「兵力差が6倍ともなると、勝てないと思うものなのか?」
無音の室の中に蒼潤の声だけが静かに響く。
「お前は以前、杜山郡に攻め入って来た壬州の叛乱軍を制圧しただろ。あの時は100万だった。味方は1万と5千しかいなかったのに」
葵暦192年のことだ。峨鍈は38歳で、蒼潤は15歳だった。
8年ほど前のことだが、蒼潤は今でもその時のことを明確に思い出せる。だって、彼の戦を目の当たりにして彼の凄さを知ったのは、その戦が最初だったからだ。
「あれは農民による叛乱だった。彼らには大した策もなく、ただの烏合の衆だった。――それに、儂はいっさい交戦しなかった」
峨鍈が杜山郡に到着する前に、当時の併州刺史や杜山郡太守の指揮で何度か叛乱軍と戦火を交えていたが、峨鍈に指揮権が移ると、峨鍈は杜山城に籠城し、冬が過ぎていくのを待った。
長い冬の間に叛乱軍は飢え、餓死者を多く出し、その死体を焼いて生き残った者の糧としても彼らの飢えは一向に満たされることがなかった。
そんな状況下で峨鍈は彼らの前に身を晒す。そして、戦時には峨鍈軍の一員として戦うことを条件に、当面の食料と田畑を彼らに与えて、この叛乱を鎮めたのであった。
(あの時、俺は素直にこいつを凄いと思ったんだ)




